❖山川晴重宛知行充行状における「下野国」表記

天正18年(1590) 豊臣秀吉宛行状 (目録)※91にはしもうさゆう郡の南部からしま郡にかけての山川領 30郷が記載されているが、表題は「下野国本知分所々目録事」となっている。しかし山川領が下野しもつけ国と認識されたといえるような事象は見当たらず、一時的であれそのような状況にあったとは考えにくい。結城本郷のぶんろく4年(1595) 検地帳※92にも表紙に「下野国結城本郷御縄打水帳」とあり、豊臣秀吉宛行状も書き誤りと思われる。

Fig.147 近世はじめの変遷: 高椅

下総の結城郡を下野の結城郡と誤った例は少なくない。ほう性寺しょうじ (延島村) のけいあん元年(1648) 朱印状でも「下野国結城郡延島村宝性寺」となっている。ほかに記述の誤りがみられる史料を、一次・二次資料を忠心にあげておく (三次・四次的な史料や曖昧な表現を含めれば際限ないほど多い)。

至徳3年(1386) 伝後小松天皇りん※93に「下野国結城郡結城安穏寺」とある。あんのんは高椅神社などとは異なり、中世〜近世を通じて下総国 結城郡の結城本郷に所在し、また現存。
明徳4年(1393): 足利義満はん御教みぎょうしょ※94に「下野國葛西御厨」とある。
康正2年(1456) 足利しげうじ書状※95に「野州結城御厨エ進旗」とある。
元亀2年(1572) 山科ときつぐが結城はるともへの書状を送る際に「下野国結城方」としている※96
永享12年(1440) 結城城を包囲した小笠原まさやすの陣番帳※97に「下野国結城」とある。
結城家過去帳※98の慶長13年(1608) や寛永元年(1624) などを命日とする人物の説明に、本国が「下野結城」である旨の説明が散見される。
寛永13年(1636) 徳川家光朱印状※99に「下野國結城郡本鄕內五拾石」とある。弘經寺 (弘経ぐぎょう) も同じく中世〜近世を通じ、下総国 結城郡の結城本郷に所在し、また現存。
吾妻鏡の寛永3年(1626) 版 (寛永本)・寛文8年(1668) 版 (寛文本) では、建長2年(1250) 1月13日の記事に「下野国結城郡」とある。
Fig.632: 吾妻鏡 第40巻 建長2年(1250) 1月13日記事Fig.633: 吾妻鏡 第40巻 建長2年(1250) 1月13日記事
奥陽仙道表鑑の白河結城氏の由来を説明した「結城家由来並浅川合戦之事」に「下野国結城を添へて白河郡を領す」とある。
結城ひでやす卿行状※100に含まれる家譜に「始ハ下野ノ結城ニ拠、後越前ヲ領シテ」とあり、松平直政事蹟録※100でも「下野国結城ノ城ヨリ」(中略)「越前国ニ移封セラレ給フニヨリテ」とある。
朝倉始末記では、永享12〜13年(1440〜1441) の結城合戦について、結城氏朝は春王丸・安王丸をともなって「下野国結城ノ城ニ楯籠リケル」とある。足利系図※101の春王丸の箇所でも「下野国結城城挙義兵」。
安藤氏系譜※102の重信の箇所に慶長17年「下総国小見川・下野国結城ニ於て」加増、元和元年「常陸国鹿嶋・下野国結城・遠江国山上三ヶ庄ニ於テ」加増とある。
松田家系譜の※103の晴朝の箇所に慶長17年「下野結城城主十万千石ヲ領」とある。
おうぞうの宇多郡中村の項目に「下野国結城華蔵寺」とある。ぞうも中世〜近世を通じ、下総国 結城郡の結城本郷に所在し、また現存。

そもそも下総と下野は名前がよく似ている上に読みが難しく、しかもどちらも上総かずさ上野こうずけと対になってため取り違えやすいようだ。義経記に「治承じしょう四年九月十一日、武蔵と下野の境なる松戸の庄、市河といふ所に着き給ふ」とある「下野」は下総の誤りであり、神鳳鈔の写本うち最古とされる神宮文庫所蔵・あらうじつね筆写本では、下総国の「総」を「ツケ」と読ませている。

