(7) 近代の下総国

主に行政上の要請から、明治18年(1885)・明治28年(1895) 江戸川東西にあった武蔵むさししもうさ両国の飛地が整理されたたあと、明治29年(1896) 中葛飾郡 (近世 下総国 かつしか郡のうち江戸川以西) はすべて武蔵国に編入された。また明治26年(1893)・明治28年(1895)・明治29年(1896)、小貝川以西の一部 (近世 下総国 そう郡の一部) が常陸国に編入され、さらに明治32年(1899) 下総国 下埴生郡 (近世 郡)・香取郡のうち利根川以北・横利根川以西はすべて常陸国 河内郡に編入された。 fig.

○江戸川東西飛地の解消: 明治18年(1885)・明治28年(1895)、および江戸川以西 (中葛飾郡) の武蔵国編入: 明治29年(1896)

明治18年6月30日付の東京府達甲第46号、明治28年3月27日付の法律第24号 (官報 3月30日)、および明治29年3月29日付の法律第40号 (東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法、官報 3月30日) による。 fig.

千葉県 東葛飾郡 ぎょうとく町 大和田・本行徳の江戸川以西:
下総国 (千葉県管轄) → 武蔵国 (東京府管轄)
[明治28年 法律第24号]
(❉2)(❉3)

近世 下総国 葛飾郡の大和田村・本行徳村のそれぞれ一部にあたる。

[大和田の飛地]

位置・範囲は『渡辺知事管内巡回記』(1965)(❉4) における描写 (❉5) と付図から特定した。付図では「大和田トビ地」となっている。 fig.小規模な流路変化により生じた飛地を草苅場 (秣場・茅場など) として利用されていたと考えられ、そのまま現在は河川敷になっていると思われる。

[本行徳の飛地]

位置・範囲は同様に『巡回記』における描写 (❉6) と付図、および「武藏國葛飾郡第拾壹大區縮圖 (武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図)」(❉7) で特定した。付図では「本行徳飛地」、武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図では「行徳飛地」となっている。 fig.

現在 (本稿執筆時点) では王子マテリア江戸川工場や都営南篠崎町五丁目アパートが所在する部分にあたり、区割は当時からほとんど変わっていない。

東京府 南葛飾郡 篠崎村 伊勢屋・上鎌田の江戸川以東:
武蔵国 (東京府管轄) → 下総国 (千葉県管轄)
[明治28年 法律第24号]
(❉8)(❉3)

近世 武蔵国 葛飾郡の 伊勢屋村・上鎌田村 のそれぞれ一部にあたる。厳密な位置・範囲は不明だが、『巡回記』における描写 (❉9) と迅速測図原図から読み取れる地形から推定した。 fig.成因・状況とも大和田の飛地と変わりなく、その後は河川敷となったか、または江戸川 (江戸川放水路) の河道になったと考えられる。

千葉県 東葛飾郡 南行徳村 欠真間の前野・妙見島:
下総国 (千葉県管轄) → 武蔵国 (東京府管轄)
[明治28年 法律第24号]
(❉10)(❉3)

近世 下総国 葛飾郡 欠真間村の一部にあたる。

[前野]

武蔵国 葛飾郡 前野村に点在していた、下総国 葛飾郡 欠真間村の飛地が該当する。位置や範囲は不明だが、村内に点在していたとされ (❉11)、いずれにせよ具体的に示すことは困難と思われる。

『巡回記』によれば、当地の所属がはっきりしていなかったころに欠真間村が開発した結果、飛地になってしまったという (❉12)。欠真間村が含まれる行徳領では「湊村」、またはその一部である「湊新田」の一部として扱われていた (❉13)。

『巡回記』の付図では、前野村・当代島村付近に「欠マヽ村トビ地」とあるが範囲は示されていない。武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図では、前野村の村名表記の横に「チバケン」と記載された正方形が記号的に置かれている。

[妙見島]

「妙見島」として現存する江戸川 (旧江戸川) の中洲。なお、少し上流にも中洲があるが (武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図では『チバケン』と記載されている。妙見島は『千葉縣』)、この中洲は下総国のまま経過し、その後消失した (❉14)。 fig.

同 滝沢:
下総国 (千葉県管轄) → 武蔵国 (東京府管轄)
[明治18年(1885) 東京府達甲第46号]
(❉15)(❉3)

位置・範囲は武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図から特定した。同図では単に「チバケン」とあってどの村の飛地か明示されていないが、滝沢の編入先は下鎌田村・当代島村であることから判断できる。本行徳の飛地と同様、ここも区割が当時からほとんど変わっていない。

千葉県 東葛飾郡 浦安村 堀江ノの江戸川以西:
下総国 (千葉県管轄) → 武蔵国 (東京府管轄)
[明治28年 法律第24号]
(❉16)(❉3)

近世 下総国 葛飾郡の 堀江村の一部にあたる。明治28年(1895) の江戸川東西飛地の解消ではもっとも面積が大きく、迅速測図原図でも「堀江村飛地」と明示されている。江戸川河口に形成された三角州であり、「堀江新田」とも呼ばれていた (❉17)。現在は陸続きだが、この三角州を分けていたかつての江戸川河口分流のひとつ (古江戸川) は大半が左近川 (❉18) として現存する。

❉2: 原文「千葉縣東葛飾郡行德町大字大和田ノ内大字本行德ノ内江戸川以西ハ東京府南葛飾郡篠崎村ニ編入ス」。
❉3: 法律第24号の上では郡名だけ記載されているが、南葛飾郡は武蔵国、東葛飾郡は下総国である。
❉4: 明治18年(1884) の水害を受けて、またこれをきっかけに周辺地域を東京府知事が巡回した記録を集成したもの。以降、必要なければ『巡回記』と略記する。
❉5: 「千葉県大和田村飛地ヲ一間ス、此反別凡五町歩」。
❉6: 「千葉県下本行徳駅ヨリ西岸ヘノ飛地ニ属スル堤防長六百間程有り」。
❉7: 大区小区制時期の地図。江戸川区史 第1巻(1976) 所収。
❉8: 原文「東京府南葛飾郡篠崎村大字伊勢屋ノ内大字上鎌田ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡行德町ニ編入ス」。
❉9: 「伊勢屋村地内ヨリ東岸千葉県行徳川原村地先ニ渡リ上鎌田村并伊勢屋村飛地ヲ一見ス、此所ヨリ対岸我管内ノ地ヲ一見スレハ地勢稍低キヲ覚ユ、伊勢屋村分八反歩上鎌田村分壱町弐反歩程ナリ」。
❉10: 原文「千葉縣東葛飾郡南行德村大字欠眞間ノ字前野及字妙見島ハ東京府南葛飾郡瑞穗村ニ編入ス」。
❉11: 『巡回記』によれば「前野村地内ニ点在スル千葉県欠真間村飛地ヲ一見ス、該地反別六反壱畝三歩」。
❉12: 「元禄年中検地ノ際、此地ヲ所有セシモノナク、適マ欠真間村ノ人民其案内ヲナシタルモノ自己ノ所有ナル旨申立、検地ヲ受ケタルニ起因シテ飛地トナリシト言伝フル」。
❉13: 宝暦6年(1756) 本行徳村の名主による書き付けには「当代嶋・大和田・稲荷木・前野右四ケ村者元禄十五午年平岡三郎右衛門様御支配御検地」(中略)「但前野村者葛西領ニ罷成不勝手故当時湊新田分ニ罷成候」(市川市史 第6巻 史料 近世 上,1972)、葛西誌略 (改訂房総叢書 第3輯,1959) には湊村の記述に「當村に前野分という所有り」とある。
❉14: 1万分の1 地形図「小松川」の昭和12年(1937) 版では確認できるが、昭和35年(1960) 版では確認できないので、この間に消失したものと考えられる。詳細な時期や経過は不明。
❉15: 原文「千葉縣東葛飾郡欠眞間村飛地瀧澤八畝十六歩を南葛飾郡下鎌田村へ同二町六畝十一歩を同郡當代島へ編入す」(東京府史 行政篇 第1巻,1935)。
❉16: 原文「千葉縣東葛飾郡浦安村大字堀江ノ内江戸川以西ハ東京府南葛飾郡葛西村ニ編入ス」。
❉17: 浦安町誌 上(1969) による。浦安町は現・千葉県浦安市。
❉18: 旧江戸川分流地点から海岸水門橋まで。流路に沿って緑道 (左近川親水緑道)が整備されている。海岸水門橋より西、新左近川親水公園として整備されている部分は放水路、のち公園の一部として整備された「新左近川」であり、無関係。
埼玉県 北葛飾郡 八木郷村 大膳・一本木・くち・徳島・小向の江戸川以東:
武蔵国 (埼玉県管轄) → 下総国 (千葉県管轄)
[明治28年 法律第24号]
(❉19)(❉20)

fig. 近世 武蔵国 葛飾郡の大膳村・壱本木村・樋口村・徳島村・小向村のそれぞれ一部にあたる。

[大膳・一本木の飛地]

位置・範囲は、大膳村地誌取調書上帳・大膳村麁絵図をもとに大膳の飛地を特定し、これに地形や位置関係を考慮して一本木の飛地を推定した。

文政6年(1823) の大膳村地誌取調書上帳 (❉21) によれば、江戸川の曲流部を宝永2年(1705) に改修した際、およそ 1.5ヘクタールが飛地になってしまったといい (❉22)、大膳村 (❉23) にも具体的に描かれている。堤外地の不安定な流作場であり、別の大膳村絵図 (❉24) によれば「字中嶋」と呼ばれていた。 fig.

