(2) 9世紀はじめの下総国

物語の舞台となる下総国しもうさのくには以下のようになっていた。 Fig.68: 9世紀はじめの下総国

国界は以下のとおり。

武蔵・下総

古代の利根川の本流はここを流れ、武蔵むさしと下総を分けていた。

ⒷⒸ

下総・常陸

古代の川の本流はここを流れ、常陸ひたちと下総とを分けていた。ただし、Ⓒの部分だけ9世紀はじめの流路と国界は一致しない。続日しょくにほんじんけいうん2年(768) 8月19日の記事に、

Fig.643: 続日本紀 第29巻 明暦3年(1657) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)

下総国もうさく「天平宝字二年に本道の使正六位下 藤原朝臣あそんじょうべん等、つぶさに毛野川を堀り防ぐべきのさましるして官に申し、ちょうきょすでおわりて其の後すでに七年を経たり。常陸国のうつしを得るに曰く『今官符を被りてまさに川を掘らんと欲す。其の水道を尋ぬるにまさに神社をけっすべし。加以しかのみならず、百姓の宅損ずる所少なからず。ここもっさまつぶさにして官に申す。宜しく掘ることなかれ』と。てえればこれ頻年洪水ありて損決すること日に益す。し早く掘り防がずんば、恐らくはきょせんほうまいして一郡の口分二千余田、長く荒廃ならん」と。ここおきて両国に仰せて掘らしむ。下総国結城郡 小塩郷 小島村より常陸国 新治郡 川曲郷 受津村に達する一千余丈。其の両国の郡堺はまた旧川を以て定とし、水にしたがいて移し改むることを得ず。
(下総國言、天平寶字二年、本道間民苦使正六位下藤原朝臣淨弁等、具注應掘防毛野川之狀申官、聽許已訖其後已經七年。得常陸國移曰、今被官符方欲掘川。尋其水道當次神社。加以、百姓宅所損不少。是以具狀申官。宜莫掘者此頻年洪水損決日益。若不早掘防、恐渠川崩埋一郡口分二千餘田長爲荒廢。於是仰兩國掘。自下総國結城郡小鹽郷小嶋村達于常陸國新治郡川曲郷受津村一千餘丈、其兩國郡堺亦以舊川爲定不得隨水移改)

とあって※1、洪水の被害を軽減するため流路が変更されたが国界は古い流路のままとされた、という。これがⒸの部分にあたる※2

Fig.187: 鬼怒川曲流部跡の地形

下総・常陸

この一帯では、縄文海進の名残といえる広大な内海 (内湾) が下総国と常陸国とを隔てていた。

縄文海進は有楽町海進ともいい、最終氷期 (2.7〜1.1万年前) のあと海水面の上昇により海が陸地の奥まで入り込んだ現象をいう。海水面は現在よりも2〜3メートル高く、そのピークは 7300〜7000年前とされる※3。現在の標高でいえば、関東平野の低地部ではおおむね10メートルまでが海だったと推定されているが、房総半島南端では20メートルを超える。ただしこれは隆起速度の差であって、どちらにせよ当時の海水面が現在より 10メートル (あるいは 20メートル) も高かったわけではない。

Fig.078: 縄文海進: 7300〜7000年前

その後海水面は安定期を経て下降に転じ、これに陸地の隆起と海・河川による堆積作用が加わって海岸線は後退していった。この過程で残ったが内海である。史料に残された断片的な描写やその後の経過から、ごく浅い汽水湖のような環境だったと考えられる。

下総・下野

西部では利根川・わた川・おもい川が合流する氾濫原に接し、ほかも不安定な低湿地と低い台地が交錯する土地であり、常に水害と隣り合わせのような土地だった。律令制下の国界はかなり漠然と把握されていただろう。復原した国界は、近世までに確定したものから城下町として拡張された部分を除いたものである。

下総・下野

和名類聚抄わみょうるいじゅうしょうに含まれる下総国 ゆう郡の結城郷と下野国 さむがわ郡のやま郷が向かい合う構図にあって、それぞれが位置する台地と台地の間、飯沼上流部の低湿地が国界として把握されていた。

下総・上総

台地上の原野が不明瞭な国界になっていた。

Fig.076: 標高59メートル以下を強調した地形図

これは標高56メートル以下を強調して示した地形図である。標高56メートル以上と0メートル以下の分解能はない。ここで可視化されたフラクタルな樹状の微地形をという。台地が長い期間にわたって少しずつ侵食されてできた浅い谷状の地形であり、縄文海進の進行によって溺れ谷となったあと、その谷底には堆積によって平坦な低湿地が形成された。このような低湿地は保水性が高い上、湧水によって安定的な水利を得られるため、古くから水田 (谷津田) に利用されてきた※4。Ⓖでは、下総・上総かずさの両国とも谷津の奥までをそれぞれの領域と認識し、谷の末端と末端が向かい合うあたり、山地においては尾根といえるあたりが不明瞭な国界として認識されていた。

なお一般に谷津はと同一視される。しかし、筆者の感覚ではこれらは異なるものを指しているように思える。関東地方でいえば、谷津は下総・上総のような孤立した標高の低い台地にみられ、谷底がほとんど平坦なもの、谷戸は武蔵・相模のような後背に丘陵地・山地を持ち、標高も高い台地にみられ、勾配があってしばしば階段状になるもの、といった感じである。谷地はもっと漠然と窪地も含めて言葉であって、地域的には東北・北海道に多いように思える。もっとも、どれも自然発生的に生まれ、生活・文化に強く結びついてきた言葉であって明確な区別は難しいのかもしれない。

九十九里平野では、栗山川が下総国と上総国を分けていた。栗山川は大河川ではないが、九十九里平野ではもっとも大きい。

❉1: 訓読・読み仮名は『国文六国史 第4』(1935)・『完訳・注釈 続日本紀 巻第23〜巻第29』(1987)・『続日本紀 上』(1992, 宇治谷) などを参考にした。原文の句読点は筆者が補った。
❉2: 『結城市史 第4巻 古代中世通史編』(1980)・『八千代町史 通史編』(1987) に詳しい論考があり、『村史 千代川村生活史 第5巻 前近代通史』(2003) で総括されている。
❉3: 『日本の地形4 関東・伊豆小笠原』(2000)。
❉4: ただし湧水は水温が低く日照も限られ、また地形上の制約も大きい。このためすべて水田にできるわけではなく生産性も低い。