Fig.634: 神鳳鈔

なお、近世の史料で高椅地域の村々などを指して「下野国結城領」と呼ぶのは誤りではなく、むしろ高椅地域の経緯を的確に表現している。

➸奥陽仙道表鑑

奥州 (陸奥国) 南部、会津・伊達・須賀川・白河の各地方における戦国期の動乱を記した軍記。著者は二本松藩士の木代定右衛門、正徳4年(1714) 成立 (鏡石町史 第2巻 資料編1 考古・古代・中世・近世,1982; 岩代町史 第2巻 資料編1 原始・古代・中世・近世,1985)。『岩磐史料叢書』(1916〜1918) に所収。

➸朝倉始末記

越前国の戦国大名・朝倉氏の興亡を記した軍記。成立時期・著者は不明だが、近世初期に記されたものがもとになっていると考えられている。写本・翻刻は複数あるが、本項では『福井市史 資料編2 古代・中世』(1989) に所収のものを参照した。

➸奥相志

奥州 (陸奥国) 南部、相馬地方の地誌。著者は相馬藩士の斎藤ひろたか、近世末期の成立、『相馬市史 4 資料編1 奥相史』(1969) に所収。

❉91: 『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(1977) 所収。
❉92: 『結城市史 第2巻 近世史料編』(1979) 所収。
❉93: 『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(1977) 所収。なお、当史料には「研究を要す」との注記がある。史料そのものに対して疑義があるのか、由緒・伝承にあたる内容についていっているのか、どちらなのかは不明。
❉94: 『八潮市史 史料編 古代・中世』(1988) 所収。
❉95: 真岡市史 第2巻 古代中世史料編(1984) 所収。「御厨」の意図は不明 (伊勢神宮領になったことはない)、「野州」と同様に認識の誤りかと思われる。
❉96: 『言継卿記』、元亀2年(1571) 7月21日の項目内。
❉97: 『結城陣番帳』、『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(1977) 所収。
❉98: 『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(1977) 所収。
❉99: 『茨城県史料 中世編3』(1990) 所収。
❉100: 『大野市史 第6巻 史料総括編』(1985) 所収。
❉101: 『久喜市史 資料編1 考古・古代・中世』(1989) 所収。
❉102: 『いわき市史 第9巻 近世資料』(1972) 所収。中黒は同 第2巻 近世(1975) を参照し、筆者が補った。安藤氏は江戸後期に磐城平藩に入ったため、系譜などの史料が当地に残っている。
❉103: 『藤井寺市史 第6巻中 史料編4 中』(1988) 所収。系図では結城まさともに朝定という子がおり、この人物が松田家の祖ということになっている。
❖天保郷帳・国絵図の村々※1

近世 下野国 都賀郡

55. 延島村※2※3※4
56. 延島新田村※5
57. 中川原村※6※3※7※8
62. 高橋村※9※10※11※3※4※12
63. 福良村※10※13※7※3※4
64. 中島村
66. 大内川村
196. 桶田村
202. 荒川村※14
205. やけ※15
209. 渋井村※16
210. くろもと※17

216. 島田村※18
217. だい行寺ぎょうじ
218. 立木村※19
271. 粟宮村※20※21
274. 西黒田新田※22※23
275. 東黒田新田※22※23
280. 田間村※24
281. 武井村※25
282. 野田村※26※27
283. 泉新田※28※29※30
284. 川田村※31
285. おお※32※33

286. 稲葉郷
287. 中久喜村※34
288. 神鳥谷村※35※36※37
289. 犬塚村※38
290. 犬塚新田村※39※40
293. 泉崎村
294. 土塔村※41
295. 塚崎村※42
296. 出井いでい※43
297. はちがた※44
298. 向野村
299. 雨ケ谷村※45

300. 横倉村※46
302. 荒井村※28
303. 喜沢村※47
304. 三盃河岸村※48※28
305. 大町村※49※50
306. 半田村※51※52
373. 山田村
374. 飯田村※53※54
375. 上茅橋村※55※56
376. 下茅橋村※55※56
377. やな※3※57
378. 向原新田※58