一本木村でも、やはり宝永2年(1705) の改修によって飛地が生じたという (❉25)。この飛地について大膳の飛地 (字中嶋) と同精度の情報は得られないが、以下に示す状況から、同じ対岸堤外地の残余 (南半分) にあたると考えられる。

大膳・一本木の村界はそのまま同村飛地に続いている (大膳村麁絵図・大膳村絵図)。これを迅速測図から読み取れる地形にあてはめると、大膳の飛地 (字中嶋) やこれ以外にあったかもしれない草苅場 (秣場・茅場など) を合わせても対岸堤外地の全体ではない。

一本木の飛地も大膳の飛地 (字中嶋) と同様、下総国 葛飾郡の主水もんど新田と接していた (❉26)。主水新田との位置関係を考えると、一本木の飛地は本体 (飛地以外) から見て北東にある必要がある。

堤外地の流作場と仮定した場合、江戸川流路や堤、南に近接する反対方向の旧曲流部 (後述) との位置関係からほかに余地がない。大膳の飛地 (字中嶋) が堤外地の流作場であることと一本木村の規模からいっても、対岸の堤内地に耕地があったとは考えづらい。

fig.

一本木の飛地も大膳と同様に不安定な流作場だったか、草苅場 (秣場・茅場など) だったと推定される。どちらも現在は河川敷になっていると考えられる。

[樋野口・徳島・小向の飛地]

享保16年(1731) に曲流部が直線化されたことで生じた。この飛地は範囲が広く、迅速測図原図のほか、現在の地図でも区割から明瞭に判別できる。基本的に樋野口が代表地名であり、現在の飛地部分も地理院地図では「樋野口」とだけある。それぞれ分村によって成立した経緯や虫食い的な新田開発によって、この付近の村々は入り組みが激しい。徳島・小向については、樋野口の地内にあった小区画だったと考えられる。

新編武蔵風土記稿では「樋ノ口村」に、流路が村の中央を貫流し分断した、とあって規模の大きさを示唆している (❉27)。「小向村」でも川向に 10戸の民家があったとされている (❉28)、「徳島村」には直接の言及はないが「小向村」に、徳島村との入り組みについて言及がある (❉29)。その入り組みの錯綜状況は近代はじめまで尾を引いて、地租改正の際、徳島村は樋野口村ともめた (❉30)。なお、その記述や村の規模 (徳島村は小向村の半分程度)、新編武蔵で触れられていないことからいうと、徳島村については草苅場 (秣場・茅場など) か不安定な流作場だけだったと考えられる。

埼玉県 北葛飾郡 早稲田村 岩野木の江戸川以東:
武蔵国 (埼玉県管轄) → 下総国 (千葉県管轄)
[明治28年 法律第24号]
(❉31)(❉20)

近世 武蔵国 葛飾郡の岩野木村の一部にあたる。位置・範囲は迅速測図原図で明示されているその時点の国界 (変動前の国界) から特定した。 fig.

経緯はⒻの大膳・一本木の飛地と同じであり、宝永2年(1705) の流路改修によって飛地が生じた (❉32)。

千葉県 東葛飾郡 馬橋村 外河原の江戸川以西:
下総国 (千葉県管轄) → 武蔵国 (埼玉県管轄)
[明治28年 法律第24号]
(❉33)(❉20)

近世 下総国 葛飾郡の外河原村の一部にあたる。位置・範囲は迅速測図原図で明示されているその時点の国界 (変動前の国界) から特定した。Ⓕの大膳・一本木の飛地とⒼの間にある、両者とは反対方向の旧曲流部が該当する。同様に宝永2年(1705) の流路改修が要因 (❉34)。

千葉県 東葛飾郡 明村 古ケ崎の江戸川以西:
下総国 (千葉県管轄) → 武蔵国 (埼玉県管轄)
[明治28年 法律第24号]
(❉35)(❉20)

近世 下総国 葛飾郡の古ケ崎村の一部にあたる。位置・範囲は迅速測図原図で明示されているその時点の国界 (変動前の国界) から特定した。Ⓕの大膳・一本木の飛地の南に近接する、反対方向の旧曲流部が該当する。位置関係から、やはり宝永2年(1705) の流路の改修によると推定される。

なお迅速測図原図では、Ⓗの旧曲流部付近とは別にこの旧曲流部にも「外河原村」の表記がある。外河原村は村名からいってもⒽ・Ⓘおよびこれをつなぐ堤外地に細長い村域を持っていた可能性も否定できないが (2箇所がまとめて把握されてかまわない)、以下により混乱と判断した。

地理的にかなり離れており、間に主水新田・伝兵衛新田が介在する。8石余 (天保郷帳)・戸数9 (❉36) の村としては考えにくい。また迅速測図で確認する限りⒽの旧曲流部付近の家屋数で戸数9を満たしているように見える。

新編武蔵風土記の各村東西南北の説明として外河原村に言及があるのは「岩野木村」と「市助村」(Ⓗ対岸) に限られ (❉37)、「一本木村」や「横堀村」「長戸呂村」(Ⓘ対岸) にはない。

八木郷村編入後の大字外河原・大字古ケ崎は、翌明治29年(1896) それぞれ別の大字の一部となって消滅した。このときの編入先は、外河原が市助 (Ⓗ対岸)、古ケ崎が一本木・長戸呂 (Ⓘ対岸) (❉38)。

❉19: 原文「埼玉縣北葛飾郡八木鄕村大字大膳ノ内大字一本木ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡馬橋村ニ大字樋野口ノ内大字德島ノ内大字小向ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡明村ニ編入ス」。
❉20: 法律第24号の上では郡名だけ記載されているが、北葛飾郡は武蔵国、東葛飾郡は下総国である。
❉21: 三郷市史 第2巻 近世史料編1(1990) 所収。
❉22: 原文「反高流作場四町五畝拾五歩」(中略)「右之内壱町五反四畝拾弐歩飛地、是ハ下総国小金領主水新田村地所附ニ御座候処、宝永二酉年江戸川瀬大曲相成候ニ付、新規堀割被仰付候ニ付、飛地相成申候」。
❉23: 三郷市史 第2巻 近世史料編1(1990) 所収。モノクロかつ口絵のため判読しづらいが、ここで必要な情報を得るには支障ない。
❉24: 三郷市史 第6巻 通史編1(2005) 所収 (翻刻版)。
❉25: 新編武蔵風土記稿の一本木村に「又主水新田の内に飛地あり、元は地續なりしか寶永二年江戸川堀替の後對岸となる」とある。
❉26: 新編武蔵風土記稿では「主水新田の内」とあるが、成因からいって正確には主水新田とは接していただけと考えるのが合理的。過半を主水新田に取り囲まれ、あるいはさらに江戸川の流路に囲まれている状況を「主水新田の内」と表現しているのではないかと思われる。
❉27: 原文「古は江戶川東界を流しを、享保十六年堀替ありしより、今は水流村の中央を貫きて村蕗兩岸に分てり」。
❉28: 原文「江戸川の對岸に飛地あり、是は享保十六年江戸川堀替て直流せしめし時より川向となれるなり、彼所にも民戸十軒住せり」
❉29: 原文「耕地は樋口長戸呂德島等に入會ひ」。
❉30: 三郷市史 第4巻 近代史料編(1993) 所収の「夢物語」(明治10年,1877) に顛末が記録されている。
❉31: 原文「埼玉縣北葛飾郡早稻田村大字岩野木ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡流山町ニ編入ス」。
❉32: 新編武蔵風土記稿の「岩野木村」に「江戶川の對岸木村に接して飛地あり、是も寶永二年川路堀替の後よりかく成來れりと云」とある。
❉33: 原文「千葉縣東葛飾郡馬橋村大字外河原ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡八木鄕村ニ編入ス」。
❉34: 位置関係および松戸市史 中巻 近世編(1978) による。
❉35: 原文「千葉縣東葛飾郡明村大字古ケ崎ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡八木鄕村ニ編入ス」。
❉36: 壬申戸籍の集計・明治5年(1872) 時点、松戸市史 下巻1 明治篇(1964)。なお、同 史料編5 秋谷家文書 下・八柱誌(1988) 所収の「請願巡査課出簿」によれば、明治15年(1882) 時点で戸数10。
❉37: 原文、岩野木村「南は同郡外河原村の飛地」、市助村「東は江戶川に限り、對岸下總國葛飾郡外河原村」。
❉38: 埼玉県市町村誌 第18巻(1979)。
中葛飾郡:
下総国 (埼玉県管轄) → 武蔵国 (埼玉県管轄)
[明治29年 法律第40号]

fig. 近世はじめ、下総国 葛飾郡は分割され、ごうはん領・まつぶし領・さっ領・しまなかかわ領にあたる部分は武蔵国 葛飾郡となったが、正保元年(1644) までに「新川」が開削され、その後「利根川」とみなされるようになっても国界が変更されることはなかった。

この意味において近世はじめの国界変更は、武蔵・下総の国界は利根川でなければならない、といったような牧歌的な理由からではない。中世的な領国支配がまだ残るなか、幕府のいわば領国である武蔵国が拡張されただけ、あるいは、幕藩体制の確立途上に支配区分と連動して地方区分 (国界) まで変わってしまっただけ、と考えるほうが適切だろう。その後、利根川も「江戸川」と呼ばれるようになり、下総・武蔵の国界は利根川であるという認識も薄れていった。

