○(参考) 岡山県➡兵庫県: 昭和38年(1963)

昭和38年(1963)※18岡山県 日生ひなせ町のうちふくうら地区 (大字福浦) の過半 (以下、編入地区、と呼ぶ) は兵庫県 赤穂市に編入された※19。編入地区は近世 ぜん国 和気郡 福浦ふくら村と福浦新田にあたる。したがって、これらの 3村については形式上、備前国から播磨はりま国へ移ったことになる。もちろんこの時点で国(クニ) は用いられておらず、これは「昭和の大合併」において発生した都府県境をまたぐ合併 (編入) に過ぎない。なお近代の大字福浦は近世の寺山新田も含み、編入されなかった部分はこの寺山新田にあたる。 Fig.113: (参考)岡山県➡兵庫県: 昭和38年(1963)ほかの分離合併 (編入) の事例と同様、ここでも住民間の激しい対立を生み、事態は紛糾した。また、当初は話し合いであったのが、感情のもつれから次第に先鋭化・暴力化した状況も基本的に同じである。本件では、福浦地区を含む福河村 (近世 福浦村・福浦新田・寺山新田・寒河そうご村・中日生村) と旧・日生町が昭和30(1955) 合併 (新設) した際、福浦地区の将来の分離可能性を認める付帯事項が協定書から無断で削除されていた※20ことが問題を急激に悪化させた。また海面の利用権が関係することも本件を複雑化される要因になった※21

地形的には福浦地区は三方を山に囲まれ、東西どちらも地形は連続していない。古くは両方向の交流とも特段の差異はなかったようだが、都市化が進むに従って経済的にも文化的にも赤穂市との結びつきが強まったようだ。大阪の吸引力も影響したかと思われる。

❖備前福河駅

鉄道の駅名は、ほかと重複・類似する場合に旧国名で区別されることが多い。赤穂あこう線のぜんふくかわ駅も、起点・終点で接続する山陽本線にふくがわ駅があったことから「福河駅」ではなく「備前福河駅」になったと思われ※22、そこがかつて備前国だった記憶をささやかに留めている。

❉18: 昭和38年(1963) 9月1日付。
❉19: 日生町誌(1972)・岡山県史 第13巻 現代1(1984)・赤穂市史 第3巻 近現代通史(1985) など。
❉20: 日生町誌(1972)。
❉21: 赤穂市史 第3巻 近現代通史(1985)。
❉22: ほぼ間違いないが、直接または行政資料など信頼性の高い資料は見当たらない。
❖天保郷帳・国絵図の村々

近世 備前国 和気郡

34. 福浦ふくら※1
34a. 寺山新田※2
35. 福浦新田
73. 日生ひなせ※3
74. 寒河そうご※4
74a. 中日生※5※6
❉1: [中世〜織豊期] 文安2年(1445): 「福ら」「ふくら」「福浦」(兵庫北関入舩納帳)。
❉2: 天保郷帳には含まれない。国絵図では「福浦村之内」と付記される。
❉3: [中世〜織豊期] 文安2年(1445): 応永21年(1414): 「備前国新田新庄」の「日生」(備前国新田新荘参詣者交名願文、岡山県史 第19巻 編年史料,1988)、ほか。
❉4: [古代] 霊亀元年(715)〜養老5年(721): 「備前国邑久郡方上郷寒川里」(平城宮跡出土木簡、岡山県史 第19巻 編年史料,1988)。
❉5: [中世〜織豊期] 文安元年(1444): 「中日生村」(備前国新田新荘熊野参詣者交名願文、岡山県史 第19巻 編年史料,1988)。
❉6: 天保郷帳には含まれない。国絵図では「寒河村之内」と付記される。
❖兵庫北関入舩納帳の福浦