近世 下野国 河内郡

147. 磯部村※59
148. 絹板村※60
155. 船戸村※28
189. 下吉田村

近世 下野国 芳賀郡

155. 古山村
175. 大島村※61
176. 上江連村
177. 鷲巣村※62※63

近世 下総国 結城郡

1. 結城本郷※64
2. おお※65
3. 小田林村※66
4. すけ※67
5. 小森村※68
6. 小森新田村※69
7. 久保田村※70
8. 中村※71
9. 中村新田※72
10. 鹿窪かなくぼ
11. 林村
12. 作野谷村※73※74
13. 上成村※75
14. 田間村※76
15. 結城寺村※77
16. 矢畑村
17. 上山川村※78※79

18. 山王村※80
19. 古宿新田
20. 大木村※81
21. 武井村※82
22. 新宿村※83
23. 大町新田
24. 今宿村※84
25. 芳賀崎村※85
26. 水海道村※86
27. 浜野辺村※87
28. かすれい※88※89
29. ※90
30. 佐野村※91
31. 大山新田
32. 菅谷すげのや
33. 塩本村
34. 東茂呂村※92※93※94

35. 北南茂呂村※94
36. 七五三場しめば※95
37. 徳右衛門新田※96※97
38. 善左衛門新田※96※97
39. 大戸村新田※96
40. 長左衛門新田※96※98
41. 成田新田※96
42. 兵庫新田※96
43. 善右衛門新田※96
44. 尾崎村※99
45. 尾崎村新田※96※98
46. 松本村
47. みのくち※100
48. 恩名村※101
49. 恩名村新田※96※102
50. 江口新田
51. 平塚村※103※104

近世 下総国 猿島郡

1. 上和田村※105
2. 駒籠村※106※107
3. かみかた※108
4. 下片田村※108
5. 五部ごへい※109※110
6. 諸川村※111
7. 仁連にれい※112
8. 大和田村※113
9. 新和田村※114
10. 北山田村
11. 東山田村
13. やま※115

近世 下総国 葛飾郡

30. やぎはし※116
31. 葛生かずろう※116

近世 下総国 豊田郡

1. 若村

近世 常陸国 真壁郡

118. 玉戸村
148. 盛添島村※117
149. 山田村※118
150. おお
151. 上平塚村
153. しもづれ
154. 小川村
155. 伊佐山村
156. 下川島村
157. おざかた

158. 九蔵新田村
159. ぬのがわ※119※120
160. 船玉村※121
161. 関本上町
162. 関本中町
163. 関本下町※96※122
164. 舟生村
165. 板橋村
166. 犬塚村
183. 花田村