一方でこの結果、下総国 葛飾郡には江戸川によって地理的に分断される部分が生じてしまった。これについて、さしあたり行政面の不便を解消するため、明治8年(1875) 下総国 葛飾郡のうち飛地を除く全体が江戸川以西にある村々の管轄は、それまでの千葉県から埼玉県へ変更された (❉39)。ただし、このとき国郡は下総国 葛飾郡のままであり、変わっていない。

明治12年(1879) 郡区町村編制法の施行にともなう葛飾郡の分割によって、埼玉県管轄下の下総国 葛飾郡は「中葛飾郡」となった。残る下総国 葛飾郡のうち、茨城・千葉両県管轄下はそれぞれ「西葛飾郡」「東葛飾郡」、武蔵国 葛飾郡のうち、東京府・埼玉県管轄下はそれぞれ「南葛飾郡」「北葛飾郡」であり、埼玉県管轄下には「下総国 中葛飾郡」と「武蔵国 北葛飾郡」が併存することになった。

その後、明治29年(1896) 郡制施行にともなう廃置分合の過程で、法律第40号により「下総国 中葛飾郡」は「武蔵国 北葛飾郡」に統合され、あらためて「武蔵国 北葛飾郡」となった (❉40)。これによって、近世 下総国 葛飾郡のうち飛地を除く全体が江戸川以西にあった村々は武蔵国に所属することになり、国界はさらに東へ移った。ただしこの目的はあくまでも郡の統合であって、国の所属や国界は結果的に変わっただけである。

埼玉県 中葛飾郡 金杉村 大字金杉の江戸川以東:
下総国のまま
(埼玉県管轄 → 千葉県管轄)
[明治28年 法律第24号]

近世 下総国 葛飾郡 金杉村 の一部にあたる。明治28年(1985) 法律第24号により下総国 中葛飾郡 (埼玉県管轄) 金杉村大字金杉の飛地は、下総国 東葛飾郡 (千葉県管轄) 旭村へ編入された (❉41)。その後、明治29年(1896) Ⓙにより下総国 中葛飾郡は武蔵国 北葛飾郡に統合されて武蔵国となった。このため、金杉村大字金杉も武蔵国に所属することになったが すでに下総国 東葛飾郡 (千葉県管轄) 旭村へ編入されていた飛地は下総国のまま変わらなかった。

位置・範囲は現在の野田市 金杉による。金杉村には東方の柳沢村に 12.8ヘクタールほどの林があったといい (❉42)、現在の野田市 柳沢に接して「金杉」があって面積がおおむね一致する。

成因・用途はほかの飛地とは異なる。金杉村は平坦な低地にあり、稲作には適しているが (天保郷帳で 1,108石余)、薪炭材を採取できるような山林に乏しい。このため、はじめから飛地として確保した林だったとみられる。寛文5年(1665) の「野田町絵図」(❉43) によれば、当時すでに清水村・堤台村 (堤代村)・中野台村 (中之代村)・上花輪村 (花わ村)・野田町は存在し、その向こうはのちに牧 (馬の放牧場)・新田として開墾される原野である。したがって多少距離は離れているものの、横内村近くの林を確保するしかなかったと思われる (横内村も同絵図に存在し、周囲には木々が描かれている)。

千葉県 東葛飾郡 関宿町 向下河岸・向河岸の全体と内町の一部 (江戸川以西):
下総国 → 武蔵国
[明治29年 法律第40号]
(
千葉県管轄 → 埼玉県管轄
[明治28年 法律第24号]
)

明治28年(1895) 法律第24号により、下総国 東葛飾郡 (千葉県管轄) 関宿町 の向下河岸・向河岸の全体と内町の一部は下総国 中葛飾郡 (埼玉県管轄) 豊岡村に編入された。その後、明治29年(1896) Ⓙにより下総国 中葛飾郡は武蔵国 北葛飾郡に統合されて武蔵国となった。このため、この部分でも国界はわずかに東へ移動した。

[向下河岸・向河岸]

関宿城下の江戸町 (関宿江戸町) のうち、江戸川 (新川) の開削によって分断された部分を「向河岸」、その南に展開された街並みを「向下河岸」といい、郷帳・国絵図では向下河岸としてまとめて把握され、総称としても向下河岸と呼ばれた (❉44)。 fig.

しかし明治28年(1895) 法律第24号には「千葉県 東葛飾郡 関宿町 大字向下河岸、および大字内町・大字江戸町のうち江戸川以西は埼玉県中葛飾郡豊岡村に、大字江戸町のうち権現堂川以北は茨城県西葛飾郡五霞村に編入する」 (❉45) とあるので、少なくともこの法令上は「大字江戸町」に江戸川以西 (および権現堂川以北) の部分が含まれたままだった。また向下河岸を区別していることから、向河岸がこれに相当するらしい。 fig.

豊岡村に編入後、大字向下河岸・向河岸は統合され「西関宿」となった。変動部分の位置・範囲は現在の幸手市 西関宿による。

[内町の一部]

新川 (江戸川) の開削によって生じた、国界である旧流路との間の狭隘な土地だったと考えられる。現在の野田市 関宿内町に着目すると、南限となる農道は迅速測図原図でも堤として確認できることから、区画はほとんど変わっていないとみなすことができる。その南限をそのまま延長すると、同じく迅速測図原図に描写される対岸の堤外地にかかるので、わずかながらその北端の部分が内町の飛地だったかと推定される。ただし向下河岸・向河岸に何らかの飛地があったのかもしれない。 fig.

❉39: 太政官日誌 明治8年8月29日 (第112号) に「下総葛飾ノ一部移管轄替ノ事」として「其縣管下下總國葛飾郡ノ内、金杉村外四拾貳ケ村、別紙之通埼玉縣ヘ管轄換被 仰付候條同縣ヘ可引渡、此旨相達候事」とある (維新日誌 第10巻,1933)。
❉40: 原文「埼玉縣武藏國北葛飾郡及同縣下總國中葛飾郡ヲ廢シ其ノ區域ヲ以テ北葛飾郡ヲ置キ武藏國ニ屬ス」。
❉41: 原文「埼玉縣中葛飾郡金杉村大字金杉ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡旭村ニ編入ス」。
❉42: 金杉村の項目「飛地」に「本村東方柳沢村の内林」「十二町九反九畝十二歩」とある (武蔵国郡村誌 第15巻,1955)。
❉43: 野田市立図書館の所蔵・公開。山崎村との境界を明らかにするために作成された。
❉44: 関宿志(1973)・西関宿誌(1960)・幸手市史 通史編1(2002)
❉45: 原文「千葉縣東葛飾郡關宿町大字向下河岸及大字内町ノ内大字江戸町ノ内江戸川以西ハ埼玉縣中葛飾郡豐岡村ニ大字江戸町ノ内權現堂川以北ハ茨城縣西葛飾郡五霞村ニ編入ス」。
千葉県 東葛飾郡 梅郷村 今上の江戸川以西:
下総国 (千葉県管轄) → 武蔵国 (埼玉県管轄)
[明治28年 法律第24号]
(❉46)(❉47)

fig.近世 下総国 葛飾郡のいまがみ村の一部にあたる。位置・範囲は迅速測図から特定した。 fig.

Ⓚと同様、下総国 葛飾郡のうち江戸川によって分断された部分だが、時期はやや下る。江戸川 (新川) と庄内古川 (旧流路) の合流地点は、享保14年(1729) に下流へ移され、江戸川は直線化、2つの川は分離された。これによって分断された部分の上流部が当地であり、国界である旧流路と新流路の間の狭隘な中洲状の土地だった。現在は河川敷 (運動公園) になっている。

千葉県 東葛飾郡 新川村 深井新田・平方村新田・なか・北・小屋・上新宿新田・南の江戸川以西:
下総国 → 武蔵国
[明治28年 法律第24号]
(❉48)(❉47)

近世 下総国 葛飾郡の深井新田、平方新田、中野久木村、桐ケ谷北村、北村・小屋村 新田、上新宿新田、桐ケ谷南村のそれぞれ一部にあたる。位置・範囲は迅速測図から特定した。

[深井新田・平井新田の一部]

Ⓜの下流部だが、面積が広く、現在も吉川市の「深井新田」「平方新田」として地名が残る。景観もほとんど変わらず、庄内古川に沿って発達した自然堤防上に家屋が並び、その後背湿地が水田となっている。なお、下総国 葛飾郡 (東葛飾郡) として残った部分は流山市の「深井新田」「平方村新田」である。

[中野久木・北・小屋・上新宿新田・南の飛地]

享保14年(1729) の分離後、江戸川 (新川) と庄内古川 (旧流路) はここの北側で合流していた。その後、寛政12年(1800) に合流地点はさらに下流へ移され、江戸川と庄内古川は分離された。 fig.飛地はこれによって分断された部分であり、時期は異なるものの Ⓛと同様の中洲状の土地だった。現在は河川敷 (運動公園) になっている。

千葉県 東葛飾郡 流山町 三輪野山・加・流山の江戸川以西:
下総国 (千葉県管轄下)→ 武蔵国 (埼玉県管轄下)
[明治28年 法律第24号]
(❉49)(❉47)

近世 下総国 葛飾郡の三輪山村・加村・流山村のそれぞれ一部にあたる。位置・範囲は、おおまかな位置のみ示した。

寛保元年(1741) の「三輪野山村絵図」(❉50) には、江戸川の対岸 (西岸) に「川向下畑」という小さな区画の耕地が描かれている。また明治5年(1872) の「庄内古川絵図」(❉51) にも江戸川の対岸に「下総国葛飾郡三輪野山村畑」と「下総国葛飾郡加村畑」という区画がそれぞれ 2箇所ずつ描かれている (三輪野山村の 1箇所は国郡を省略し『三輪野山村畑』)。 fig.

