この地域の寺社領に宛てられた朱印状はまとまったかたちで残っている※63。国郡の記載に注目すると以下のとおりである。
〈高椅大明神社〉(現在の高椅神社)
▷ | 慶安元年(1648): | 徳川家光から「下総国結城郡明神」に「結城郡高橋村」のうち30石 (『下総国結城郡明神領同郡高橋村之内三拾石』)※64 |
▷ | 貞享2年(1685): | 綱吉から「下総国結城郡明神」に「結城郡高橋村」のうち30石※65 |
▷ | 享保3年(1718): | 吉宗から「(下野国) 都賀郡明神」に「都賀郡高橋村」のうち30石※65 |
▷ | 以降は、延享4年(1747)・宝暦12年(1762)・天明8年(1788)・天保10年(1839)・安政2年(1855)・万延元年(1860)のすべて※65で宛先 (所在地)・社領の記載とも変わりない。 |
〈延島村 宝性寺〉
▷ | 慶安元年(1648): | 徳川家光から「下野国結城郡延島村宝性寺」に「結城郡本郷※66」のうち5石 (『下野国結城郡延嶋村宝性寺領同郡本郷内五石』)※64 |
▷ | 貞享2年(1685): | 綱吉から「下野国都賀郡延島村宝性寺」に「都賀郡本郷」のうち5石 (『下野国都賀郡延嶋村宝性寺領同郡本郷内五石』)※65 |
▷ | 享保3年(1718): | 吉宗から「下野国都賀郡延島村宝性寺」に「下総国結城郡本郷」のうち5石 (『下野国都賀郡延嶋村宝性寺領下総国結城郡本郷之内五石』)※65 |
▷ | 以降は、延享4年(1747)・宝暦12年(1762)・天明8年(1788)・天保10年(1839)・安政2年(1855)・万延元年(1860)のすべて※65で宛先 (所在地)・寺領の記載とも変わりない。 |
〈福良村 宝蔵坊〉(福城寺)
▷ | 慶安元年(1648): | 徳川家光から「下総国結城郡福良村宝蔵坊」に「結城郡本郷」のうち5石 (『下総国結城郡福良村宝蔵坊領同郡本郷之内五石』)※64 |
▷ | 貞享2年(1685): | 綱吉から「下総国結城郡福良村宝蔵坊」に「結城郡本郷」のうち5石※65 |
▷ | 享保3年(1718): | 吉宗から「下総国結城郡福良村宝蔵坊」に「結城郡本郷」のうち5石※65 |
▷ | 以降は、延享4年(1747)・宝暦12年(1762)・天明8年(1788)・天保10年(1839)・安政2年(1855)・万延元年(1860)のすべて※65で宛先 (所在地)・寺領の記載とも変わりない。 |
これらによれば、高椅大明神社の所在地は享保3年(1718) に、延島村 宝性寺の所在地は貞享2年(1685) に、それぞれ「下野国都賀郡」に変更され、福良村 宝蔵坊については「下総国結城郡」のまま変更されていない。
また、延島村 宝性寺の寄進地は下総国 結城郡の本郷 (結城本郷) だが、貞享2年(1685) の朱印状では所在地が「下野国都賀郡」に変更された一方、寄進地の表現が「同郡本郷」のままだったため、文脈上「都賀郡本郷」となって結城本郷が下野国 都賀郡に存在することになってしまった。享保3年(1718) の朱印状では「同郡」ではなく「下総国結城郡本郷」となって訂正された。
❉63: | ほかに「簗村不動院」に「結城郡高橋村」のうち5石を寄進する慶安元年(1648)の寄進状がある (『下総国結城郡簗村不動院同郡本郷村之内五石』) が、その後の経過を確認できない。 |
❉64: | 小山市史 史料編 近世1(1982) 所収。 |
❉65: | 栃木県立文書館 所蔵文書目録 #207「徳川将軍家朱印状」・寄託文書目録 #3「添野一夫家文書」による。「(下野国)」は本稿で補った。 |
❉66: | 結城本郷のこと。結城町ともいい、結城藩の城下町。 |