184. 江村
185. 上野村
186. 平方村※123
189. おおわだ※124
190. 大里村
191. 小屋村
192. ※125
194. 八町はっちょう
232. 江村沼新田※96
❉1: 下野国は正保郷帳 (東野地誌)・国絵図、下総国は元禄郷帳・国絵図との対象を含む。
❉2: [中世〜織豊期] 延徳4年(明応元年,1492): 「下条之延嶋郷之内堀内」(多賀谷朝泰寄進状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、弘治2年(1556): 「延嶋之内」(結城政勝所領宛行状、同)。
❉3: 天正13年(1585): 「高橋之宮造営勧進之事、のふしま・につ川・高橋・やな・福ら・中河ら・川嶋并下郷」(結城晴朝朱印状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉4: 天正年間(1573〜1592): 「たか橋・のふしま・ふくら三郷へ、他のくわん進いれす、高橋の御さうゑい、いたすへく候也」(某黒印状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉5: 正保郷帳 (東野地誌) では「延島新田」。
❉6: [中世〜織豊期] 永徳2年(1382): 「中河原合戦」(烟田重幹着到状、小山市史 史料編 中世,1980)。
❉7: [中世〜織豊期] 戦国後期: 「高橋江進納」「上福羅鈴木給分之内」「中川原牛尾田給分之内」(結城政勝寄進状写、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)・同: 「上ふくら」「中かハら」(同)。
❉8: 現在の表記は「中河原」。
❉9: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下総国 結城郡 高橋郷 (和名類聚抄)、康正3年(長禄元年,1457): 「下総国結城郡上高橋郷」(結城成朝寄進状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉10: 享禄4年(1531): 「高橋・福良両村之内」(政直安堵状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉11: 戦国後期: 「貴寺之御寺領高橋郷」(貴寺 = 安穏寺、結城政勝書状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉12: 現在の表記は高椅神社と同じ「高椅」。
❉13: [中世〜織豊期] 天文25年(弘治2年,1556): 「福郎 法光坊」(結城政勝書下状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉14: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「上郷」の「あら川」(小山高朝伊勢役銭算用状写)。
❉15: [中世〜織豊期] 大永5年(1525): 「嶋田・小宅両郷」(小山高朝書下状写、小山市史 史料編 中世,1980)、天文5年(1536): 「おやけ」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、文禄5年(1596): 「小山領小宅村」(結城秀康知行宛行状写、小山市史 史料編 近世1,1982)。
❉16: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「上郷」の「しほい」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天正3〜4年(1575〜1576): 「榎本領之内」の「澁江鄕」(古河公方家料所書立案)。
❉17: [中世〜織豊期] 応永12年(1405): 「下野国小山庄内来本郷」(旦那交名、小山市史 史料編 中世,1980)、天文5年(1536): 「くろもと」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、ほか。
❉18: [中世〜織豊期] 応永12年(1405): 「下野国小山庄嶋田郷」(旦那交名、小山市史 史料編 中世,1980)、天文5年(1536): 「上郷」の「しまた」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、ほか。
❉19: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「上郷」の「たつき」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、ほか。
❉20: [中世〜織豊期] 永徳2年(1382): 「同廿九日粟宮口日々夜々野臥合戦」(烟田重幹着到状、小山市史 史料編 中世,1980)、天文5年(1536): 「下郷」の「あわのミや」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「粟宮」(足利梅千代丸印判状)。
❉21: 正保郷帳 (東野地誌) では「粟野宮村」。
❉22: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「上郷」の「くろ田」(小山高朝伊勢役銭算用状写)。
❉23: 正保郷帳 (東野地誌)・元禄郷帳には含まれない。小山氏の没落とともに荒廃したといわれ (小山市史 通史編2 近世,1984)、江戸期に入って新田として再開発されたようだ。
❉24: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「たんま」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「多摩」(足利梅千代丸印判状)。
❉25: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下野国 都賀郡 高家郷 (和名類聚抄)、天文5年(1536): 「上郷」の「たけい」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「武井」(足利梅千代丸印判状)、文禄5年(1596): 「小山領武井村内」(結城秀康知行充行状写、小山市史 史料編 中世,1980)。
❉26: [中世〜織豊期] 明応3年(1494): 「下野国小山庄野田郷」(小山成長安堵状、小山市史 史料編 中世,1980)、天正5年(1577): 「野田」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「野田」(足利梅千代丸印判状)、天正3〜4年(1575〜1576): 「小山押領之内野田拘之分」の「野田郷」(古河公方家料所書立案)。