三輪野山村絵図と同じ寛保元年(1741) の加村郷差出帳によれば、「川向」と肩書きされた 4.6ヘクタール (『苅流し』によって残部は 3.2ヘクタール) ほどの「葭谷」という流作場扱いの新田が存在した。流山については情報が得られないが、三輪山・加と事情が異なるとは考えづらい。

3箇所とも対岸の流路に接した不安定な流作場であることから、流路の変動にともない生じた土地であるとすれば、連続していた土地が分断されて生じたというより代替地と推定される。また新編武蔵風土記稿によれば、対岸の武蔵国 葛飾郡の田中新田は開発に失敗した無住の流作場であることから、流路の変動とは無関係に、その一部として開発に加わった拡張部分である可能性も高い。現在も土地そのものは三郷流山橋付近の中洲の一部として残っている。

❉46: 原文「千葉縣東葛飾郡梅鄕村大字今上ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡旭村に編入ス」。
❉47: 法律第24号の上では郡名だけ記載されているが、北葛飾郡は武蔵国、東葛飾郡は下総国である。
❉48: 原文「千葉縣東葛飾郡新川村大字深井新田ノ内大字平方村新田ノ内大字中野久木ノ内大字北ノ内大字小屋ノ内大字上新宿新田ノ内大字南ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡三輪野江村に編入ス」。
❉49: 原文「千葉縣東葛飾郡流山町大字三輪野山ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡三輪野江村ニ大字加ノ内大字流山ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡早稻田村ニ編入ス」。
❉50: 流山市史 近世資料編1(1987) 所収 (翻刻版)。
❉51: 三郷市史 第6巻 通史編1(1995) 所収 (翻刻版)。
❖政府から府県への布達

明治19年(1886) のこうぶんしき制定以前の法令は、布達・布告・達といった形式や主体は明確化されていても、個々の事案についてはその所轄や決定過程・相互の効力・周知方法はあまり明確でない。

国界の変更についても、明治28年(1895)・明治29年(1896) は法律第24号 (明治28年3月27日付・官報 3月30日) および法律第40号 (東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法、明治29年3月29日付・官報 3月30日) として政府から公布されているが、明治18年(1885) については東京府達甲第46号 (明治18年6月30日付) の根拠となる政府から東京府への通達がどのようなものであったのか、はっきりしない。明治18年6月30日付の官報には「警視庁・東京府 布達」の項目があって、東京府達甲第46号自体が直接的に掲載・布達されている (❉52)。

❖迅速測図・仮製地形図

どちらも明治期のはじめ、「正式測図」に先立って略式の方法で測量した地形図であり、迅速測図は関東地方、仮製地形図は近畿地方のものをいう。測量はそれぞれ明治13〜19年(1880〜1886)・明治17〜23年(1878〜1891)、迅速図・仮製図は略語。近代に入って間もない時期の測量であるため、近世末期の景観がほとんどそのままに記録されている。略式であるのは測量方法だけであり、地図としての完成度はその後の正式図と比較しても遜色ない。

迅速測図の正式名称は「第一軍管 (師管) 地方迅速測図」、発行は「参謀本部陸軍部測量局」または「陸地測量部」、はじめ前者、明治21年(1888) 以降は後者とされる (❉53)。たとえば明治20年(1887) 8月26日出版の「二子村」は「品川及横浜近傍第三号 (第一軍管地方迅速測図)」で発行は「大日本帝国参謀本部陸軍部測量局」(❉54)、「市川駅」は「東京近傍第三号 (第一軍管地方迅速測図)」で発行は「参謀本部陸軍部測量局」(❉55)、明治23年(1890) 再版の「下谷区」は「東京近傍第五号 (第一師管地方迅速測図)」で発行は「陸地測量部」(❉56)。

仮製地形図は「京阪地方仮製地形図」と呼称されることが多いが (一部では『大阪地方〜』)、地形図自体には単に「仮製地形図」としか記載されていない。たとえば「神戸」は「兵庫十五号 (仮製地形図)」(❉57)、「須磨村」は「堺十六号 (仮製地形図)」(❉58)。

なお、名称に縮尺を含める場合、迅速測図は「第一軍管 (師管) 地方2万分の1迅速測図」など、仮製地形図は「京阪地方2万分の1仮製地形図」「京阪地方仮製2万分の1地形図」など。迅速測図 (迅速図)・仮製地形図 (仮製図) とも、広義には明治前期に同様の略式の方法で測量した地形図の総称である。

❖迅速測図原図 (フランス式彩色図)

文字どおりに迅速測図の原図。水彩絵の具で彩色されていることを大きな特徴とする。これはその後採用されなかったフランス方式によるためであり、原図を基にした迅速測図はドイツ方式で製図され、一色刷りで発行された。 fig.

「原図」とそれを整えたものの関係である以上、地形図としての全般的な情報量に関して両者に大きな違いはない。しかし、原図でなければ得られない情報もあり、たとえば植生や低湿地における水域・荒地の表現は迅速測図より多彩であり、また水田と畑地の区別も明瞭なため、低地の微小地形を検討するのに重宝する。もっとも原図という性質上、担当者の違いに起因するばらつきや不整合、また誤りや漏れを含んでいる可能性のほか、正確な意図の不明な表現が存在する、といったようなことには注意しなければならない。また当然ながら、迅速測図を作成する段階で書き加えられている情報は原図には存在しない。たとえば、原図で確認可能な田畑の区画は小道 (農道) で区切られるところまでであり、その内訳 (畔で区切られた最小区画) はわからない。原図で多彩であるのは「表現」であって、「記号」として定式化された情報量は迅速測図のほうがもちろん多い。

一括して覆刻販売されたときの主題は「明治前期手書彩色関東実測図」、のち個別または地区単位で購入可能になったものは「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図」、どちらも副題は「第一軍管地方二万分一迅速測図原図覆刻版」だが、後者は販売形態の関係か、あったりなかったり統一されていない。国土地理院の古地図コレクションにおける総称は「迅速測図原図 (フランス式彩色図)」。

全体の半数ほどには枠外に「視図」と呼ばれる風景・事物のスケッチが描かれている。ほとんどは簡単で小さなものが 1〜2点含まれているに過ぎないが、中には全面にわたって色鮮やかに描き込まれいているものもある。いずれにせよ、当時の景観を復原するに欠かせないものであり、貴重。

❉52: 原文「東京府甲第四拾六號」「千葉縣東葛飾郡欠眞間村飛地字瀧澤段別八畝拾六步當府南葛飾郡下鐮田村ヘ同段別貳町六畝拾壹步同郡當代島ヘ編入ス」。
❉53: 「二万分一迅速測図の内容について」(1979, 清水, 歴史地理学紀要 第21巻)。
❉54: 枠外の上部中央「二子村」、右上「品川及橫濱近傍第三號 (第一軍管地方迅速測圖」、左下「大日本帝國參謀本部陸軍部測量局」、明治14年(1881) 測量・明治18年(1885) 製版・明治20年(1887) 8月26日出版。
❉55: 枠外の上部中央「市川駅」(『市川驛』)、右上「東京近傍第三號 (第一軍管地方迅速測圖)」、左下「參謀本部陸軍部測量局」、明治13年(1880) 測量・明治19年(1886) 製版・明治20年(1887) 8月26日出版。
❉56: 枠外の上部中央「下谷区」(『下谷區』)、右上「東京近傍第五號 (第一師管地方迅速測圖)」、左下「陸地測量部」、明治13年(1880) 測量・明治19年(1886) 製版・明治20年(1887) 8月26日出版・明治23年(1890) 再版。
❉57: 枠外の上部中央「神戸」(『神戶』)、右上「兵庫十五號 (假製地形圖)」、参照したものは明治20年(1887) 製版・左下「大日本帝國參謀本部陸軍部測量局」、別に民間発行者の奥付記載がある。
❉58: 枠外の上部中央「須磨村」、右上「堺十六號 (假製地形圖)」、参照したものは明治19年(1886) 製版・明治21年(1888) 修正・明治24年(1891) 再版・明治31年(1898) 再修正、左下「大日本帝國陸地測量部」、別に民間発行者の奥付記載がある。
❖天保郷帳・国絵図の村々ⒶⒷⒸⒹⒺ (妙見島・堀江村飛地ほか)(❉1)

fig.