高椅神社や宝性寺・宝蔵坊に同じ年次の朱印状が複数存在するのは、「御朱印改め」(御朱印御改) として、徳川政権 (江戸幕府) の将軍が代替わりするたびに書き改められたことによる。中世〜織豊期、支配者が替わるたびに行われた「安堵」と本質的には同じものであり、寺社としても所領や特権の保証を得るためには必要不可欠のものだったが、第4代家綱がそれまでまちまちだったものを一斉に発給 (いわゆる『寛文印知』) し、様式などが定まってからは権威的・儀礼的な色彩が強まった。
御朱印改めは全体で 3つの段階からなるが、内容は第1段階ですべて決まる。第2段階は幕府で新しい朱印状を作成する期間、第3段階はそれを発給する (受け取る) 行事である。なお、第3段階は地元 (代官所など) で済んだが、第1段階では寺社は江戸に出向かなければならず、1か月前後の滞在を必要とした。第2段階は長く、寺社は新しい朱印状を受け取るまで 1〜2年ほど待たされた。
第1段階における幕府 (寺社奉行) の業務は、現行および過去に発給を受けたすべての朱印状とその写し (複数)・目録を提出させ、新しい朱印状を作成するための情報を収集するとともに、朱印状の現状を確認することが主になっている。その注意は、提出物が定められた形式・数量となっていることや、写しの精密さ、過去の朱印状の有無・保存状態、および不備があるのならその始末書の確認に終始し、変更事項や文字の訂正などに関しては、すべて寺社側に申告を求めた。つまり、申告がなければ新しい朱印状に現状が反映されることはなかった。明和7年(1770) 「高橋村高椅大明神社楼門再建立につき披露状」によれば、下野国 都賀郡に移った時期を高椅神社は元禄9年(1696) 以降と認識している※67。高椅神社の朱印状では貞享2年(1685) まで「下総国結城郡明神」、享保3年(1718) 以降にその認識が反映されて「(下野国) 都賀郡明神」となり、ようやく正しくなった。
また、たとえ近接する寺社であっても幕府側で整合性を考慮することはなかった。宝性寺 (延島村) は高椅神社より先行して貞享2年(1685) の朱印状から「下野国都賀郡延島村宝性寺」となっているが、宝蔵坊 (福良村) は江戸末期にいたるまですべて「下総国結城郡福良村宝蔵坊」であって変化がない。宝性寺における「都賀郡本郷」が次の朱印状で訂正されたのも、同寺からの申告によるものと考えられる。なお寺社の御朱印改めは、宗派ごとに江戸または付近所在の有力寺院 (触頭) を通して通達された※68。延島村 宝性寺は真言宗 (智山派)、福良村 宝蔵坊 (福城寺) は天台宗、高椅神社は神主支配で別当寺はなかったとみられる。
なお寺社に宛てられたものではないが、寛文4年(1664) 久世大和守広之に宛てられた朱印状でも、その領知目録の中で、中河原村・高橋村・福良村・中島村は「下総国結城郡之内」に含まれる※69。
❉67: | 小山市史 史料編 近世1(1982) 所収。原文は「元禄九年より下野国都賀郡へ御加入被仰付侯、然は国郡も相改」。 |
❉68: | 日本宗教制度史の研究(1938, 豊田)・日本史用語大辞典 用語編(1978)。 |
❉69: | 久世大和守領知目録 (栃木県史 史料編 近世1,1974)。 |
御朱印改めは、特に江戸との往復と滞在費用の負担が大きく、それ以外にも献上品や挨拶回りの土産なども用意しなければならず、江戸から遠い場合はもちろん、石高が小さい場合は割に合わないものだったようだ※70。
浜名 白須賀の蔵法寺※71は
「4月18日に到着したのにもかかわらず、改め (ここでは第1段階最終日の儀式のこと、以下同じ) は 5月29日で、思っていたよりかなり日数がかかって一同迷惑した」※72
と、また【(3) 古代から中世・近世はじめにかけての下総国】(新方)で扱った安国寺※73は
「1日だと聞いていたのに、おおむね4〜50日ほどで (ようやく) 終わった。心構えとして記しておく」※74