❉27: 明治12年(1879) 東野田村に改称、したがって対応する近代の大字は「東野田」。
❉28: [新田・分村] 正保郷帳 (東野地誌) には含まれない。
❉29: 元禄郷帳、および天保郷帳・国絵図では「野田村枝郷」と付記される。
❉30: 明治12年(1879) 南和泉村に改称、したがって対応する近代の大字は「南和泉」。
❉31: [中世〜織豊期] 天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「川田」(足利梅千代丸印判状)、天正5年(1577): 「かハ田」(小山高朝伊勢役銭算用状写)。
❉32: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下野国 都賀郡 小山郷 (和名類聚抄)、ほか。
❉33: 天保郷帳では「古者小山町」と付記され、元禄郷帳では「小山町」。正保郷帳 (東野地誌) では「大谷田郷」。
❉34: [中世〜織豊期] 室町期: 享徳4年(1455): 「同四月十八日中岫江御出令供奉」筑波潤朝軍忠状写、群馬県史 資料編7 中世3 編年史料2,1986)、天文5年(1536): 「下郷」の「中くき」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「中久木」(足利梅千代丸印判状)、ほか。
❉35: 天文5年(1536): 「下郷」の「しとゝのや」(小山高朝伊勢役銭算用状写)。
❉36: 「巫鳥/鵐 (しとど)」は鳥の名前。「神鳥」は「巫」の代わりに「神」を用いているものと思われる。正保郷帳 (東野地誌) では左右に、元禄郷帳・天保国絵図では上下に「神」「鳥」を配した 1文字 (『嶋/嶌』『峰/峯』『崎/嵜』『略/畧』『群/羣』などと同様、特に意味はない)。
❉37: 天保国絵図ではほかに「神鳥谷村之内」と付記された「神鳥谷新田」がある (天保郷帳・正保郷帳 (東野地誌) には含まれない)。
❉38: 天文5年(1536): 「下郷」の「いぬつか」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「犬塚」(足利梅千代丸印判状)。
❉39: 正保郷帳 (東野地誌) では「犬塚新田」。
❉40: 明治3年(1870) 犬塚村に編入、したがって直接対応する近代の大字は存在しない。
❉41: [中世〜織豊期] 永禄9年(1566): 「土塔本願仏聖房覚秀聖人」(小山秀綱修理銘、小山市史 史料編 中世,1980)。
❉42: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「下郷」の「東つかさき」「西つかさき」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「塚崎」(足利梅千代丸印判状)。
❉43: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「上郷」の「いて井」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天正5年(1577): 「下出井郷」(小山伊勢千代丸政種書状、小山市史 史料編 中世,1980)、ほか。
❉44: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「上郷」の「はちかた」(小山高朝伊勢役銭算用状写)。
❉45: [中世〜織豊期] 天正5年(1577): 「下郷」の「あまかや」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「尼賀谷」(足利梅千代丸印判状)、天正17年(1589): 「あまかひ之内」(結城晴朝寄進状、小山市史 史料編 中世,1980)、ほか。
❉46: [中世〜織豊期] 天正5年(1577): 「下郷」の「よこくら」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「横倉」(足利梅千代丸印判状)。
❉47: [中世〜織豊期] 文亀3年(1503): 「木沢之けん座役」(小山成長判物、小山市史 史料編 中世,1980)、天正5年(1577): 「きさワ」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、ほか。
❉48: 現在の表記は「さんばいかわぎし」。
❉49: 明治6年(1873) 羽川宿に改称、したがって対応する近代の大字は「はねかわ」。
❉50: 正保郷帳 (東野地誌) では「太町新田」。
❉51: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「はん田」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天正9年(推定,1581): 「昨日廿八半田へ被越張陣之由候」(佐竹義重書状写、同)。
❉52: 明治12年(1879) 南半田村に改称、したがって対応する近代の大字は「南半田」。
❉53: 元禄郷帳では「古館田村」(または『古舘田村』) と付記されるが、正保郷帳 (東野地誌) では「飯田村」。
❉54: 明治12年(1879) 北飯田村に改称、したがって対応する近代の大字は「北飯田」。
❉55: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「かやハし」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、文禄5年(1596): 「結城萱橋村之内」(結城秀康朱印状写/高橋神社文書、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、同: 「結城領萱橋村内」(結城秀康黒印状/大輪寺文書、同)。
❉56: 明治9年(1876) 合併し萱橋村、したがって現在の地名は「かやばし」。
❉57: 現在の表記は「梁」。
❉58: [新田・分村] 正保郷帳 (東野地誌)・元禄郷帳には含まれない。
❉59: 正保郷帳 (東野地誌)・元禄郷帳では「礒部村」。
❉60: 正保郷帳 (東野地誌) では「𥿻坂村」。
❉61: 明治12年(1879) 西大島村に改称、したがって対応する近代の大字は「西大島」。
❉62: [中世〜織豊期] 天正14年(1586): 「長沼郷わしのす多か谷将監給分之内」(結城晴朝寄進状、結城市史 第1巻 古代中世史料編 ,1977)。
❉63: 正保郷帳 (東野地誌)・元禄郷帳では「鷲之巣村」。
❉64: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下総国 結城郡 結城郷 (和名類聚抄)、ほか。
