❖八条院領

文字どおりにはちじょういん (暲子しょうし内親王) の所領 (荘園群)。父・天皇と、さらに母・ふくもんいんの遺領を受け継いで成立した。じょうきゅう3年(1221) 八条院遺跡御願寺荘々等目録※43によれば、この時点で「庁分御領」77箇所・「あんらく寿じゅいん領」48箇所・「かんこういん領」26箇所など合計219箇所にも及ぶ。

承久3年(1221) 時点 (八条院遺跡御願寺荘々等目録)

庁文御領 (直轄): 77箇所
安楽寿院領: 48箇所
歓喜光院領: 26箇所
れんしんいん領: 15箇所
こういん領: 5箇所
しんにょいん領: 10箇所
せいいん領: 8箇所
禅林寺今熊野社領: 3箇所
新御領: 2箇所
京御領: 21箇所
御祈祷所: 4箇所

本文と重複する部分もあるが、あらためてその継承の過程を整理すると全体としては以下のようになる。なお人物に続く年 (月日) は参考のため生没年 (月日) を示したものであり、継承の時期を示すものではない。また本家職・領家職等どのような権利であるのかはそれぞれである。

① 八条院 (暲子内親王): ほうえん3年(1137)〜けんりゃく元年(1211) 6月26日、所領目録: あんげん2年(1176) 2月: 八条院領目録※44

① → ② ぎょくよう建久けんきゅう7年(1196) 1月14日の記事に「八条院御悩、為危急」によりその遺志を示した出来事が書かれている※45※46。それによれば、安楽寿院領・歓喜光院領等は春華しゅんかもんいん (昇子しょうし内親王)、庁分は九条よしすけに分け与える以外は「姫宮」にそれぞれ譲るが、もちひとおう※47の娘にいちのあととする、とされた。もっとも八条院はその後快復したので、結局この時点で相続は行われなかったと考えられる。なお「姫君」が誰であるのかのほか、文章全体についても解釈は分かれ、またおきぶみ (遺言書、死後に発効) に相当するものではなく、ゆずりじょう (譲渡書、すぐに発効) に相当するものと捉えた場合、相続 (譲渡) の時期はまったく異なる※46

② 春華門院 (昇子内親王): 建久けんきゅう6年(1195)〜建暦元年(1211) 11月8日、庁分の一部は九条良輔。

③ 順徳天皇: 建久8年〜にん3年(1197〜1242年)。

③ → ④ 吾妻鏡のじょうきゅう3年(1221) 7月8日の記事に「持明院じみょういん入道親王 (守貞) 御治世あるべし (持明院入道親王 (守貞) 可有御治世)」、武家年代記※48に「承久三年、先院の御領の所々をもって、ことごとく後高倉院に進めらる、ただし武家要用の時は返し給うべきよし (承久三年 以先院御領所々、悉被進高倉院、但武家要用之時者可返給之由)」(『高倉院』の前に『後脱カ』の校訂注記がある) とあって、承久の乱に関係して没収された八条院領は、その「御治世」となったもりさだ親王 (後高倉院) に返却された。八条院遺跡御願寺荘々等目録にも冒頭に「自関東被進 後高倉院、八条院御遺跡御願寺庄々等目録」とある。

もりさだ親王 (後高倉院): 治承じしょう3年〜じょうおう2年(1179〜1223)。

あんもんいん (くに内親王): じょうげん3年〜こうあん6年(1207〜1283)。

⑤ → ⑦ 安嘉門院は遺志を示すことなく死去したらしく、遺領の処遇が問題となったが、かん仲記ちゅうきの弘安6年(1283) 11月21日の記事※49に「新三位永康卿関東より上洛、安嘉門院御遺跡、上皇御管領あるべくのよし、計り申す (新三位永康卿自關東上洛、安嘉門院御遺蹟、上皇可有御管領之由、計申)」「室町院御譲といえども、すでにもって相たがう (室町院雖得御讓、已以相違)」とあり、室町院が継承するものとした決定が破棄され、亀山天皇 (亀山院) がこれを得ることに成功した。なお亀山天皇が鎌倉幕府の意向を諮ったのは、承久3年(1221) に八条院領が皇室領として返却されたときに決定権が鎌倉幕府に留保されたためであり、また幕府の決定はりょうとうてつりつのなか、すでにちょうこうどう領 (八条院領と並ぶ大規模な皇室領) を確保していた持明じみょういんとうとのバランスを取ったためと考えられている※50