と書き残している。ただ、どちらかといえば期間そのものより、寺社奉行を訪ねたら何日に来いといわれ、その日に行ったらまた何日に来いといわれる、といったことの繰り返しで予定が立たないことや、無駄足・連絡不行届きへの不満が大きかったらしく、ほかの史料にも同じようなことが書き残されている。一方で、伊那 古城の八幡宮※75は往復の旅や江戸滞在中も名所見物・参詣・食事などを満喫し、奉公に出ていた地元の若者との再会を喜ぶなど、楽しんでいた向きもあり※76、このあたりは伊勢参りに似ている。
朱印状の写しは、内容が同じであることは当然のこととして、仮名・漢字の別や改行も含めて一致するよう精密さが求められ、そのほか目録の書式なども細かく指定された。一例として、第13代 家定の御触書には
「本書之通文字賦り行、或は仮名にて有之所は其通 御本書ニ少も違無之」
「上包幷上書等も 御本書御同様」
とあり※77、内容はほかの代も基本的に同じである。また過去の朱印状の有無・保存状態と不備についても念入りに確認され、たとえば有渡 大谷の大正寺※78は具体的な箇所を示した上で
「水に濡れた跡がありますが、前々より改めの際は申告し、御了承いただいており、なおまた今回の改めでもこのとおり申告いたします (ので同じように御了承いただきたく)」
とするなど※79、始末書を提出した例は少なくない※80。
変更事項については、たとえば
「前回御朱印をいただいてから村替などあっただろうか、村名の違いや、あるいは単なる文字の違いも含めて、当時までにいただいた朱印状とは現在異なることがあれば、すべて提出する目録に記載するように」
とあり※81、朱印状が発給される側からの申告を求め、寺社奉行ではそれを照査するという手順になっている。
通達の経路については、前述のとおり宗派ごとに触頭を通して通達されたが、新座 宝幢寺※82には例外的に所在地の陣屋からも通達 (御触書) が届き、基本的には後者の指示に従った※83。触頭は江戸 愛宕下の真福寺、陣屋は上野国 高崎藩の野火止領を管轄した野火止陣屋。当時、高崎藩主の松平右京亮輝聴が寺社奉行見習いだったが※84、それが理由かはわからない。
現在、御朱印改めについて詳細な内容が伝わる史料は江戸後期に集中する。しかし、宝永8年(1711) 第6代 家宣のときの御触書※85でも後代と同じ内容なので、江戸中期の手続き内容もそう変わらなかったかと推定される。なお、前回までの朱印状は第1段階の最終日、儀式の終了後に返却された※86。具体的な様子は市原加茂の賀茂大明神 (賀茂大神宮)※87の記録に詳しい※88。現在、例外を除いて寺社に原本が残っていないのは、基本的に明治初期に新政府が回収したためである※89。
徳川政権 (江戸幕府) が作成させた国絵図および郷帳は、各国の生産性を石高として村単位に把握するためのものであり、また街道筋では主要地点間の距離 (里数)、渡河地点では川幅・水深が求められ、さらに古くは山間部で牛馬の通行可否も要求されるなど、軍事上の情報も把握する目的があったとみられる。したがって、国絵図および郷帳は高度な機密情報であり、完成後は「官庫」に収納、厳重に管理されて一般に利活用されるようなものではなかった。戦乱の余波が残り、幕藩体制も未熟な江戸初期においてはそもそも実用より、すべてをさらけ出させ、それを掌握することにより諸大名を屈服させる目的のほうが大きかったのかもしれない。
明和7年(1770) 高橋村高椅大明神社楼門再建立につき披露状※90には「元禄九年より下野国都賀郡へ御加入被仰付侯、然は国郡も相改」とあり、高椅神社が認識する国郡変更の時期は元禄9年(1696) だった。
❉70: | 「『御朱印改め』に関する一考察」(神道宗教 第128号,1987, 竹林)。 |
❉71: | 近世 遠江国 浜名郡 白須賀宿、現在の 静岡県 湖西市 白須賀に所在。 |
