古代 播磨国 讃容郡 讃容里の伊師付近では国界が変動し、古代の末か中世のはじまりごろには美作国 の一部とみなされるようになった。
変動があった地域の大部分は、播磨風土記に記された播磨国 讃容郡 讃容里の伊師にあたるが (❉1)(❉2)、中世は美作国の伊志庄となり、近世は吉野郡に含まれる。また一部は同じく讃容里の吉川の一部にあたると考えられるが、中世は美作国の讃甘庄に取り込まれたとみられ、近世は吉野郡に含まれる。播磨風土記の讃容里は和名類聚抄の播磨国 佐用郡の佐用郷および江川郷にあたる (❉2)。
伊志庄は保元3年(1158) の官宣旨 (❉3) に初めてあらわれ、「石清水八幡宮并宿院極楽寺」の寺領として「美作国」に「伊志庄」がある。元暦2年(1185) の源頼朝下文 (❉4) でも「八幡宮寺領」「美作国」の「伊志庄」、天福元年(1233) の石清水八幡宮寺申文 (❉4) にも「美作国伊志庄」が含まれる。石清水八幡宮寺申文は武士の濫妨を訴えるものであり、南北朝期を迎えるころまでに荘園としての実態は失われたものと考えられるが、以後は史料にあらわれないため詳細はわからない。
讃甘庄は鎌倉末期と推定される足利氏所領奉行人交名 (❉5) に「讃甘庄」としてあらわれる。長禄2年(1458) 足利義政御判御教書 (❉6) にも「美作国讃甘庄地頭職六分一」とあることから、室町期も足利氏の支配下におかれ、のち在地勢力に侵食されて戦国期を迎えたかと思われる。美作古簡集註解 (❉7) 所収の弘治2年(1556) の書状では後藤勝基が安東平五郎に「讃甘庄之內豐福肥前分」を与えている。
地形をみると、この地域は千種川支流佐用川水系にあり、古代の国界が分水嶺である。中国山地は全般になだらかで起伏は激しくないため、荘園が展開されるなか、峠を越えてきた美作の勢力下に取り込まれて伊師は伊志庄となり、吉川の一部は讃甘庄の一部になったのではないかと推定される。もっとも吉川の一部については経緯・時期とも不明であり、場合によっては戦国期〜織豊期に掠め取られて美作国とみなされるようになったのかもしれない。
❉1: | 岡山県史 第3巻 古代2(1989)。 |
❉2: | 佐用町史 上巻(1975)・中巻(1980)。 |
❉3: | 新編岡崎市史 6 史料古代・中世(1983) 所収。 |
❉4: | 岡山県史 第19巻 編年史料(1988) 所収。 |
❉5: | 群馬県史 資料編6 中世2 編年史料1(1984) 所収。 |
❉6: | 岡山県史 第19巻 編年史料(1988) 所収。 |
❉7: | 美作古簡集註解(1936/1976)。 |
近世 美作国 吉野郡
26. | 下庄村 |
27. | 宮本村 (❉1) |
32. | 中山村 (❉2) |
33. | 下石井村 (❉3) |
34. | 青木村 |
35. | 今岡村 |
36. | 笹岡村 (❉4) |
37. | 辻堂村 (❉5) |
38. | 上庄村 (❉6) |
39. | 上石井村 (❉3) |
40. | 東町村 |
41. | 真村 (❉7) |
42. | 水根村 |
43. | 桑野村 |
44. | 海内村 |
45. | 奥海村 |
46. | 西町村 |
47. | 小原田村 |
49. | 下町村 |
近世 播磨国 佐用郡
71. | 仁方村 |
72. | 豊福村 (❉8) |
73. | 平谷村 (❉9) |
74. | 末包村 |
75. | 大畠村 (❉10) |
76. | 淀村 |
77. | 大猪伏村 (❉11) |
83. | 奥長谷村 |
84. | 平福村 |
85. | 正吉村 (❉12) |
86. | 庵村 |
87. | 友延村 |
❉1: | 例外的に天保郷帳では「下庄村之内」と付記される (枝郷相当)。国絵図では「下庄」を冠称する。 |
❉2: | 現在の地名は「東中山」。 |