❉65: [中世〜織豊期] 大永6年(1526): 「あふや瀬」(人見右京亮宛多賀谷家植知行宛行状、関城町史 史料編3 中世関係史料,1985)、弘治2年(1556): 「あふやせ」(結城氏新法度、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉66: [中世〜織豊期] 天正8年(1580): 「小田林郷簗民部少輔給分之内」(結城晴朝所領宛行状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、慶長3年(1598): 「結城領 小田林村之内」(結城秀康知行充行状、茨城県史料 中世編6,1996)、ほか。
❉67: 元禄郷帳・国絵図では「小田林村之枝郷」、天保郷帳では「小田林村枝郷」と付記される。
❉68: [中世〜織豊期] 天正14年(1586): 「こもりニおゐて」(結城晴朝所領宛行状写、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉69: 明治初期に小森村に編入されたと思われ、対応する近代の大字は存在しない。
❉70: [中世〜織豊期] 大永8年(享禄元年,1528): 「くほた郷之内おしま分之内」(結城政朝所領宛行状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、天正20年(1592): 「結城領内知行分」「中村 窪田内」(結城秀康宛行状、同)、ほか。
❉71: 天正20年(1592): 「結城領内知行分」「中村 窪田内」(結城秀康宛行状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉72: 近世末までに中村に編入されたと思われ、対応する近代の大字は存在しない。
❉73: [中世〜織豊期] 織豊期: 「さく乃や之内おふり給分」(結城晴朝寄進状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉74: 明治19年(1886) 結城町に編入、したがって、対応する近代の大字は存在しない。
❉75: [中世〜織豊期] 天文25年(弘治2年,1556): 「上無」(結城政勝書下状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、永禄7〜8年(1564〜1565): 「上山川之内山王内寺野・田間・かす□い・うへなし」(〜かすれい〜、中黒は筆者が補った、山川氏重等連署寄進状写、同)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「うへなし」(豊臣秀吉宛行状)。
❉76: [中世〜織豊期] 永禄7〜8年(1564〜1565): 「上山川之内山王内寺野・田間・かす□い・うへなし」(〜かすれい〜、中黒は筆者が補った、山川氏重等連署寄進状写、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「田間」(豊臣秀吉宛行状)。
❉77: 明治18年(1885) 上山川村に編入、したがって、対応する近代の大字は存在しない。
❉78: [中世〜織豊期] 永禄7〜8年(1564〜1565): 「上山川」(山川氏重等連署寄進状写、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉79: 豊臣秀吉宛行状には直接的には含まれないが、各郷の分布、および山川氏の中世城館が本村に所在することから (現在の東持寺所在地、結城市史 第4巻 古代中世通史編,1980)、「本郷」が対応するものと考えられる。また、下総国旧事考に「此村ハ本郷金ケ堤村ト云シトゾ」とあることや、本村と山王村・今宿村にまたがるあたりに「金ケ堤」の地名 (小字) が存在するので (茨城県報 第1649号・第1969号・結城市都市計画図#61,62)、南端付近が「かねかつゝミ」に対応するものと考えられる。
❉80: [中世〜織豊期] 永禄7〜8年(1564〜1565): 「上山川之内」の「山王」(山川氏重等連署寄進状写、同)。
❉81: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「大木」(豊臣秀吉宛行状)。
❉82: [中世〜織豊期] 元亨元年(1321): 「下総国結城郡下方内毛呂郷」の四至牓示として「武井」(山河貞重寄進状案、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉83: 豊臣秀吉宛行状には直接的には含まれないが、本村南部に「山川綾戸城跡」があるので、「あやつ」(あやと) が対応するものと考えられる。
❉84: 豊臣秀吉宛行状に直接的には含まれないが、本村中央東部に「下山」の地名 (小字) が散在するので (結城市都市計画図#72,73)、「下やま」が対応するものと考えられる。
❉85: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「はかさき」(豊臣秀吉宛行状)。
❉86: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「水皆道」(豊臣秀吉宛行状)。
❉87: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「はまのへ」(豊臣秀吉宛行状)。
❉88: [中世〜織豊期] 永禄7〜8年(1564〜1565): 「上山川之内山王内寺野・田間・かす□い・うへなし」(〜かすれい〜、中黒は筆者が補った、山川氏重等連署寄進状写、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977) )、天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「かすれい」(豊臣秀吉宛行状)。
❉89: 現在の表記は「粕礼」。
❉90: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「せとひ」(豊臣秀吉宛行状)。
❉91: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「さの」(豊臣秀吉宛行状)。
❉92: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下総国 結城郡 茂侶郷 (和名類聚抄)、元亨元年(1321): 「下総国結城郡下方内西毛呂郷」(下総国西呂郷田畠在家坪付注文、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、同: 「下総国結城郡下方内毛呂郷」(山河貞重寄進状案、同)、康応2年(1390): 「茂呂郷年貢銭目六」「北毛呂分」「南毛呂分」(下総国毛呂郷年貢銭注文、同)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「ひかしもり」(ひかしもろ、豊臣秀吉宛行状)、ほか。
