❖その他の変更

明治32年(1899) の法律第4号 (2月7日付、官報 2月8日) ではほかにも千葉・茨城県境の変更があり、利根川の南北に生じていた飛地が解消された。ただし国(クニ) の観点では下総国の中で完結し、国界は変動していない。

[千葉県から茨城県]

➤千葉県 東葛飾郡 二川村のにっきりさくの利根川以北※82

現在でも新田戸・桐ケ作は千葉県 野田市と茨城県 境町の両方に存在する。藺沼またはその周辺の低湿地を開発した部分が、最終的な河道をもって分割されたようだ。

➤千葉県 東葛飾郡 二川村 うちの利根川以北※83

現在でも古布内・木間ケ瀬は千葉県 野田市と茨城県 坂東市の両方に存在する。経緯は新田戸・桐ケ作と同じ。

➤千葉県 東葛飾郡 我孫子町の青山の利根川以北※84

現在の千葉県 我孫子市から茨城県 取手市への編入である。近世 下総国 相馬郡の大鹿村・取手村・青山村の間で堤外地の中洲やそれに近い部分が入会地になっていた※85。その一部と考えられるが、取手市に移った部分は現在は河川敷・河道になっていると思われ、地名を確認することはできない。

➤千葉県 東葛飾郡 布佐町の布佐の利根川以北※86

現在の千葉県 我孫子市から茨城県 利根町への編入である。迅速測図によれば、布川の側に草地・砂地が発達している。堤外地・流路の形状からいえば布川の側が削られる一方、布佐の側は浅瀬が乾燥化、利用可能な土地が増えたと思われ、ここに削られた部分の代替として要求された布佐の流作場か草苅場 (秣場・茅場など) があったのではないかと推定される。利根町に移った部分は現在は河川敷になっていると思われ、地名を確認することはできない。

[茨城県から千葉県]

➤茨城県 猿島郡 中川村の長谷・小山・莚打の利根川以南※87

現在でも長谷・小山・莚打は千葉県 野田市と茨城県 坂東市の両方に存在する。ただし長谷・莚打は狭小地で、うち長谷は区画から判断できるが、河川敷・堤防部分であって家屋はなく、地名は直接的には確認できない。経緯は新田戸・桐ケ作と同じ。

➤ 茨城県 北相馬郡 稲戸井村 稲・同 取手町 取手の利根川以南※88

現在の茨城県 取手市から千葉県 我孫子市への編入である。経緯は我孫子市から取手市への編入と同じと思われる。この付近には近世末まで広大な沼沢地が残っていた。我孫子市に移った部分は現在は河川敷・河道になっていると思われ、地名を確認することはできない。

❖下総国旧事考・下総国輿地全図

下総国しもうさのくに旧事考きゅうじこうせいみやひでかた著の下総国の地誌、下総国輿地全図はその付図。弘化2年(1845) の成立、清宮秀堅は佐原の名主・学者。輿地全図単体としては国文学研究資料館が所蔵・公開するものが解像度が高く、内容を検討しやすい。

❖利根川図志

利根川沿岸の地誌、赤松そうたん著、記述は中利根・下利根 (現在の茨城・千葉県境付近を流れる部分) が中心。 安政2年(1855) の自序があり、嘉永5年(1852) までに成立、安政5年(1858) に刊行※89。赤松宗旦はかわ (現在の茨城県 利根町 布川、千葉県 我孫子市 の対岸) の医師・学者。木版で刊行されているため所蔵は多いが、うち早稲田大学図書館で所蔵・公開されているものは、赤松自身が所蔵・書き入れを行っていた刊本と同一、または同系統のものとされる。

❖五箇村利根川沿岸絵図

明治4年に作成された絵図。「五箇村」は近世 下総国 香取郡の小浮村・野馬込村・松崎新田・高岡村・猿山村。廃藩置県とそれに続く府県再編の混乱期にあって、のちの地租改正や河川行政を睨んでか、五箇村に接する堤外地の区割を反別・用途・帰属を詳細に記載している。下総町史 史料集 別巻 村絵図集成(1993) 所収。

❖神崎庄所課祭礼物注文

「香取文書」などと総称される、香取神宮や旧社家などに伝わる文書群に含まれる史料のひとつ。奥書には至徳2年(1385) のものを写した旨の記載がある。「香取社の神崎庄内神御祭礼事 (香取社之神崎庄內神御祭禮事)」にはじまり、祭礼に関係する神崎庄内の分担が記載されている。本稿では「千葉県史料 中世篇 香取文書」(1957) 所収のものを参照した。

❖大慈恩寺文書

大慈恩寺 (成田市に現存、雲富山大慈恩寺) が所蔵する文書群。本稿では「下総町史 原始古代・中世編 史料集」(1990) 所収の応永33年(1426) 左衛門尉朝信置文・前備中守奉書・大慈恩寺領坪付注文・文書紛失状案、永享11年(1439) 胤直紛失安堵状、元亀4年(1573) 尾張守政朝置文を参照した。どれも寺領の村々が記載されている。

❉82: 原文「千葉縣下總國東葛飾郡二川村大字新田戶ノ内大字桐ケ作ノ内中利根川以北ヲ茨城縣下總國猿島郡森戸村二編入ス」。
❉83: 原文「千葉縣下總國東葛飾郡二川村大字古布内ノ内中利根川以北及千葉縣下總國東葛飾郡木間ケ瀬村大字木間ケ瀬内中利根川以北ヲ茨城縣下總國猿島郡長須村ニ編入ス」。
❉84: 原文「千葉縣下總國東葛飾郡我孫子町大字青山ノ内中利根川以北ヲ茨城縣下總國北相馬郡取手町ニ編入ス」。
❉85: 取手市史 近世史料編3(1989)・同 通史編2(1992)。ほか渡船業や治水など、この 3村は関係が深い。他村も加わる場合がある。
❉86: 原文「千葉縣下總國東葛飾郡布佐町大字布佐ノ内下利根川以北ヲ茨城縣下總國北相馬郡布川町ニ編入ス」。
❉87: 原文「茨城縣下總國猿島郡中川村大字長谷ノ内大字小山ノ内及大字莚打ノ内中利根川以南ヲ千葉縣下總國東葛飾郡川間村ニ編入ス」。
❉88: 原文「茨城縣下総國北相馬郡稻戶井村大字稻ノ内中利根川以南及茨城縣下総國北相馬郡取手町大字取手ノ内中利根川以南ヲ千葉縣下総國東葛飾郡我孫子町ニ編入ス」。
❉89: 原本現代訳 利根川図志(1980, 津本)。