❉3: | [古代〜織豊期] 和銅6年(713): 播磨国 讃容郡 讃容里の「伊師」(播磨風土記)、保元3年(1158): 「美作国」の「伊志庄」(官宣旨、新編岡崎市史 6 史料古代・中世,1983)、元暦2年(1185): 「美作国」の「伊志庄」(源頼朝下文、岡山県史 第19巻 編年史料,1988)、天福元年(1233): 「美作国伊志庄」(石清水八幡宮寺申文、同)。 |
❉4: | 例外的に天保郷帳では「今岡村之内」と付記される (枝郷相当)。国絵図では「今岡」を冠称する。 |
❉5: | 現在の地名は「中町」。 |
❉6: | 例外的に天保郷帳では「辻堂村之内」と付記される (枝郷相当)。国絵図では「辻堂」を冠称する。 |
❉7: | 現在の地名は「若州」。 |
❉8: | [中世〜織豊期] 建長2年(1250): 「播磨国豊福庄」・「播磨国佐用庄内」の「豊福村」(九条道家初度惣処分状、兵庫県史 史料編 中世8,1994)、明応9年(1500)以前: 「大将軍等持院殿尊氏、貞和五年、以播州佐用豊福之村、賜赤松右衛門敦範」(赤松則治寿像賛、龍野市史 第4巻,1984)。 |
❉9: | 明治8年(1875) 豊福村に編入、したがって対応する近代の大字は存在しない。 |
❉10: | 郷帳・国絵図では「豊福」を冠称する。 |
❉11: | 明治8年(1875) 植木谷村と合併し大木谷村、したがって対応する近代の大字は「大木谷村」。 |
❉12: | 明治9年(1875) 平福村に編入されたが、明治14年(1880) 正吉村・友延村に相当する部分が分離されて延吉村となった。したがって対応する近代の大字は「延吉」。 |
明治29年(1896) 美作国 吉野郡 石井村は、播磨国 佐用郡に移され、また美作国 吉野郡 讃甘村の一部 (大字中山) は佐用郡 江川村に編入された。石井村は古代 讃容里の伊師、讃甘村の中山は吉川の一部にあたるので、これによって美作・播磨の国界は古代のものに戻った。
明治29年(1896) 3月29日付の法律第56号 (❉13) による。古代までその経緯を追うものではなく、郡制の施行に先立ち、県の管轄変更によって行政上の不都合を解消することが主な理由だったと考えられるが (美作国は岡山県、播磨国は兵庫県の管轄)、結果的には古代の景観に戻ることとなった。
この部分を古代 播磨国 讃容郡 讃容里の吉川の一部であるとしたのは推定による。近代 石井村 (古代 伊師) に比べれば遥かに狭い範囲のことであり、直接確認可能な史料はない。また中世は美作国の讃甘庄 (❉14) に取り込まれたとしたのも同様であり、これは近世の広域地名で同名庄に含まれることによる。荘園として実体のあったころにまで遡るのかどうかはわからないが、少なくとも近世の讃甘庄は中世の何らかの段階の讃甘庄を反映していると考えられる。
東作誌には「中山村は播作の中山でなり」(播作は播磨・美作の意味) とあり、国界付近の曖昧な土地であることを示唆している。また「何の頃にや播州へ作州を取込たる事ある故、今に其所を國廣と地字す、國を廣けたる故の名なり」とあり、美作から播磨へ戻った時期もあったらしい (❉15)。この国広 (國廣) は近世の国界の釜坂峠付近にある (❉16)。
美作国 東部6郡の地誌、文化12年(1815) の成立。作陽誌に含まれない西部6郡について、津山藩士の正木輝雄が完成させた。作陽誌とは異なり藩の事業ではない。
美作国 西部6郡の地誌、元禄4年(1691) の成立。津山藩主・森長成の意向で家老の長尾勝明が江村宗晋 (東部)・河越玄俊 (西部) に編纂させたが、河越が担当した部分は完成しなかった。
東作誌や旧高旧領取調帳には、上石井村の一部と注記される「東町分」という村が存在し、明治5年(1872) 上石井村に吸収されたが、その後の明治14年(1881) 再び分離され、西町村に編入された (❉17)。この東町分はその名称・注記と別記されている状況から、峠を越えた東町村付近にあった、地理的には独立性が高いが小規模で一村としては成り立たない上石井村の飛地であると考えられる。したがって、近世 上石井村のうち播磨国に戻らず美作国のままだった土地が存在することになるが、基本的には近世の新田開発の一環で出作した土地と推定され、古代まで遡ることはないだろうと思われる。なお、東町分が東町村ではなく西町村に編入されたのは、同時に東町村が西町村に編入されたため。