近世 武蔵国 葛飾郡

36. 中平井村
38. 逆井さかさい
39. 船堀村 (❉2)(❉3)
40. 宇喜田村 (❉4)(❉5)
41. 長島村 (❉6)
42. 桑川村
43. 二野江村 (❉7)(❉8)
44. 東小松川村 (❉9)
45. 西小松川村 (❉10)
46. 下小松村 (❉11)
51. 松本村 (❉12)
52. しんぼり
53. 西市野江村 (❉13)(❉14)
54. 東市野江村 (❉13)(❉14)
55. 下今井村 (❉15)
56. 上今井村 (❉15)
57. 下鎌田村 (❉16)
58. 当代島村 (❉4)(❉17)
59. 前野村
60. 上鎌田村 (❉16)
61. 河内ごうち
62. 一之江新田 (❉18)
63. 下篠崎村 (❉19)(❉20)
64. 伊勢屋村 (❉21)
65. 上篠崎村 (❉19)(❉20)
66. 鹿ししぼね村 (❉22)
70. さささき村 (❉23)

近世 下総国 葛飾郡

303. 高石神村 (❉24)
310. 鬼越村
322. こう村 (❉25)
323. 田尻村
324. みょうでん村 (❉26)
325. 稲荷木村
326. 大和田村
327. 河原村
328. しん宿しゅく村 (❉27)
329. 本行徳村 (❉28)
330. 加藤新田 (❉29)
331. 儀兵衛新田 (❉29)
332. 関ケ島村
333. 伊勢宿村
334. 押切村
335. 湊村
336. かけ
337. 新井村
338. 当代島村
339. ねこざね村 (❉30)
340. 堀江村
❉1: 武蔵国は武蔵田園簿・正保年中改定図・元禄郷帳・元禄年中改定図、下総国は元禄郷帳・国絵図との対照を含む。
❉2: [新田・分村] 武蔵田園簿・正保年中改定図では「舟堀新田」。
❉3: 元禄郷帳・元禄年中改定図では「舟堀村」。
❉4: [新田・分村] 武蔵田園簿・正保年中改定図では「〜新田」。
❉5: 元禄郷帳・元禄年中改定図では西宇喜田村・東宇喜田村。天保国絵図では「宇喜田村之内」と付記された東宇喜田村がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉6: [中世〜織豊期] 応永5年(1398): 「長島」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文)、永禄2年(1559) 以前: 「葛西 長島高城」(江戸衆 太田新六郎、小田原衆所領役帳)。
❉7: [中世〜織豊期] 応永5年(1398): 「二江」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文)、永禄2年(1559) 以前: 「同 二之江」(同 = 葛西、江戸衆 遠山丹波守、小田原衆所領役帳。
❉8: 正保年中改定図では「二ノ江村」、武蔵田園簿・元禄郷帳・元禄年中改定図では「二野江村」。現在の表記は「二之江」。御厨注文では「二江」、役帳では「二之江」
❉9: 応永5年(1398): 「東小松河」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文・下総国葛西御厨入部之注文)、永禄2年(1559) 以前: 「同 東小松川」(同 = 葛西、江戸衆 遠山丹波守、小田原衆所領役帳)、永禄5年(1562) 3月22日: 「曲金」「兩小松川」「金町」(北条氏康判物、八潮市史 史料編 古代・中世,1988)。
❉10: 応永5年(1398): 「西小松河」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文)、永禄2年(1559) 以前: 「葛西 西小松川」(江戸衆 太田大膳亮、小田原衆所領役帳)、永禄5年(1562) 3月22日: 「曲金」「兩小松川」「金町」(北条氏康判物、八潮市史 史料編 古代・中世,1988)。
❉11: [中世〜織豊期] 応永5年(1398): 「小松」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文)、永禄2年(1559) 以前: 「同 小松上下」(同 = 葛西、江戸衆 遠山丹波守、小田原衆所領役帳)。
❉12: [中世〜織豊期] 応永5年(1398): 「松本」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文・下総国葛西御厨入部之注文)、永禄2年(1559) 以前: 「葛西 松本郷」(江戸衆 森弥三郎、小田原衆所領役帳)。
❉13: 応永5年(1398): 「東一江」「西一江」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文・下総国葛西御厨入部之注文)、永禄2年(1559) 以前: 「葛西 東一之江」(江戸衆 島津孫四郎)・「同 西一ノ江」(同 = 葛西、江戸衆 遠山丹波守、小田原衆所領役帳)。
❉14: 武蔵田園簿では「西市野江村」「東市野江村」、正保年中改定図では「西市ノ江」「東市ノ江」、元禄郷帳では「西市野江村」「東一野江村」、元禄年中改定図では「西市江村」「東市江村」、対応する近代の大字は「西一之江」「東一之江」。
❉15: 応永5年(1398): 「今井」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文・下総国葛西御厨入部之注文)、永禄2年(1559) 以前: 「同 金井上下」(同 = 葛西、江戸衆 遠山丹波守、小田原衆所領役帳)。
❉16: [中世〜織豊期] 応永5年(1398): 「蒲田」(『蒲』はくさかんむりに『補』、下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文・下総国葛西御厨入部之注文)。
❉17: [新田・分村] 浦安町誌 上(1969) によれば下総国 葛飾郡の当代島村が当地を開発。現在は下総国 葛飾郡の当代島村のみ、浦安市に地名が残る。
❉18: 武蔵田園簿では「一野江新田村」、正保年中改定図では「市ノ江新田」。
❉19: [中世〜織豊期] 永和3年(1377) 3月17日: 「下總國葛西御厨篠崎鄕內上村二郞太郞入道ひかゑ申在家の田・屋しき」(希朝売券写、八潮市史 史料編 古代・中世,1988)、応永5年(1398): 「下篠崎」「上篠崎」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文・下総国葛西御厨入部之注文)、永禄2年(1559) 以前: 「葛西 篠崎上下」(江戸衆 遠山丹波守、小田原衆所領役帳)、ほか。
❉20: 武蔵田園簿・正保年中改定図でも「篠崎村」。
❉21: [新田・分村] 武蔵田園簿・正保年中改定図には含まれない。
❉22: [中世〜織豊期] 応永5年(1398): 「鹿骨」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文)、永禄2年(1559) 以前: 「同 鹿骨」(同 = 葛西、江戸衆 遠山丹波守、小田原衆所領役帳)。
❉23: 武蔵田園簿・正保年中改定図では「篠ケ崎村」。
❉24: [中世〜織豊期] 応永17年(1410): 「高石神長ふ免」(香取造営料足納帳、鎌ケ谷市史 資料編3上 中世・近世1,1991)、永享3年(1431): 「下總國八幡庄谷中鄕內高石神南方」(原胤義売券、市川市史 第5巻 史料 古代・中世,1973)。
❉25: 元禄郷帳・国絵図では下高谷村、また「古者高谷村」と付記される。
❉26: 対応する近代の大字は上妙典・下妙典。
❉27: 元禄郷帳・国絵図では「古者新宿村」と付記される。
❉28: [中世〜織豊期] 応安5年(1372): 「戶崎・大堺・行德等關務」(長者宣写、新編埼玉県史 資料編5 中世1 古文書1,1982)、至徳4年(1387): 「かさはやのしやうのうち、とかさきならひニ大さかへ、しもかわへのうちひこなのせき・つるかそねのせき・きやうとへのせき、合五ケせきの事」(大中臣長房譲状、八潮市史 史料編 古代・中世,1988)。
❉29: [新田・分村] 元禄郷帳・国絵図には含まれない。
❉30: [中世〜織豊期] 応永24年(1417): 「同国八幡猫真講 (今ハ破)」(同国 = 下総) (講演職譲状、春日部市史 第2巻 古代・中世史料編,1989)。
❖天保郷帳・国絵図の村々ⒻⒼⒽⒾ (三郷・松戸)(❉1)

fig.

近世 武蔵国 葛飾郡

98. 飯塚村 (❉2)
99. さるまた村 (❉3)
100. 小合新田
103. しもあい村 (❉4)
104. 上小合村 (❉4)
105. 花和田村 (❉5)
106. 彦江村 (❉6)(❉7)
107. 谷口村 (❉8)(❉9)
108. 境木村 (❉8)(❉9)
109. さん村 (❉8)
110. 戸ケ崎村 (❉10)
111. まき村 (❉8)(❉11)
112. まえ村 (❉8)(❉11)
113. 高須村 (❉12)
114. 久兵衛村 (❉8)(❉12)
115. 小向村 (❉8)(❉13)
116. 樋口村 (❉8)(❉13)(❉14)
117. 長戸呂村 (❉8)
118. 徳島村 (❉8)
119. 彦沢村
120. ばんしょうめん村 (❉15)
121. かみぐち
122. 長沼村 (❉8)
123. 八町堀村 (❉8)(❉16)(❉17)
133. 笹塚村 (❉8)(❉18)
137. 谷中村 (❉8)(❉19)
138. こうぼう村 (❉19)
139. 岩野木村 (❉8)(❉19)
140. 村 (❉8)
272. 市助村 (❉8)(❉20)
273. 前川村 (❉8)(❉21)
274. 大膳村 (❉8)(❉20)
275. 鎌倉村 (❉8)(❉22)
276. 横堀村 (❉8)(❉17)
277. 下新田村 (❉8)(❉23)
279. 酒井村 (❉8)(❉24)
280. 壱本木村 (❉8)(❉17)