❉93: このほか、「一ツ木」の地名 (小字) が存在し (結城市都市計画図#68,69・地理院地図)、その付近を通る古道が「一ツ木街道」と呼ばれ、目印にもなっていることから (結城市史 第5巻 近世通史編,1983)、中央部が豊臣秀吉宛行状の「ひとつき」に対応するものと考えられる。
❉94: 天保郷帳で東茂呂村は「古者茂呂村」、北南茂呂村は「古者茂呂村之内」と付記され、元禄郷帳・国絵図では「茂呂村」。
❉95: [中世〜織豊期] 元亨元年(1321): 「下総国結城郡下方内毛呂郷」の四至牓示として「志目波」(山河貞重寄進状案、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「志めは」(豊臣秀吉宛行状)。
❉96: [新田・分村] 元禄郷帳・国絵図には含まれない。
❉97: 明治11年(1878) 徳右衛門新田・善左衛門新田ほか3村で合併し下山川村、したがって対応する近代の大字は「下山川」。
❉98: 昭和30年(1955) 長左衛門新田・尾崎村新田ほか 1大字を統合し、現在は「間中橋」。
❉99: [中世〜織豊期] 元亨元年(1321): 「下総国結城郡下方内毛呂郷」の四至牓示として「尾崎」(山河貞重寄進状案、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「をさき」(豊臣秀吉宛行状)。
❉100: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「ミのくち」(豊臣秀吉宛行状)。
❉101: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「おんな」(豊臣秀吉宛行状)。
❉102: 明治初期に恩名村に編入されたと思われ、対応する近代の大字は存在しない。
❉103: 中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「ひらつか」(豊臣秀吉宛行状)。
❉104: [中世〜織豊期] 天保郷帳では「古者 平塚村 平塚村新田 弐ケ村」と付記され (村名は併記)、元禄郷帳・国絵図では「平塚新田」がほかにある。
❉105: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国)「幸嶋郷之内」の「和田」(豊臣秀吉宛行状)。
❉106: [中世〜織豊期] 天正18年(1590): 「下野国」(下総国)「幸嶋郷之内」の「こまこめ」(豊臣秀吉宛行状)。
❉107: 現在の表記は「駒込」。
❉108: [中世〜織豊期] 天正2年(1574): 「上幸嶋」の「かたゝ」(御料所方認書)。
❉109: [中世〜織豊期] 天正2年(1574): 「上幸嶋」の「五部」(御料所方認書)。
❉110: 天保郷帳では「古者五遍村」と付記され、元禄郷帳・国絵図では「五遍村」。
❉111: [中世〜織豊期] 元亨元年(1321): 「下総国結城郡下方内毛呂郷」の四至牓示として「毛呂河」(山河貞重寄進状案、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、室町期: 「下総国結城郡山川郷茂呂河」(山川景貞寄進状写、同)、織豊期: 天正18年(1590): 「下野国」(下総国)「幸嶋郷之内」の「もろ川」(豊臣秀吉宛行状)、ほか。
❉112: [中世〜織豊期] 天文22年(1553): 「幸嶋莊閏年鄕役之事、若林・仁禮兩鄕」(梅千代王丸 (足利義氏) 印判状写、古河市史 資料 中世編,1981)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国)「幸嶋郷之内」の「仁連」(豊臣秀吉宛行状)、ほか。
❉113: 天正2年(1574): 「大わた」(北条家印判状写、古河市史 資料 中世編,1981)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「幸嶋郷之内」の「太和田」(豊臣秀吉宛行状)。
❉114: [新田・分村] 慶長7年(1602) 大和田村から分村 (猿島郡郷土大観,1927,1972)。
❉115: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下総国 猨嶋郡 八侯郷 (和名類聚抄)、天文24年(推定,1555): 「長谷鄕・泉田鄕・山太鄕・同中里分」(梅千代王丸 (足利義氏) 充行状写、古河市史 資料 中世編,1981)、天正2年(1574): 「上幸嶋」の「山太」(御料所方認書)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国)「幸嶋郷之内」の「山田」(豊臣秀吉宛行状)。
❉116: [中世〜織豊期 天文23年(1554): 「八木橋・葛生」(梅千代王丸 (足利義氏) 充行状写、古河市史 資料 中世編,1981)、天正2年(推定,1574): 「やきはし、かづらふ」(足利義氏書状写、同)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国)「幸嶋郷之内」の「やきはし」「かつらふ」(豊臣秀吉宛行状)、ほか。
❉117: 現在の表記は「もりそえじま」。
❉118: 対応する近代の大字は「西山田」。
❉119: [中世〜織豊期] 建治3年(1277): 「常陸国ヌノ河ノ教念房」(大谷親鸞廟屋地手継文書目録、目録は年月日不詳、関城町史 史料編3 中世関係史料,1978)、嘉慶2年(1388): 「常州布川」(高麗清義軍忠状、小山市史 史料編 中世,1980)、ほか。
❉120: 天保郷帳では「古者 布川村 布川新田村 弐ケ村」と付記され、天保国絵図および元禄郷帳・国絵図には「布川村之内」と付記された「布川村新田」がほかにある。
❉121: 元禄郷帳・国絵図では「舟玉村」。
❉122: [新田・分村]天保郷帳・国絵図とも「関本中町之内」と付記される。
❉123: [中世〜織豊期] 天文18年(1549): 「関郡一円、先達者平方栄城坊」(多門坊改源旦那売券、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、文禄5年(1596): 「ひら片」(某黒印状写、同)。
❉124: 元禄郷帳では「大渡リ戸村」。
❉125: [中世〜織豊期] 永享12年(1440): 「常州法雲寺并正受菴領同国関郡内水飼戸郷・同久下田・同稲荷荒野」(同国 = 常州) (法雲寺並びに正受庵領宛上杉清方禁制、関城町史 史料編3 中世関係史料,1985)。
❖田間・武井