❉13: | 原文「岡山縣美作國吉野郡石井村ヲ兵庫縣播磨國佐用郡ニ編入シ岡山縣美作國吉野郡讃甘村大字中山ヲ兵庫縣播磨國佐用郡江川村ニ編入ス」。 |
❉14: | 大原町の百年(1970)。 |
❉15: | 地誌や記述の性質から、さかのぼっても戦国期〜織豊期のことかと思われる。 |
❉16: | 佐用町史 中巻(1980)。 |
❉17: | 佐用町史 中巻(1980)・大原町の百年(1970)。 |
昭和38年(1963) (❉18) 岡山県 和気郡 日生町のうち福浦地区 (大字福浦) の過半 (以下、編入地区、と呼ぶ) は兵庫県 赤穂市に編入された (❉19)。編入地区は近世 備前国 和気郡 福浦村と福浦新田にあたる。したがって、これらの 3村については形式上、備前国から播磨国へ移ったことになる。もちろんこの時点で国(クニ) は用いられておらず、これは「昭和の大合併」において発生した都府県境をまたぐ合併 (編入) に過ぎない。なお近代の大字福浦は近世の寺山新田も含み、編入されなかった部分はこの寺山新田にあたる。
ほかの分離合併 (編入) の事例と同様、ここでも住民間の激しい対立を生み、事態は紛糾した。また、当初は話し合いであったのが、感情のもつれから次第に先鋭化・暴力化した状況も基本的に同じである。本件では、福浦地区を含む福河村 (近世 福浦村・福浦新田・寺山新田・寒河村・中日生村) と旧・日生町が昭和30(1955) 合併 (新設) した際、福浦地区の将来の分離可能性を認める付帯事項が協定書から無断で削除されていた (❉20) ことが問題を急激に悪化させた。また海面の利用権が関係することも本件を複雑化される要因になった (❉21)。
地形的には福浦地区は三方を山に囲まれ、東西どちらも地形は連続していない。古くは両方向の交流とも特段の差異はなかったようだが、都市化が進むに従って経済的にも文化的にも赤穂市との結びつきが強まったようだ。大阪の吸引力も影響したかと思われる。
鉄道の駅名は、ほかと重複・類似する場合に旧国名で区別されることが多い。赤穂線の備前福河駅も、起点・終点で接続する山陽本線に福川駅があったことから「福河駅」ではなく「備前福河駅」になったと思われ (❉22)、そこがかつて備前国だった記憶をささやかに留めている。
❉18: | 昭和38年(1963) 9月1日付。 |
❉19: | 日生町誌(1972)・岡山県史 第13巻 現代1(1984)・赤穂市史 第3巻 近現代通史(1985) など。 |
❉20: | 日生町誌(1972)。 |
❉21: | 赤穂市史 第3巻 近現代通史(1985)。 |
❉22: | ほぼ間違いないが、直接または行政資料など信頼性の高い資料は見当たらない。 |
近世 備前国 和気郡
34. | 福浦村 (❉1) |
34a. | 寺山新田 (❉2) |
35. | 福浦新田 |
73. | 日生村 (❉3) |
74. | 寒河村 (❉4) |
74a. | 中日生 (❉5)(❉6) |
❉1: | [中世〜織豊期] 文安2年(1445): 「福ら」「ふくら」「福浦」(兵庫北関入舩納帳)。 |
❉2: | 天保郷帳には含まれない。国絵図では「福浦村之内」と付記される。 |
❉3: | [中世〜織豊期] 文安2年(1445): 応永21年(1414): 「備前国新田新庄」の「日生」(備前国新田新荘参詣者交名願文、岡山県史 第19巻 編年史料,1988)、ほか。 |
❉4: | [古代] 霊亀元年(715)〜養老5年(721): 「備前国邑久郡方上郷寒川里」(平城宮跡出土木簡、岡山県史 第19巻 編年史料,1988)。 |
❉5: | [中世〜織豊期] 文安元年(1444): 「中日生村」(備前国新田新荘熊野参詣者交名願文、岡山県史 第19巻 編年史料,1988)。 |
❉6: | 天保郷帳には含まれない。国絵図では「寒河村之内」と付記される。 |