⑦ 亀山天皇 (亀山院): けんちょう元年〜げん3年(1249〜1305)。

⑦ → ⑧ 亀山天皇の所領は、八条院領以外も含めて分割され継承された。嘉元3年(1305) 7月20日・7月26日・8月28日の 3回に分けて処分は行われ、亀山上皇処分状案※51によれば、八条院領のうち庁分は天皇、「越前国小山庄」を除く安楽寿院領と「大和国波多小北庄」を除く歓喜光院領はつねあき親王、小山庄・波多小北庄はしょうけいもんいん (よし内親王)※52に継承され、蓮華心院領以下は個別に継承された。所領単位別では、安楽寿院領はすべて (八条院遺跡御願寺荘々等目録 48箇所 → 大覚寺統所領目録 48箇所)、庁分・歓喜光院は大部分 (77 → 64、26 → 23) が維持された。後者の減少分がどの段階によるものかは不明。

天皇 (庁分): ぶんえい4年〜正中元年 (1267〜1324)・つねあき親王 (安楽寿院領・歓喜光院領): 嘉元元年〜かんおう2年・しょうへい6年 (1303〜1351)、所領目録: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録。

全体を網羅する目録は嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録が最後であり、以降の状況はそれぞれである。ほとんどが後醍醐天皇に継承されて南朝の財源根拠となったと考えられるが、一方で南北朝期の混乱を通じて解体が進み、室町期を迎えるころにはその実態を失ったかと思われる。

➸大覚寺統所領目録

竹内文平氏旧蔵文書。「御領目録」で始まり、承久3年(1221) 八条院遺跡御願寺荘々等目録と共通する「庁分」「安楽寿院」「歓喜光院」など膨大な量の所領が記載されたあと、「右、所々御管領あるべくのよしいんぜん候うところなり。この旨をもって、しょうけいもんいんに申し入らしめ給うべし、よって執達くだんのごとし (右、所々可有御管領之由、院宣所候也、以此旨、可令申入昭慶門院給、仍執達如件)」で受け、「嘉元四年六月十二日」を含む奥書と追記で終わる文書である。先行する研究を踏まえた野口※53の詳細な分析によってだいかくとう全体の所領目録であることが確認されたが、これ以前のほとんどの文献では昭慶門院 (よし内親王) の所領目録であると解釈され、多くは「昭慶門院御領目録」「昭慶門院 (憙子内親王) 御領目録」という名称で参照されてきた。したがってそれらの文献では、目録に含まれる各荘園は昭慶門院に継承されたことになっている。野口は「八条院系女院領について述べる際には、必ずと言っていいほど用いられてきた」が「目録という史料の便利さから」「充分な史料批判がなされないまま、利用されてきた」と評価する。

より正確にいえば、奥書直前の内容から文書全体については院宣であり、その中に大覚寺統所領目録があったことになる。この文書は前欠のため、なぜ大覚寺統の所領全体を示さなければならなかったかはわからない。「えいもんいん使家知もうしじょう」(永嘉門院使薩摩前司家知申状) については後述する。

❖室町院領

八条院領に関係して、室町院領の継承過程を同じように整理すると全体としては以下のようになる。

④ → ⑤ 守貞親王 (後高倉院) からしきけんもんいん (とし内親王) に、八条院領ではない何らかの所領が継承される。この時点の目録は知られていないため内訳は不明。

⑤ 式乾門院 (利子内親王): 建久けんきゅう8年〜けんちょう3年(1197〜1251)。

⑤ → ⑥ げんこう4年(1324) 2月5日 関東御教みぎょうしょ※55※56(御教書A、とする) から参照される室町院遺領事書案※57(事書A、とする) によれば、建長元年(1249) 式乾門院はその所領について、むろまちいん (内親王) 一期のあと中書王 (むねたか親王)※54に継承するものとした。

⑥ 室町院 (暉子内親王): あんてい2年〜しょうあん2年(1228〜1300)。

⑥ → ⑦ 中書王は文永11年(1174) 死去し、室町院も遺志を示すことなく死去したらしく、やはり遺領の処遇が問題となった。事書B と実躬卿記さねみきょうきの正安4年(1302) 8月29日・9月1日の記事※51によれば、正安4年(1302) 幕府の裁定によって伏見天皇 (伏見院、持明じみょういんとう)・亀山天皇 (亀山院、だいかくとう) で折半された。持明院統の目録は年月日不詳の室町院所領目録案※51、大覚寺統の目録は大覚寺統所領目録の「室町院御領」であり、この 2つを合わせたものが「室町院領」ということになる。数え方によるが持明院統 81箇所・大覚寺統 52箇所であり※58、合計は 133箇所となる。