近世 下総国 葛飾郡

204. 中金杉村 (❉25)
206. 平賀村 (❉26)(❉27)
220. おおぐち村 (❉28)
221. 横須賀村 (❉29)
222. ひれさき村 (❉30)
223. 木村 (❉31)
224. 大谷口新田
225. 幸谷こうや村 (❉32)
226. 上総かずさうち村 (❉33)
227. 小金町 (❉34)
229. 小西新田 (❉35)
234. 二ツ木村 (❉36)(❉37)
235. 三ケ月村 (❉38)
236. 七右衛門新田 (❉39)
237. 外河原村 (❉40)
238. 主水もんと新田
239. 九郎左衛門新田
240. 三村新田
241. ばし村 (❉41)
242. はちさき村 (❉42)
244. 伝兵衛新田
245. さき
246. しんざく
247. 中根村
248. 中和倉村
257. 松戸新田
258. 上本郷村
259. 南花島村 (❉43)
260. 竹ケ花村
261. 根本村
262. 松戸町 (❉44)
263. 小根本村
264. 岩瀬村
265. 和名ケ谷村 (❉45)
274. 小山村
❉1: 武蔵国は武蔵田園簿・正保年中改定図・元禄郷帳・元禄年中改定図、下総国は元禄郷帳・国絵図との対照を含む。
❉2: [中世〜織豊期] 応永5年(1398): 「飯塚」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文・下総国葛西御厨入部之注文)、永禄2年(1559) 以前: 「同 飯塚」(同 = 葛西、江戸衆 会田中務丞、小田原衆所領役帳)、天正18年(1590): 「笠井卅三郷之内」「いいつかむら」「さるかまた村」「こわいむら」「かなまち村」「しはまた村」(浅野長吉添状、葛飾区古文書史料集9 葛西神社文書1,1996)。
❉3: [平安末期〜織豊期] 治承元年(1177) 以前: 「猿俣郷」(遷宮用途注文断簡写、下総町史 原始古代・中世編 史料集,1990)、康永4年(1345): 「小鮎猿俣役所地頭葛西伊豆四郎入道」(香取社造替諸社役所並びに雑掌人注文、関城町史 史料編3 中世関係史料,1985)、延文5年〜卓治3年(推定,1360〜1364): 「下総国」の「葛西猿俣御厨」(神鳳鈔)、応安5年(推定,1372): 「武藏國猿俣關務事」(二条師良御教書写、新編埼玉県史 資料編5 中世1 古文書1,1982)、応永5年(1398): 「猿俣」(下総国葛西御厨注文)・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文・下総国葛西御厨入部之注文)、永禄2年(1559) 以前: 「葛西 猿俣」(江戸衆 窪寺大蔵丞、小田原衆所領役帳)、ほか。
❉4: [中世〜織豊期] 応永5年(1398): 「小鮎」下総国葛西御厨注文・年月日不詳: 同 (下総国葛西御厨注文・下総国葛西御厨入部之注文)、永禄2年(1559) 以前: 「同 小合」(同 = 葛西、江戸衆 遠山丹波守、小田原衆所領役帳)、天正18年(1590): 「笠井卅三郷之内」「いいつかむら」「さるかまた村」「こわいむら」「かなまち村」「しはまた村」(浅野長吉添状、葛飾区古文書史料集9 葛西神社文書1,1996)。
❉5: [中世〜織豊期] 室町期: 「下総国下河辺庄花和田」(市場之祭文、春日部市史 第2巻 古代・中世史料編,1989)、ほか。
❉6: [中世〜織豊期] 永正18年(1521): 「ヒコエ」(本土寺過去帳)、室町期〜戦国期: 「河辺彦江」(同)。
❉7: 武蔵田園簿・正保年中改定図では「彦得村」。
❉8: [新田・分村] 武蔵田園簿・正保年中改定図には含まれない。
❉9: 天保郷帳では「古者谷口・境木村」と付記され、元禄郷帳・改定図では「谷口・境木村」。村名はどれも併記される。
❉10: [中世〜織豊期] 応安5年(1372): 「常陸・下總兩國海夫并戶崎・大堺・行德等關務」(長者宣写、新編埼玉県史 資料編5 中世1 古文書1,1982)、応安7年(1374):「下總國風早庄內戶崎・大堺關務」(安富道轍等連署奉書、八潮市史 史料編 古代・中世,1988)、永禄2年(1559) 以前: 「戸ケ崎」(江戸衆 匝嵯蔵人佑、小田原衆所領役帳)、ほか。
❉11: 天保郷帳では「古者寄巻・前谷村」と付記され、元禄郷帳・改定図では「寄巻・前谷村」。地名はどれも併記される。
❉12: 天保郷帳では「古者 高須・久兵衛 村」と付記され、元禄郷帳・元禄年中改定図では「高須・久兵衛 村」。地名はどれも併記される。
❉13: 天保郷帳では「古者 小向・樋口 村」と付記され、元禄郷帳・元禄年中改定図では「小向・樋口 村」。地名はどれも併記される。
❉14: 現在の表記は「くち」。
❉15: [中世〜織豊期] 永正4年(1507): 「番匠面」(本土寺過去帳) 、天正2年(1574): 「番匠免」(御料所方認書)、ほか。
❉16: 元禄郷帳・改定図では「八丁堀村」。
❉17: 元禄郷帳には含まれない。元禄年中改定図では「長戸呂村ノ内」と付記される。
❉18: 天保郷帳では「古者 下笹塚・駒形 村」と付記され、元禄郷帳・改定図では「下笹塚・駒形村」。地名はどれも併記される (ただし元禄改定図では小判形の外に『下笹塚』)。
❉19: 天保郷帳では「古者 谷中・幸房・岩野木 村之内」と付記され、元禄郷帳・改定図では「谷中・幸房・岩野木村」。村名はどれも併記される。
❉20: 元禄年中改定図では「八丁堀村ノ内」と付記される (郷帳には含まれない)。
❉21: 元禄年中改定図では「三九村ノ内」と付記される (郷帳には含まれない)。
❉22: 元禄年中改定図では「長沼村ノ内」と付記される (郷帳には含まれない)。
❉23: 元禄年中改定図では「高須 久兵エ 村ノ内」(村名は併記) と付記される (郷帳には含まれない)。
❉24: 元禄年中改定図では「谷口・境木 村ノ内」と付記される (地名は付記、郷帳には含まれない)。
❉25: 元禄郷帳・国絵図では「古者金杉村」と付記される。
❉26: [中世〜織豊期] 応永2年(1395): 「平賀」(本土寺過去帳)、宝徳2年(1450): 「風早庄平賀□年貢之内」(〜郷〜、源直貞寄進状、八潮市史 史料編 古代・中世,1988)、文明14年(1482): 「下総州勝鹿郡風早庄平賀長谷山本土寺」(洪鐘銘、松戸市史 史料編4 本土寺史料,1985)、ほか。
❉27: 天保郷帳では「古者本土寺村」と付記され、元禄郷帳・国絵図では「本土寺村」。
❉28: [中世〜織豊期] 応永27年(1420): 「大谷口」(本土寺過去帳)、永享13年(1441): 「大矢口」(同)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉29: [中世〜織豊期] 永享10年(1438): 「ヨコスカ」(本土寺過去帳)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉30: [中世〜織豊期] 永享9年(1437): 「ヒレカサキ」(本土寺過去帳)、「ひれかさきさかひまで」(高城胤則印判状、我孫子市史資料 古代・中世篇,1987)、ほか。
❉31: [新田・分村] 慶長〜元和期の成立 (流山市史 通史編1, 2001)。
❉32: [中世〜織豊期] 天正10年(1582): 「コウヤ」(本土寺過去帳)、ほか。
❉33: [中世〜織豊期] 永享8年(1436): 「カツサウチ」(本土寺過去帳)、天正20年(1592): 「下総国勝鹿郡上総内村」(水帳之写/東漸寺史 乾、松戸市史 史料編6 東漸寺史料,1994)、ほか。
❉34: [中世〜織豊期] 永享7年(1435): 「金」(本土寺過去帳)、永禄4年(1561): 「小金」(北条氏康書状写、八潮市史 史料編 古代・中世,1988)、天文18年(1549): 「こかね」(高城家印判状、同)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉35: 元禄郷帳・国絵図には含まれない。
❉36: [中世〜織豊期] 応永35年(1428): 「二木」(本土寺過去帳)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉37: 元禄郷帳・国絵図では「二木村」。
❉38: 元禄郷帳・国絵図では「二木村之枝郷」、天保郷帳・国絵図では「二ツ木村枝郷」と付記される。
❉39: 元禄郷帳・国絵図では「古者膝丸新田」と付記される。
❉40: [新田・分村] 寛永年間(1624〜1644)の開発 (松戸市史 中巻,1978))。
❉41: [中世〜織豊期] 永享12年(1440)「マハシ」(本土寺過去帳)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉42: [中世〜織豊期] 天正4年(1576): 「ハチカサキ」(本土寺過去帳)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉43: 元禄郷帳・国絵図では「古者花島村」と付記される。
❉44: [中世〜織豊期] 嘉吉元年(1441): 「マツト」(本土寺過去帳)、文正元年(1466): 「松渡」(原信濃入道宛御内書案、続群書類従 第23輯ノ下 武家部,1924)、永禄12年(推定,1569): 「敵松戸市川迄相散」(千葉胤富書状、八潮市史 史料編 古代・中世,1988)、ほか。
❉45: 元禄郷帳・天保郷帳では「和名谷村」(元禄国絵図では『和名ケ谷』)。
❖天保郷帳・国絵図の村々ⒿⓀⓁ (庄内領)(❉1)

fig.