兵庫北関入舩納帳は文安2年(1445) 正月〜同3(1446) 年正月にかけて兵庫北関で記録された関税の徴収簿であり、船籍地・積荷・船頭・業者などの情報が載っている (❉7)。この中に「福浦」「福ら」「ふくら」「フクラ (フクノ)」と付記された船頭が延べ9名おり、すべて船籍地は「室」、業者は「豊後屋」で一致するので、同一の「福浦」居住の船頭と判断できる。「フクラ (フクノ)」は翻刻では「フクノ」となっているが、上図 (実物の写真) では「ノ」の上部が欠けているので「ラ」とも読め、船籍地などの内容はほかと共通するので「フクラ」とした。
‣ | 1月8日「福ら」の五郎太郎 (室・大豆・豊後屋) |
‣ | 8月25日: 「フクノ」の千代松 (室・小イハシ・豊後屋) |
‣ | 9月12日: 「ふくら」の五郎三郎 (室・小イハシ・・豊後屋) |
‣ | 9月22日: 「ふくら」の左衛門四郎 (室・小イハシ・豊後屋) |
‣ | 10月3日: 「ふくら」の衛門五郎 (室・マツ・豊後屋) |
‣ | 11月11日: 「ふくら」の兵衛太郎 (室・ナマコ・豊後屋) |
‣ | 11月16日: 「福浦」の長松 (室・小イハシ・豊後屋) |
‣ | 11月18日: 「ふくら」の五郎三郎 (室・小イハシ・豊後屋) |
‣ | 11月26日: 「ふくら」の 左衛門次郎 (室・小イハシ・豊後屋) |
※船頭および括弧内は船籍地・品目・業者。数量・関税額 (付記も含む) は省略。
福浦 (ふくうら/ふくら) という地名は比較的多い地名であり、付近には近世 備前国 和気郡 福浦村のほかに淡路国 三原郡 福良浦 (現在の兵庫県 南あわじ市 福良甲・同乙・同丙) がある。一方、船籍地の室 (ムロ) についても、近世 播磨国 揖西郡 室津 (現在の兵庫県 たつの市 御津町室津) と淡路国 津名郡 室津浦・室津村 (現在の兵庫県 淡路市 室津) があるが、納帳ではほかに「室津」があって「淡路斗」という単位が使用されていることから、室は播磨の室津であることがわかる。播磨の室津は室津村でも室津浦でもなく室津であるので (天保郷帳)、室とも呼べる (『津』が接尾辞)。したがって、福浦 (ふくうら/ふくら) についても至近にある備前の福浦村ということになる。
福浦の港は風待ち・潮待ちに適しており、船乗りを生業とした者もいたとみられる (❉8)。そうした者たちは、納帳に記載された人名がほとんど毎回異なることと居住地の付記があることから、その都度雇われたものと考えられ、船荷も基本的に当地のものではないかと推定される。福浦では松の伐採・売却が行われ、大豆も栽培されていた (❉8)。なお、ほかに備前国 児島郡 福浦村 (現在の岡山県 玉野市 後閑の一部) があったが、この福浦村は田井村の飛地で天保郷帳には含まれず、農業と塩業を中心とした小さな村であり、また江戸期の新田である (❉9)。
江戸期の福浦は基本的に岡山藩領だったが、それまでは南北朝期以降、赤松氏の支配下にあったとされ (❉8)、船頭として室津の船に乗り、兵庫まで船荷を運ぶなど播磨とのつながりが示唆される。とはいえ、赤松氏の支配に関して直接の史料は確認できず、兵庫北関入舩納帳には国郡の記載はない (あればそもそも福浦の特定に論考を必要としない)。近世末期 (近代初期) の福浦村の自認も「新田新庄ニ属ス」(❉10) であり、この新田新庄が中世荘園にまでさかのぼるのか、近世に広域地名化したものに過ぎないのかはわからないが、基本的に日生と同じ備前国の領域に属してきたとされている。したがって、福浦付近の備前・播磨の国界は近世に入ってから明確化され確定した、という以上のことは何もいえない。
❉7: | 兵庫北関入舩納帳(1981)・岡山県立博物館研究報告 15(1994) など。 |
❉8: | 赤穂の民俗 その10 福浦編(1992)。 |
❉9: | 玉野市史(1970/1987)・玉野の地名と由来(1983)。 |
❉10: | 明治12年(1879) 福浦村誌 (和気郡史 資料編 上巻,1981)。「郡村誌」の備前国 和気郡分のために作成されたものかと思われる。 |