------

⑦伏見天皇 (伏見院): 文永2年〜正和しょうわ6年(1265〜1317)・亀山天皇 (亀山院): けんちょう元年〜げん3年(1249〜1305)。

⑦ → ⑧ (大覚寺統分) 亀山天皇領の処遇は八条院領と変わらないが、ほとんどが個別の継承であり、まとまっているものは、嘉元3年(1305) 亀山上皇処分状案で「禁裏」(後二条天皇※59に譲られた「備前国長田庄」※60「摂津位倍庄」※61「阿波国福井庄」※62「越後国佐橋圧」※63、持明院統の後伏見上皇※64に「新院御分」として譲られた「播磨国多可庄」※65「丹波国栗村東西庄」※66「遠江国飯田庄」※67「美濃国麻績牧」※68「備中国渋江庄」※69、および嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録の「室町院御領」に「親王御分」と付記されて含まれる「紀伊 直河庄」「伊賀 豊高庄」「近江 田中庄」「武蔵 河越庄」「八木岡庄」「和泉 坂平庄」「河内 江泉村」くらいかと思われる。

➸永嘉門院への継承を巡る問題

式乾門院の遺志では、室町院一期のあと宗尊親王 (中書王) がその所領を継承することになっていたが、宗尊親王は室町院よりも早く文永11年(1174) に死去した。このため正安2年(1300) に室町院が死去した際、宗尊親王の子であるえいもんいん (みず女王)※70は室町院の所領を継承する権利を主張し、事書A によれば正安3年(1301) いったんは獲得に成功した。年月日不詳の室町院遣領置文案※51によれば、室町院には式乾門院から継承した所領 (式乾門院領、『女院一期御管領分』) 以外にも所領 (『女院御永領分』) があって、これについては式乾門院の遺志とは関係がないので伏見天皇・亀山天皇で折半された。しかし正安4年(1302) になって、伏見天皇側から「建長元年御讓状においては、同二年これを破り奇()てられ (於建長元年御讓状者、同二年被奇破之)」たとの指摘があり、そうである以上は「室町院永代御領たるべしのよし (室町院可為永代御領之由)」となって永嘉門院の権利は否定され、式乾門院領もあらためて伏見天皇・亀山天皇で折半された。正応6年(1293) 6月5日 室町院置文案※51がこのとき効果を発揮したのかどうかは不明。なおここからわかるように、室町院領すなわち式乾門院領ではない。室町院遣領置文案では「室町院御管領百余个所」に対して永嘉門院から「五十个所御領取返」したとあるので、過半が式乾門院領だったと考えられる。

永嘉門院は元亨3年(1322) になって再び権利を主張した。ここまで参照してきた事書A もこのときに作成されたものであって、前段として正安3〜4年(1301〜1302) の顛末を説明している。事書A によれば、建長元年(1249) の譲状が翌年破棄されたというのは「諸家記録」によったものであったらしく、それを式乾門院の直接の遺志に優先させるのは適切ではなかったものの、 20年以上前の決定を今さら覆すこともできないので別の枠組みで調停する、といった内容だった。元亨4年(1323) 3月20日の後宇多上皇院宣案※71はその提案に基づく「御領目録」を関係者に伝えている。しかし、同年12月10日の関東御教書案※72(御教書B、とする)、および御教書が参照する室町院遺領事書案※73(事書B、とする) によれば、結局その調停案も実らず、永嘉門院の主張が受け容れられることはなかった。

➸永嘉門院使家知申状

大覚寺統所領目録を「しょうけいもんいん御領目録」「昭慶門院 (よし内親王) 御領目録」として参照する文献では、多くの場合「えいもんいん使家知もうしじょう」(永嘉門院使薩摩前司家知申状) を先行させ、これに続く形で大覚寺統所領目録を参照している。これはもとの文書※74が以下のような構成となっているため。なお構成については野口※53がより詳細に解説している。