兵庫北関入舩納帳はぶんあん2年(1445) 正月〜同3(1446) 年正月にかけて兵庫北関で記録された関税の徴収簿であり、船籍地・積荷・船頭・業者などの情報が載っている※7。この中に「福浦」「福ら」「ふくら」「フクラ (フクノ)」と付記された船頭が延べ9名おり、すべて船籍地は「室」、業者は「豊後屋」で一致するので、同一の「福浦ふくら」居住の船頭と判断できる。「フクラ (フクノ)」は翻刻では「フクノ」となっているが、上図 (実物の写真) では「ノ」の上部が欠けているので「ラ」とも読め、船籍地などの内容はほかと共通するので「フクラ」とした。

1月8日「福ら」の五郎太郎 (室・大豆・豊後屋)
8月25日: 「フクノ」の千代松 (室・小イハシ・豊後屋)
9月12日: 「ふくら」の五郎三郎 (室・小イハシ・・豊後屋)
9月22日: 「ふくら」の左衛門四郎 (室・小イハシ・豊後屋)
10月3日: 「ふくら」の衛門五郎 (室・マツ・豊後屋)
11月11日: 「ふくら」の兵衛太郎 (室・ナマコ・豊後屋)
11月16日: 「福浦」の長松 (室・小イハシ・豊後屋)
11月18日: 「ふくら」の五郎三郎 (室・小イハシ・豊後屋)
11月26日: 「ふくら」の 左衛門次郎 (室・小イハシ・豊後屋)

※船頭および括弧内は船籍地・品目・業者。数量・関税額 (付記も含む) は省略。

福浦 (ふくうら/ふくら) という地名は比較的多い地名であり、付近には近世 備前国 和気郡 福浦村のほかに淡路国 三原郡 福良浦 (現在の兵庫県 南あわじ市 ふく甲・同乙・同丙) がある。一方、船籍地の室 (ムロ) についても、近世 播磨国 いっ西さいむろ (現在の兵庫県 たつの市 御津町室津) と淡路国 津名郡 室津浦・室津村 (現在の兵庫県 淡路市 室津) があるが、納帳ではほかに「室津」があって「淡路斗」という単位が使用されていることから、室は播磨の室津であることがわかる。播磨の室津は室津村でも室津浦でもなく室津であるので (天保郷帳)、室とも呼べる (『津』が接尾辞)。したがって、福浦 (ふくうら/ふくら) についても至近にある備前の福浦村ということになる。

福浦の港は風待ち・潮待ちに適しており、船乗りを生業とした者もいたとみられる※8。そうした者たちは、納帳に記載された人名がほとんど毎回異なることと居住地の付記があることから、その都度雇われたものと考えられ、船荷も基本的に当地のものではないかと推定される。福浦では松の伐採・売却が行われ、大豆も栽培されていた※8。なお、ほかに備前国 児島郡 福浦村 (現在の岡山県 玉野市 かんの一部) があったが、この福浦村は田井村の飛地で天保郷帳には含まれず、農業と塩業を中心とした小さな村であり、また江戸期の新田である※9

❖福浦の中世・近世

江戸期の福浦は基本的に岡山藩領だったが、それまでは南北朝期以降、赤松氏の支配下にあったとされ※8、船頭として室津の船に乗り、兵庫まで船荷を運ぶなど播磨とのつながりが示唆される。とはいえ、赤松氏の支配に関して直接の史料は確認できず、兵庫北関入舩納帳には国郡の記載はない (あればそもそも福浦の特定に論考を必要としない)。近世末期 (近代初期) の福浦村の自認も「新田新庄ニ属ス」※10であり、この新田新庄にゅうたしんしょうが中世荘園にまでさかのぼるのか、近世に広域地名化したものに過ぎないのかはわからないが、基本的に日生と同じ備前国の領域に属してきたとされている。したがって、福浦付近の備前・播磨の国界は近世に入ってから明確化され確定した、という以上のことは何もいえない。

❉7: 兵庫北関入舩納帳(1981)・岡山県立博物館研究報告 15(1994) など。
❉8: 赤穂の民俗 その10 福浦編(1992)。
❉9: 玉野市史(1970/1987)・玉野の地名と由来(1983)。
❉10: 明治12年(1879) 福浦村誌 (和気郡史 資料編 上巻,1981)。「郡村誌」の備前国 和気郡分のために作成されたものかと思われる。