ここでは、戦国期から織豊期にかけて発生した陸奥・常陸国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである依上保について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、現在の茨城県 大子町にほぼ相当する。地形図にその範囲を重ねて示せば以下とおり。

天保郷帳・国絵図の村々
近世 常陸国 久慈郡※1
- 112. 長貫村※2※3
- 113. 梶畑村※2※3
- 114. 諸沢村
- 115. 下小川村※4※5
- 116. 西金村
- 117. 富根村※6※7※8
- 118. 田野村※7※8
- 119. 武弓新田村※9※10※11※12
- 120. 天下野村※13※14
- 121. 高倉村※15※16※17※14
- 122. 頃藤村※18
- 123. 大沢村
- 124. 塩沢新田※19※20
- 125. 下津原村
- 126. 南田気村※21
- 127. 北田気村※21
- 128. 久野瀬村※22
- 129. 袋田村※23
- 130. 小生瀬村※24
- 131. 高柴村※25
- 132. 大野村※26※27※28
- 133. 大生瀬村※24
- 134. 池田村※29
- 135. 大子村※30
- 136. 槐沢新田※31
- 137. 上沢村※32
- 138. 山田村※33
- 139. 栃原村※34
- 139a. 久隆村※35
- 140. 相川村※36
- 141. 相川古新田※37※38
- 142. 上金沢村
- 142a. 田野沢村※39
- 143. 開田村※40※41
- 144. 塙村※42
- 145. 左貫村※43
- 146. 初原村※44
- 147. 芦野倉村※45
- 148. 高岡村※46※32
- 149. 中谷田村※47※48※49
- 150. 下谷田村※47※48※49
- 151. 浅川村※50
- 152. 冥加村※51※52
- 153. 川山村※53
- 154. 三ケ草村※54
- 155. 下野宮村
- 156. 田野草村※55※56
- 157. 沢又村※57※58
- 158. 中郷村※59※60
- 159. 町附村※60
- 160. 上郷村※60
- 161. 槇野地村※61
- 162. 上野宮村※62
つまり変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。変動前の国界は大子町の南限には重ならず、少し手前にある。『天保常陸国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

大子町は茨城県の北西端にある町で、中央を久慈川が貫流し、その支流・滝川に形成された袋田の滝でよく知られる。月待の滝 (大生瀬川) も美しい。また、福島県との県境に位置する八溝山は茨城県の最高峰であり、中腹には坂東三十三観音のひとつ、日輪寺がある。久慈川に沿って JR水郡線が通っている。
注釈
要因と経過
依上保は、古代の陸奥国 白河郡 依上郷が私領化したと考えられる荘園であり、「保」(『ほう』とも読む) は荘園の一種である。以下は和名類聚抄の第7巻で、左に陸奥国 白河郡の各郷が示され、末尾に依上郷がある。

起源からわかるように、依上保は陸奥国の一部であって、中世を通して戦国期に差しかかるまでは一貫して陸奥国として把握されていた。史料上は、建武元年(1334) 3月18日付『後醍醐天皇綸旨案』※1に「当国依上保」(当国 = 陸奥) として初めてあらわれ、以後、応永6年(1399) 8月28日付『足利満貞預ケ状写』※2に「同国依上保内鮎河上中両郷」(同=陸奥国)、応永31年(1424) 6月13日付『足利持氏充行状』『上杉憲実施行状』と 19日付『上杉憲実施行状』※3に「陸奥国依上保内依上三郎庶子分」など、文正元年(1466) 5月1日付『旦那職売券』※4に「奥州のよりかミ」とあるなど、陸奥国として把握されている。文明18年(1486) 10月26日付『慶乗・慶儀連署奉書』※5に「奥州依上保」とあるのが、国名を含む文書としては最後である。
依上保は、南北朝期・室町期を通じて陸奥国・白河結城氏の支配下にあったと考えられている。もっとも、ほかの地域と同様にその地盤は安定したものではなく、依上保も収奪の対象になったらしい。また次第に常陸国・佐竹氏から圧迫を受けるようになって、永正7年(1510) には白河結城氏の内紛に乗じた佐竹義舜が本格的に侵攻した※6。以後、当地はその勢力下に置かれることになり、永正7年(1510)年 8月21日付『佐竹義舜書状写』※7をはじめ、多くの文書が佐竹氏から発給されることになるが、それら文書に国名はあらわれない。在地勢力の文書では、区別の必要がなければ国郡はふつう記載されないので、これがただちにその帰属が曖昧化したという意味ではないが、少なくとも史料上、依上保が陸奥・常陸のどちらにあるのかはわからなくなる※8。
佐竹氏はその後、義宣のときに豊臣秀吉へ帰順し、文禄4年(1595) その所領を安堵された。このとき依上保の村々は常陸国 久慈郡として把握され、近世以後の陸奥・常陸国界は確定する。文禄3年(1594)『常州検地覚書』※9によれば、安堵の前提となる検地は、文禄3年(1594) 10月から 12月末まで「久慈郡・多珂郡・鹿島郡・行方郡・新治郡・真壁郡・志多郡・河内郡・筑波郡・茨城郡・那賀郡」(常陸国各郡) と「奥州之内南郷」「下野之内武茂・同松野・同茂木」で行われた。

ここで「奥州之内」とされるのは「南郷」に限られ、依上保は記載されていない。つまり依上保は常陸国各郡に含まれ、その後の経過を見れば、すでに久慈郡に含めて把握されていることがわかる。文禄2年(1593) 6月20日付『高野山奥院常灯料寄進受取状写』※10には「常陸国佐竹保内」という表記もみられる。なお南郷は、佐竹氏が依上保の次に狙っていた地域であり、完全に掌握できたのは豊臣政権の後ろ盾を得てからである※11。このため本領とは区別され、常陸国とはみなされなかった。
注釈
データシート
| 変動 | 依上保、ただし文禄3年(1594) 時点の範囲 | |
|---|---|---|
| 要因 | 戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認 | |
| 曖昧化の時期 | 戦国期~織豊期 | |
| 変動の確定時期 | 文禄3年(1594) | |
ちなみに...
当然ながら「もしも」の話だが、依上保が陸奥国のままだったとしたら、現在の茨城県の最高標高は 1022メートルから 882メートルになってしまう。というのも、前述のように茨城県最高峰は当地の八溝山であり、その標高が 1022メートルである。当地が陸奥国のままなら、自然な流れであれば福島県に含まれることになるので、栄蔵室という 882メートルの山が茨城県の最高峰になってしまうのだ。ちなみに筑波山 (女体山) の標高は 877メートルなので、これよりわずかに高い程度である。
更新履歴
内容
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- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
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- 同、中川忠英旧蔵 常陸国絵図についての記述を『近世国絵図総覧』に移行。
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- 同、すでに『近世国絵図総覧』と重複していた『天保常陸国絵図』の外観を削除。
:
- 同、修正。
:
- 同、追補。
:
- 『国絵図と国界』の一部として新規作成。