目録
②a 「室町院関東御返事『幷御領目録有』」の端書ではじまる部分
②b 「永嘉門院御使薩摩前司家知申」からはじまる部分

②a が「永嘉門院使家知申状」として、②b が「昭慶門院御領目録」として参照され、②a の作成時期については「永嘉門院使家知申状幷昭慶門院御領目録」といった名称でひとつの文書として扱われている場合はげん4年(1306) 6月12日、別々に扱われている場合はそれに前後する時期ということになっている。しかし「永嘉門院使家知申状」(②a) は事書A と同一の文書である。

げんこう3〜4年(1323〜1324) に一連の問題があったということは、伏見天皇しんの元亨3年(1323) 8月22日や元亨4年(1324) 3月20日の記事※75で言及されているので、事書A (の原本) がこのときに作成されたと考えることに無理はない。しかし肯定される事書A には、正安3〜4年(1301〜1302) の問題への言及はあっても、同様の事象が嘉元4年(1306) 前後にもあったとは書かれていない。室町院所領目録案でも正安3〜4年(1301〜1302) の問題から「其後欲過廿个年間」を経過してから元亨3〜4年(1323〜1324) の問題が発生したと記している。つまり嘉元4年(1306) 前後に同様の事象があって同様の文書が作成されたというのは相応の無理がある。「永嘉門院使家知申状」(②a) の端書「室町院関東御返事『幷御領目録有』」の『幷御領目録有』の部分は追記であり、また ①〜②b は別の文書の裏面を再利用した写本であって、江戸後期に軸装された経緯もあることから※76、何らかの段階で事書A の写本が混入し (または誤解から意図して組み合わされ) ①〜②b の構成になったものかと思われる。

❉43: 兵庫県史 史料編 中世7 石清水文書他(1993) 所収。
❉44: 藤井寺市史 第4巻 史料編2 下(1985) 所収。
❉45: 玉葉 第三(1907)。
❉46: 八条院領の伝領過程をめぐって(1997, 龍野, 同 第49号)。
❉47: にんぺい元年〜治承4年(1151〜1180)。
❉48: 大日本史料 第4編之16(1918) 所収。
❉49: 史料大成 26 勘仲記1(1936)。
❉50: 荘園の研究(1939)、中村直勝著作集 第4巻(1979) 所収。
❉51: 兵庫県史 史料編 中世9・古代補遺(1997) 所収。
❉52: 文永10年〜元亨4年(1273〜1324)。名の読みは日本史人名辞典(1904/1975, 栗嶋) による。
❉53: 安嘉門院と女院領荘園(2000, 野口, 日本史研究 456)
❉54: 仁治3年〜文永11年(1242〜1274)、鎌倉幕府 第6代将軍 (皇族将軍)。
❉55: 東寺百合文書(ヱ函/40/1)。
❉56: 以後参照する東寺百合文書のヱ函/40/1〜5各文書については、翻刻・内容の解釈とも「東寺に伝来した室町院遺領相論関連文書について」(1999, 伴瀬, 史学雑誌 第108巻) に詳しい。
❉57: 東寺百合文書(ヱ函/40/2)。
❉58: 中村直勝日本史 第4冊(1971)。
❉59: 弘安8年〜徳治3年(1285〜1308)。
❉60: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録では「室町院御領」「備前 長田庄」。
❉61: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録では「室町院御領」「摂津 位倍庄」。
❉62: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録では「室町院御領」「阿波 福井庄」。
❉63: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録では「室町院御領」「越後 佐橋庄」。
❉64: 弘安11年〜延元元年(1288〜1336)。
❉65: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録では「室町院御領」「播广 多可庄」。
❉66: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録では「室町院御領」「栗村庄」で「東方」「西方」の内訳がある。
❉67: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録では「室町院御領」「遠江 飯田庄」。
❉68: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録では「室町院御領」「美乃 麻続牧」。
❉69: 嘉元4年(1306) 大覚寺統所領目録では「室町院御領」「備中 渋江庄」。
❉70: 文永9年〜げんとく元年(1272〜1329)。名の読みは日本史人名辞典(1904/1975, 栗嶋) による。
❉71: 東寺百合文書(ヱ函/40/3)。
❉72: 東寺百合文書(ヱ函/40/4)。
❉73: 東寺百合文書(ヱ函/40/5)。
❉74: 竹内文平氏旧蔵文書、翻刻は御料地史稿(1937) に所収。
❉75: 史料大成 続編34 花園天皇宸記2・伏見天皇宸記(1938)。
❉76: 東寺に伝来した室町院遺領相論関連文書について(1999、伴瀬、史学雑誌 第108巻)