近世 下総国 葛飾郡

48. こうだて村 (❉2)(❉3)
49. 幸館新田 (❉3)
50. 江川村
51. 向下河岸 (❉4)
52. 江戸町
53. 台町 (❉5)
54. 元町
55. 中島村
56. 内町
57. 花島村
58. 細野村 (❉6)
59. 槇野地村 (❉7)
60. 西にしごう
61. 東高野ひがしごうや
62. にっ
63. 中戸村 (❉8)
64. 下木津内村 (❉9)
65. 上木津内村 (❉9)
66. ぬま
67. 屏風村 (❉6)
68. 宮前村
69. 鷲巣わしのす
70. 柏寺村
71. きりさく村 (❉10)
72. うち村 (❉11)
73. なみ
74. おや村 (❉12)
75. 西親野井村 (❉12)
76. 木野川村
77. 深輪村 (❉13)
78. 椿村 (❉14)
79. よしばし村 (❉15)
80. 木崎村 (❉15)
81. 塚崎村
82. 西にしほうしゅばな村 (❉16)
83. 東宝珠花村 (❉16)
84. 村 (❉17)
85. 平井村
86. かみ吉妻きつま村 (❉18)
87. 下吉妻村 (❉18)
88. 吉妻村新田 (❉19)
89. かん村 (❉20)
90. くらつね村 (❉21)
91. 榎村 (❉20)
92. 立野村 (❉20)
93. 椚村 (❉22)
94. 小平村 (❉23)
95. 丸井村
96. 岡田村
97. 東金野井ひがしかなのい村 (❉24)
98. 西金野井村 (❉24)
99. 金崎村 (❉25)
100. 上柳村 (❉26)
101. 下柳村 (❉27)
102. おおぶすま村 (❉28)
103. こめさき村 (❉29)
104. 尾崎村
105. 中里村 (❉30)
106. 舟形村 (❉31)
107. ばんしょう新田 (❉19)
108. ふき村 (❉32)(❉33)
109. 木野崎村
110. 吉春村
111. 谷津村
112. 村 (❉34)
113. しん宿しゅく新田
114. 中野村 (❉35)
115. いいぬま村 (❉29)
116. こめじま村 (❉29)
117. 永沼村 (❉29)
118. すいかく村 (❉29)
119. 赤崎村 (❉29)
120. 魚沼村 (❉29)
121. つい
122. 金杉村 (❉36)
123. 座生新田
124. 岩名村 (❉37)
125. 清水村 (❉38)
126. 堤台村 (❉38)
127. 中野台村 (❉38)
128. 上花輪村 (❉38)(❉39)
129. 野田町 (❉40)
130. 大殿井村 (❉41)(❉42)
131. 宮崎新田村
132. 柳沢新田
133. 奉目新田 (❉43)
134. 鶴島新田 (❉43)
135. 中根新田
136. 桜台村 (❉41)
137. 堤根新田
138. 花井新田
139. 横内村 (❉44)
❉1: 元禄郷帳・国絵図との対照を含む。
❉2: [中世〜織豊期] 天正2年(1574): 「古河・關宿之間」の「こうたて」(御料所方認書)。
❉3: 明治14年(1881) 幸館村・幸館新田、およびほか 1村で合併し幸主村、したがって対応する近代の大字はこうしゅ
❉4: 元禄郷帳・国絵図では「向下川岸」。
❉5: [中世〜織豊期] 天正5年(1577)「関宿網代宿・台宿町」(北条氏照(カ)印判状写、鷲宮町史 史料3 中世,1982)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉6: [新田・分村] 正保年間(1644〜1648) ごろ開発、慶安年間(1648〜1652) ごろ成立 (武蔵国郡村誌)。
❉7: [中世〜織豊期] 大永5年(1525): 「蓮花院 摩木地」(宝聖寺末寺帳)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉8: [中世〜織豊期] 天文8年(1539): 「坂東中戶 常敬寺」(石山本願寺日記 上巻,1966)、永禄8年(1565): 「号中戸所」鷲宮町史 史料3 中世,1982) 。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉9: 明治9年(1876) に合併し木津内村、したがって近代の対応する大字は木津内。
❉10: [中世〜織豊期] 大永5年(1525): 「観音院 桐賀作」(宝聖寺末寺帳)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉11: [中世〜織豊期] 大永5年(1525): 「金剛院 小府内」(宝聖寺末寺帳)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉12: [中世〜織豊期] 慶長4年(1599):「同國分」(同國 = 下總國) の「おやのい一圓」(廊之坊諸国旦那帳、香川県史 第8巻 資料編 古代・中世史料,1986)。
❉13: [新田・分村] 正保年間(1644〜1648) ごろ開発、慶安3年(1650)「深輪新田」として成立、延宝3年(1675) 改称 (武蔵国郡村誌)。
❉14: [新田・分村] 正保3年(1646) 開発、慶安3年(1650)「椿村新田」として成立、延宝3年(1675) 改称 (武蔵国郡村誌)。
❉15: 寛永年間(1624〜1644) ごろ開発、慶安3年(1650)「〜新田」として成立、延宝元年(1673) に改称 (武蔵国郡村誌)。
❉16: [中世〜織豊期] 天正2年(1574): 「庄內河邊」の「寶珠花」(御料所方認書)。
❉17: [中世〜織豊期] 天正2年(1574): 「庄內河邊」の「木まかす」(御料所方認書)、天正18年(1590): 「木間ケ洲」(足利義氏遺臣等連署書状案、鷲宮町史 史料3 中世,1982)。
❉18: [新田・分村] 寛永年間(1624〜1644) 以後の開発、慶安年間(1648〜1652) ごろ「吉妻新田」として成立、延宝元年(1673)「吉妻村」に改称、天和2年(1682) に上下分村 (武蔵国郡村誌)。
❉19: 元禄郷帳・国絵図には含まれない。
❉20: [新田・分村] 正保年間(1644〜1648) ごろ開発、慶安年間(1648〜1652) ごろ「〜新田」として成立、延宝3年(1675) 改称 (武蔵国郡村誌)。
❉21: [新田・分村] 寛永3年(1626) 開発、慶安3年(1650) 「倉常新田」として成立、延宝3年(1675) 改称 (武蔵国郡村誌)。
❉22: [新田・分村] 正保元年(1644) 以後の開発、慶安年間(1648〜1652) ごろ「椚村新田」として成立、延宝3年(1675) 改称(武蔵国郡村誌)。
❉23: [新田・分村] 寛永年間(1624〜1644) 以後に開発、慶安年間(1648〜1652) ごろ「小平新田」として成立、延宝元年(1673) 改称 (武蔵国郡村誌)。
❉24: [中世〜織豊期] 大永5年(1525): 「満福寺 庄内 金野井」(宝聖寺末寺帳)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉25: [新田・分村] 正保元年(1644) の開発 (武蔵国郡村誌)。
❉26: 正保年間(1644〜1648) ごろ開発、慶安年間(1648〜1652) ごろ「上柳島新田」として成立、延宝3年(1675) 改称 (武蔵国郡村誌)。
❉27: [新田・分村] 正保元年(1644) 以後の開発 (武蔵国郡村誌)。
❉28: [新田・分村] 寛永年間(1624〜1644) 以後の開発 (武蔵国郡村誌)。
❉29: [新田・分村] 寛永年間(1624〜1644) ごろ開発、正保年間(1644〜1648) に成立 (武蔵国郡村誌)。
❉30: [中世〜織豊期] 天文23年(1554): 「先御落居之地廿五郷」の「中里」(足利梅千代丸印判状)、天正2年(1574): 「庄內河邊」の「中里」(御料所方認書)、「中里郷」(白戸越前守宛知行充行状)。
❉31: 現在の表記は「船形」。
❉32: [中世〜織豊期] 永正15年(1518)「しもうさの国在所目吹」(永正十五年道者日記、小山市史 史料編 中世,1980)、天正2年(1574): 「庄內河邊」の「目吹」(御料所方認書)。
❉33: 元禄郷帳では「見吹村」とある (誤記、国絵図では『目吹村』)。
❉34: [中世〜織豊期] 天正2年(1574): 「庄內河邊」の「五木」(御料所方認書)。
❉35: 元禄郷帳・国絵図では「古者小田辺村」と付記される。承応3年(1654) の改称。
❉36: [中世〜織豊期] 永禄5年(1562): 「金曽木郷」(北条家印判状、鷲宮町史 史料3 中世,1982)。
❉37: [中世〜織豊期] 天正2年(1574): 「庄內河邊」の「岩な」(御料所方認書)。
❉38: [新田・分村] 正保2年(1645) に野田町から分村 (東葛飾郡誌,1923)。
❉39: 元禄郷帳・国絵図では「古者花輪村」と付記される。
❉40: [中世〜織豊期] 天正3年(1575): 「野田」(岡部氏印判状、千葉県史料 中世篇 諸家文書,1962)。
❉41: [新田・分村] 正保2年(1645) より後に野田町から分村 (東葛飾郡誌,1923)。
❉42: 元禄郷帳・国絵図では「野田町之枝郷」と付記される。
❉43: 近代はじめに合併し「鶴奉村」、したがって近代の対応する大字は「つるほう」。なお、合併時期を東葛飾郡誌(1923) では明治6年(1873)、野田郷土史は明治7年(1874)としている。
❉44: [新田・分村] 寛政7年(1795) 小金野御鹿狩諸書留 (流山市史 近世資料編2,1988)) によれば「横内新田」、年月日不詳 (寛政10年以降)「高田台牧一件」(同) でも「横内新田」で延宝元年(1673) の成立。
❖天保郷帳・国絵図の村々ⓂⓃⓁⓄ (吉川・流山)(❉1)

fig.

