明治13年5月、伊勢国 桑名郡のうち五明村・福原新田・川原欠新田・加稲新田およびほか 11村 (新田) は尾張国 海西郡に編入され、三重県から愛知県の管轄に変更された。また、明治16年11〜12月、伊勢国 桑名郡のうち金廻村・江内村・油島新田は美濃国 海西郡に編入され、三重県から岐阜県の管轄に変更された。
具体的には、明治13年5月は三重県布達 甲第67号 (5月10日) (❉1)・愛知県布達 甲第62号 (5月12日) (❉2)、明治16年11〜12月は三重県告示 告第百六十二号 (11月1日) (❉3)・岐阜県布達 甲第90号 (12月27日) (❉4) による。
どちらも河川の流路によって生じた地形的な飛地を解消するためのものだったが、明治13年5月に変動した部分は、その後の河川改修 (鍋田川の廃川・埋立など) によって飛地を解消している。
干拓によって開発されたこの一帯の新田は不安定で、継続的な侵食のほか、洪水や暴風雨・高波によって荒廃することも多かった。再開発にあたっては名称や形態を変えることも頻繁で、現在では実態のわからないものも少なくない。明治13年(1880) 5月の布達に含まれる村々のうち「加稲付新田」は天保国絵図・郷帳に含まれない。反対に範囲内に含まれるはずの「白鷺脇付新田」は布達には含まれない。
また変動した範囲とは直接関係しないが、海中に示した稲賀新田は万延元年(1860) の高潮で消失したため、この時点では存在しない (❉5)。
明治19年(1886) の公文式制定以前のため、各県布達・告示の根拠となる国からの布達がどのようなものだったのかはっきりしない。このうち明治16年11〜12月については、明治16年9月27日付の内務卿達 (❉6) によることはわかるが、番号によって整理されたものではない (朱書で『三地甲第五一二号』とあるが、三重県庁内の整理番号と思われる)。
明治20年(1887) 7月、松山中島村 (中島村・松山村) は尾張国 海西郡から美濃国 海西郡に、拾町野村・馬飼村・三拾町村・東加賀野井村は美濃国 中島郡から尾張国 中島郡にそれぞれ移され、木曽川東西にあった飛び地が解消された。
具体的には、明治20年7月12日付の勅令第34号 (官報 7月13日) による (❉7)。
❉1: | 原文「愛知縣下尾張國海西郡ト當縣下伊勢國桑名郡トノ間兩國々界更正ニ付桑名郡ノ內左ノ村々土地人民共本月七日該縣ヘ引渡候條此旨布達候事」(三重県令達全書)。 |
❉2: | 原文「三重縣下桑名郡之內左之村々當縣エ管轄替相成候ニ付自今海西郡エ編入候條此旨布達候事」(愛知県布達類聚)。 |
❉3: | 原文「桑名郡 油島新田」「同 金廻村」「同 江内村」「今般伊勢国・美濃国国界更正ニ付、右村々美濃国へ編入相成候条、此旨告示候事」(三重県史 資料編 近代1 政治・行政1, 1987)。 |
❉4: | 原文「三重縣下伊勢國桑名郡金廻村江內村油島新田ト美濃國下石津郡福江村萬壽新田七右衞門新田帆引新田トニ係ル國界更正金廻江內油島ノ三ケ村美濃國下石津郡ヘ編入當縣管轄ニ被屬候條此旨布達候事」(岐阜県令達全書)。 |
❉5: | 長島町誌 上巻(1974)。 |
❉6: | 三重県史 資料編 近代1 政治・行政1(1987) 所収。 |
❉7: | 原文「愛知縣下尾張國海西郡松山中島村ヲ美濃國海西郡ヘ組替岐阜縣管轄トシ岐阜縣下美濃國中島郡東加賀野井村三拾町村拾町野村馬飼村ノ四箇村ヲ尾張國中島郡ヘ組替愛知縣管轄トス」。 |