❉72: | 御朱印御改之節御録所ゟ御廻達御触状写並御朱印御写認様 (湖西市史 資料編7,1987)、原文「日数大分相懸り一同迷惑仕・拙寺坏も四月十八日ニ着候得共」(中略)「五月廿九日之御改ニ相成存外・手間取六月十日ニ帰寺仕候」。この文書は第12代 家慶のときの記録。 |
❉73: | 近世 武蔵国 埼玉郡 大泊村、現在の埼玉県 越谷市 大泊に所在。 |
❉74: | 大龍山東光院安国寺記録 (越谷市史 続史料編2,1982)、原文「一日間ニ窺ニ罷出候、凡四五拾日程ニ相済申候、為心得記シ置候」。この部分は第8代 吉宗のときの記録。 |
❉75: | 近世 信濃国 伊那郡 古城村、現在の長野県 阿南町 富草に所在 (古城八幡社)。 |
❉76: | 御朱印改道中記(1961)、第13代 家定・第14代 家茂。 |
❉77: | 御朱印御改之控 (岩槻市史 近世史料編4 地方史料 下,1982)、第13代 家定。同市史は第11代 家斉のときの文書 (御朱印御改手引) も所収する。御朱印御改之控は浄国寺 (近世 武蔵国 埼玉郡 加倉村、現在の埼玉県 さいたま市 岩槻区 加倉に所在)、御朱印御改手引は勝軍寺 (近世 武蔵国 埼玉郡 尾ケ崎村、現在の埼玉県 さいたま市 岩槻区 尾ケ崎に所在)。 |
❉78: | 近世 駿河国 有渡郡 大谷村、現在の静岡市 駿河区 大谷に所在。 |
❉79: | 御朱印水染ニ付書上 (静岡市史史料 史料1,1965)、原文「水染御座候、前々御改之節御届奉申相済来候、猶又今般御改ニ付、此段御届奉申上候」、第12代 家慶。 |
❉80: | 御朱印御改留記 (戸田市史 資料編2 近世1,1983) や家定公御代御朱印御改諸用記録 (大田区史 資料編 寺社2,1983) など。前者は墨汚れ・虫喰い、後者は一部紛失。また前者は観音寺 (近世 武蔵国 足立郡 新曽村、現在の埼玉県 戸田市 新曽に所在)・第14代 家茂、後者は東光寺 (近世 武蔵国 比企郡 日影村、現在の埼玉県 ときがわ町 日影に所在)・第13代 家定。 |
❉81: | 大龍山東光院安国寺記録 (越谷市史 続史料編2,1982)、原文「指出之目録は、延享之度御朱印頂戴以後村替等有之歟、村名違文字違之類何も当時迄所持之御朱印ニ違候儀有之候ハゝ可指出候」、この部分は第10代 家治。 |
❉82: | 武蔵国 新座郡 館村、現在の埼玉県 志木市 柏町に所在。 |
❉83: | 御朱印御改日記 (志木市史 近世資料編3,1987)、第13代 家定。 |
❉84: | 続徳川実紀 嘉永5年(1852) 7月8日「奏者番松平右京亮は寺社の奉行の見習いを命ぜらる」(新訂増補 国史大系 第49巻,1934)、同 安政3年(1856) 9月24日「御役替五人」「寺社奉行 松平右京亮」(新訂増補 国史大系 第50巻,1935)、御朱印御改日記は嘉永6年(1853) 11月〜安政3年(1856) 12月の記録。 |
❉85: | 御触書寛保集成(1934) の文書#699・徳川禁令考 前集 第2(1959) の文書#778。 |
❉86: | 「内閣文庫未刊史料細目 上」(1977) など。具体的には「御朱印改め並に頂戴関係記録」(南総郷土文化研究会双書 第13号,1982) の後半と「市原市史 中巻」(1986) に第14代 家茂のときの実際の様子が記録されている。 |
❉87: | 近世 上総国 市原郡 加茂村、現在の千葉県 市原市 高滝に所在 (高滝神社)。 |
❉88: | 御朱印改め並に頂戴関係記録 (南総郷土文化研究会叢書 第1巻,1963) の後半、第14代 家茂のときの記録。市原市史 中巻 (1986) 第3章 第8節 第1項内に解説部分が引用されている。なお、南総郷土文化研究会叢書 第1巻の前半は第11代 家斉のときの記録。 |
❉89: | 埼玉県史料集 第6集 諸国寺社朱印状集成(1973)。 |
❉90: | 小山市史 史料編 近世1(1982) 所収。--- |