近世 下総国 結城郡と下野国 都賀郡には、同名の田間・武井 2村が国界を挟んで相対している。文禄3年(1594) 前後の中世 相模国 東郡 相原郷 (はら郷、【(19) 高座川左岸の変遷】参照) や、明治29年(1896) 前後の近世 下総国 葛飾郡 東金野井・西金野井 2村、親野井・西親野井 2村、西宝珠花・東宝珠花 2村など (【(7) 近代の下総国】参照) のように、貫流する河川流路が変動後の国界となったために分断された郷 (村) の例があるが、下総の田間・武井 2村も下野の田間・武井 2村も、それぞれ集落は台地上にあって間には飯沼上流部の低湿地が存在する。また国界の地形的な特徴が変化するという意味では中世 相模国 鶴間郷 (つる郷、【(19) 高座川左岸の変遷】参照) 付近の相模・武蔵の国界と類似する。

元亨元年(1321) 山河貞重寄進状案※126によれば、「下総国結城郡下方内毛呂郷」の四至牓示として「大町境・武井境をもって北を限る (限北大町堺武井堺於)」とあり、大町と武井との境界が毛呂郷 (近世 下総国 結城郡 東茂呂村・北南茂呂村) の北限となっていた。しかし、毛呂郷自体が「毛呂河」(飯沼上流部の低湿地を流れる小河川、現在の西仁連川にあたる) より東にあるため、この文書は下総の武井村との境界しか描写していない。

中世の史料ではほかに、永禄7〜8年(1564〜1565) 山川氏重等連署寄進状写※126と天正18年(1590) 豊臣秀吉宛行状※126の「田間」が下総の田間、天文5年(1536) 小山高朝伊勢役銭算用状写にある「下郷」の「たんま」「たけい」と天文23年(1554) 足利梅千代丸印判状の「小山領十一郷」の「多摩」「武井」が下野の田間・武井、文禄5年(1596) 結城秀康知行充行状写※127の「小山領武井村内」が下野の武井である。時期が重なることから、すでに山川領 (下総国) としての田間・武井 2村と小山領 (下野国) としての田間・武井 2村が併存していたと考えられるが、両者の間で収奪が行われた可能性が完全に否定されるわけでもない。

国界の変動があったとすれば、毛呂郷の存在を前提に、飯沼上流部の低湿地をまたいで西側にも張り出していた下総国 結城郡の田間・武井 2村が、山川領と小山領に分かれ、これがそのまま検地の過程で下総・下野の国界に反映されたと考えるのがもっとも自然だが、確かにそうだといい切るには情報が足りない。

❉126: 『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(1977) 所収。
❉127: 『小山市史 史料編 中世』(1980) 所収。