近世 武蔵国 葛飾郡

124. 下彦川戸村 (❉2)
125. 彦倉村 (❉3)
126. 彦野村
127. 上彦川戸村 (❉2)
128. 上彦名村 (❉4)(❉5)
129. 彦成村 (❉6)
130. 彦音村 (❉7)
131. 彦糸村
132. 采女新田 (❉11)
133. 笹塚村 (❉11)(❉8)
134. 駒形村 (❉9)(❉8)
135. 蓮沼村 (❉11)(❉10)
136. 仁蔵村 (❉11)
141. 丹後村 (❉11)
142. 大広戸村 (❉12)
143. 半田村 (❉13)(❉14)(❉15)
144. どうにわ
145. 中曽根村
146. たかひさ
147. 高富村
148. 富新田 (❉11)(❉16)
149. 二ツ沼村 (❉11)
150. 後谷うしろや村 (❉11)
151. ぜん
152. ぼり村 (❉11)
153. 三輪野郷村 (❉17)(❉18)
154. 土場どじょう村 (❉11)
155. 飯島村 (❉11)
156. 中島村
157. 木売新田 (❉11)
158. うり村 (❉19)
160. 中野村 (❉11)(❉20)(❉21)
163. さらぬま村 (❉11)
164. 加藤村
165. はんわり
166. 吉屋村 (❉11)(❉22)
167. 鹿ししづか村 (❉11)
168. 中井村 (❉11)
169. 会野谷村
170. 関新田 (❉11)
171. 鍋小路村 (❉11)
172. 関村
176. かわふじ村 (❉23)
178. 上笹塚村 (❉24)
179. はち村 (❉11)(❉25)
180. 下内川村 (❉26)
181. 上内川村 (❉26)
182. 広島村 (❉27)(❉28)
271. 田中新田 (❉11)
278. 小松川村 (❉11)(❉29)

近世 下総国 葛飾郡

140. さん村 (❉30)
147. 山﨑村 (❉31)
148. 亀山新田 (❉32)
149. いまがみ
155. 東深井村
156. 西深井村
157. 中曽根下谷新田 (❉33)(❉34)
158. 深井新田 (❉32)
162. 初石新田 (❉32)
169. 平方村
170. 平方新田 (❉32)
171. 平方原新田 (❉32)
172. なか村 (❉35)
173. 上新宿村 (❉36)(❉37)
178. 桐ケ谷北村 (❉38)
179. 北村・小屋村 新田 (❉32)(❉39)(❉40)
180. 桐ケ谷南村 (❉41)
181. 桐ケ谷村 (❉42)
182. 桐ケ谷新田 (❉32)(❉43)
183. 谷津・貝塚新田 (❉32)(❉44)(❉45)
184. おおぐろ村 (❉46)
185. 下花輪村 (❉47)
186. 三輪山村 (❉48)
187. 市野谷村
197. 中村
198. 後平井村
199. 前平井村
200. 加村 (❉49)
201. 流山村 (❉50)
202. 西平井村
203. 思井村
❉1: 武蔵国は武蔵田園簿・正保年中改定図・元禄郷帳・元禄年中改定図、下総国は元禄郷帳・国絵図との対照を含む。
❉2: 武蔵田園簿・正保年中改定図では「彦川戸村」。延宝検地を期に上下に分村 (新編武蔵)。
❉3: [中世〜織豊期] 明応8年(1499): 「彦倉」(本土寺過去帳)、室町期〜戦国期: 「河邊彥金村」(同)、ほか。
❉4: [中世〜織豊期] 延文6年(康安元年,1361): 「下総州下河辺庄彦名市祭成之」(市場之祭文写、春日部市史 第2巻 古代・中世史料編,1989)、至徳4年(1387): 「かさはやのしやうのうち、とかさきならひニ大さかへ、しもかわへのうちひこなのせき・つるかそねのせき・きやうとへのせき、合五ケせきの事」(大中臣長房譲状、同、応永26年(1419): 「鶴岡八幡宮領下総国下河辺庄彦名」(足利持氏御判御教書、同)、ほか。
❉5: 「下彦名村」は存在しない。
❉6: [中世〜織豊期] 明応元年(1492): 「ヒコナリ」(本土寺過去帳)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉7: 古くは彦糸村から「彦乙」として分村、正保年間(1644〜1648) までに「彦音」(新編武蔵)。
❉8: 天保郷帳では「古者 下笹塚・駒形 村」と付記され、元禄郷帳・改定図では「下笹塚・駒形村」。地名はどれも併記される (ただし元禄改定図では小判形の外に『下笹塚』)。
❉9: 武蔵田園簿では「駒方村」、正保年中改定図では「駒形村」。
❉10: 明治12年(1879) 南蓮沼村に改称、したがって対応する近代の大字は「南蓮沼」。
❉11: [新田・分村] 武蔵田園簿・正保年中改定図には含まれない。
❉12: [新田・分村] 寛永元年(1624) 前後の開発または成立 (新編武蔵)。
❉13: [新田・分村] 武蔵田園簿 では「半左新田」、正保年中改定図では「半右衛門新田」。
❉14: 元禄郷帳・元禄年中改定図では「半田村」で、それぞれ「古者半左衛門新田」「古ハ半左エ門新田」と付記される。
❉15: 天保国絵図では「半左衛門新田」。
❉16: [新田・分村] 元禄郷帳・改定図・天保郷帳・国絵図では「高富村枝郷」と付記される。
❉17: [新田・分村] 武蔵田園簿・正保年中改定図では「宮野井新田」。
❉18: 元禄郷帳・元禄年中改定図では「三輪野江村」、現在の表記は「」。
❉19: 武蔵田園簿・正保年中改定図では「木売川戸村」、元禄年中改定図では「古ハ木売川村」と付記される (『戸』は脱字)。
❉20: [新田・分村] 天保郷帳では「古者中野新田」と付記され、元禄郷帳・改定図では「中野新田」。元禄郷帳・改定図・天保郷帳・国絵図では「保村枝郷」と付記される。
❉21: 江戸期末までに再び保村の一部として把握されるようになったらしく、対応する近代の大字は「保村中野分」。書類上は明治6年(1873) の改称。
❉22: [新田・分村] 古くは「右馬之助新田」、延宝2年(1674)「吉屋新田」に、さらに元禄11年(1698)「吉屋村」に改称 (武蔵国郡村誌)。
❉23: 武蔵田園簿・正保年中改定図では「河藤村」。
❉24: 武蔵田園簿・正保年中改定図では「篠塚村」、元禄郷帳・国絵図では「上笹塚村」「下笹塚・駒形 村」(地名は併記)、天保郷帳・国絵図では「上笹塚村」「笹塚村」。したがって「下笹塚村」は存在しない。
❉25: 対応する近代の大字は「八子新田」。
❉26: 武蔵田園簿では「内河村」、正保年中改定図では「内川村」。
❉27: [新田・分村] 武蔵田園簿・正保年中改定図では「〜新田」。
❉28: 明治12年(1879) 南広島村に改称、したがって対応する近代の大字は「南広島」。
❉29: 元禄年中改定図では「中井村ノ内」と付記される (郷帳には含まれない)。
❉30: [中世〜織豊期] 天正2年(1574): 「庄內河邊」の「三ケ尾」(御料所方認書)。
❉31: 天保国絵図には「山﨑村之内」と付記された「二ツ塚村」がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉32: [新田・分村] 元禄郷帳・国絵図には含まれない。
❉33: 天保郷帳・国絵図では「西深井村之内」と付記されるが「西深井村枝郷」の誤りと思われる。
❉34: 明治2年(1869) 西深井村・深井新田に編入され (旧高旧領取調帳抜粋、流山市史 近世資料編1,1987)、その一部になった。
❉35: 元禄郷帳・国絵図では「中之久木村」。
❉36: 天保国絵図には「上新宿村之内」と付記された「上新宿新田」がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉37: 元禄郷帳・国絵図では「古者新宿村」と付記される。
❉38: 元禄・天保国絵図では「北村」。
❉39: 村名は併記される。
❉40: 明治初期に北村・小谷村に編入され、その一部になったものと思われる。
❉41: 元禄・天保国絵図では「南村」。
❉42: [中世〜織豊期] 応仁2年(1468): 「キリカヤ」(本土寺過去帳)、天正19年(1591): 「下総国葛飾郡桐谷村」(岡部氏朱印状、流山市史 近世資料編1,1987)、ほか。
❉43: 明治初期に北・小屋・南・桐ケ谷・上貝塚・下花輪の各村に編入され (旧高旧領取調帳)、その一部となった。なお天保郷帳では、北村・小屋村は桐ケ谷北村に、桐ケ谷村・上貝塚村は「谷津村」とともに桐ケ谷村にそれぞれ含まれる (流山市史 近世資料編1,1987)
❉44: 村名は併記される。
❉45: 明治初期に谷津村・上貝塚村に編入され、その一部になったものと思われる。なお天保郷帳では、谷津村・上貝塚村とも桐ケ谷村に含まれる (流山市史 近世資料編1,1987)。
❉46: [中世〜織豊期] 大永4年(1524): 「大黒」(本土寺過去帳)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉47: 天保郷帳では「古者花輪村」と付記され、元禄郷帳・国絵図では「花輪村」。
❉48: 一般的に、また現在の表記も「やま」。
❉49: [中世〜織豊期] 永享9年(1437): 「加村」「カムラ」(本土寺過去帳)。
❉50: [新田・分村] 慶長年間(1596〜1615)〜元和年間(1615〜1624) の成立 (流山市史 通史編1, 2001)。