以下は天保摂津国絵図である。

南東端 (右下) に着目すれば、摂津・和泉・河内の国界が直線的に表現されている。以下は堺付近を拡大したもので、堺町は一般の村々のような小判形の図形 (枠) では表現されず、文字だけで「堺町」とある。この扱いは大坂城下の「大坂町」と同じである。

また以下は天保和泉国絵図 (左)・河内国絵図 (右) である。

和泉国絵図の北端 (上) と河内国絵図の中央西部 (中央左) の形状は摂津国の形状と一致する。

上は摂津国と同様に和泉国絵図の堺付近を拡大して示したもので、やはり堺町は一般の村々のような小判形の図形 (枠) では表現されていない。和泉国絵図の場合、摂津国絵図とは異なって「堺町」の文字はないが、町を囲む堀 (環濠) が郡界より細い黒線で表現され、また大小路付近の境界詳細として「堺町南入口より大小路迄拾町五間半」とある。
なお、元禄6年(1693) それまでの北本郷・南本郷・北端郷・南端郷を改め、それ以降の町内は北組・南組として把握された※1。摂津国絵図に描かれているのが北組の部分、和泉国絵図に描かれているのが南組の部分ということになる。
国郡変更の要因となった摂津国 住吉郡の分断は大和川の流路変更による。大和盆地 (奈良盆地) 東部の山地を源流とする大和川は、盆地内で支流を集め、生駒山地と金剛山地の間を貫流して大阪平野へ流れ出ている。本来は、このあと北方へ分流しながら現在の淀川に相当する流路に合流していたところ、宝永元年(1704) に上町台地を横断する現在の流路が人工的に開削され、大幅に短絡された。
元禄の河内国絵図には北へ向かって流れ、沼沢地をつくる大和川が描かれている。

天保の河内国絵図における流路は現在と変わらない。ただし「大和川」と明示されているのは旧流路だけである。この旧流路は細流として描かれ、途中で途切れている。

大正11年(1922) 刊行の地誌、著者は井上正雄。大阪府の地方課に勤務していた著者が管内の国郡・市町村の沿革をまとめようとしたことをきっかけに、明治43年(1910) 資料の収集に着手、大正2年(1913) 以後は職を離れて執筆に専念し、大正8年(1919) までに完成させた。
| ^ ※1: | 堺市史 第3巻 本編第3(1930)。 |
| ^ ※2: | 旧高旧領取調帳 近畿編(1975)。 |
| ^ ※3: | 大阪府市町村の沿革(1961)。 |
| ^ ※4: | 大阪府全志 巻之3(1922)。 |
| ^ ※5: | 神奈川県史 資料編5 近世2 本編(1972) 所収。 |
| ^ ※6: | 天保5年(1834) 御領分郷村高帳、古河市史 資料 近世編 藩政(1979) 所収。 |