(13) 富士見町東部の変遷
○甲斐国➡信濃国: 天正11年(1583)

信濃しなの (甲州・信州) の国界は戦国期から織豊期にかけて変動した。 Fig.118: 甲斐国➡信濃国: 天正11年(1583)

てんぶん10年(1541) 6月、武田はるのぶ (のちの信玄) は父・のぶとらを追放し、天文11年(1542) 6月に信州 へ侵攻した。そして 7月には諏訪よりしげを滅ぼしたのち、たかとおよりつぐも後退させて支配下においた。さらに天文14年(1544) には高遠氏も降伏させ、天文17年(1548) までにほかの諸氏も排除した※1。この結果、諏訪は武田氏 (信玄・かつより) の領国に組み込まれ、その後 30年以上にわたってこの体制が続くことになる。しかしげん4年(1573) かわからの帰路で信玄が病死し、天正3年(1575) 長篠の戦いで勝頼は大敗して天正10年(1582) 3月までに武田氏は滅びた。

ここで甲斐・信濃の両国は一時的に織田信長の支配下に入る。しかし 6月に本能寺の変が起こると、在地の旧勢力や徳川家康・北条うじなおら周辺の有力大名の動きが活発となり、諏訪では諏訪よりただ (頼重の従兄弟) が旧臣らに擁立された。頼忠は徳川と北条の間で揺れ動いたものの、最終的には家康の配下となって天正11年(1583) 諏訪を安堵された※1。具体的には、天正11年(1583) 3月28日付『徳川家康宛行状』(※ふりがな※:あてがいじょう)※2によって諏訪頼忠は「信州諏方郡」を宛てがわれた。

このときの諏方郡 (諏訪郡) の範囲は徳川家康宛行状からはわからないが、翌年 10月14日付『諏訪頼忠宛行状』※2で頼忠は平井弖清右衛門に「蔦木内合五貫文」を与えているので、根拠となる徳川家康宛行状の諏訪郡には「蔦木」を含む地域が含まれていなければならない。この「蔦木」は近世 かみつた村・下蔦木村にあたる。したがって、天正11年(1583) 3月28日付の徳川家康宛行状における諏訪郡には変動範囲が含まれ、その時点をもって国界は変動したといえる。

❉1: 諏訪市史 上巻 原始・古代・中世(1995)・『富士見町史 上巻』(1991)・甲府市史 通史編 第1巻 原始・古代・中世(1991) など。
❉2: 『信濃史料 第16巻(1961)』所収。
❖天保郷帳・国絵図の村々

近世 信濃国 諏訪郡

92. 木舟新田村※1※2
93. 大池新田村※1
94. 大沢新田村※1
95. 金沢村※3※4※5
96. 菖蒲沢村※6
97. 柏木新田村
102. 八ツ手新田村
103. はらいざわ新田村
104. 中新田村
104a. 室内新田村※7
105. やま神戸ごうど※8
106. 栗生くりゅう新田村※9
107. 瀬沢新田村※10
108. たつざわ新田村
109. 稗底ひえのそこ
110. おっこと※11※8

111. 小六新田村※12
112. 高森村
113. 池袋村
114. 葛久保村
115. 円見山つぶらみ※8
116. せんだつ
117. 小東村※13
118. 森新田村※14
119. しもつた※15※4※16
120. 上蔦木村※15※4※16
121. 田端村
122. 烏帽子新田村※17
123. じんだい
124. 平岡村
125. 机村
126. 瀬沢村

127. 芓木新田村※18※19
128. 大平新田村※18
129. 松目新田村※18
130. 若宮新田村※18※20
131. 木間村※21※22
132. 横吹新田村※18
133. 木戸口新田村※18※23
134. 休戸村※24※25
135. 花場新田村※18

近世 甲斐国 巨摩郡

143. 下教来石しもきょうらいし※26
144. 大武川村
153. 上教来石村※26
249. 小淵沢村※27
❉1: 元禄郷帳・国絵図・天保郷帳・国絵図では「金沢村枝郷」と付記される。
❉2: 元禄国絵図では「木舩新田村」。
❉3: [中世〜織豊期] 承久元年(1219): 「青柳」(守矢文書、信濃史料 第3巻,1953)、ほか。
❉4: [中世〜織豊期] 永禄11年(1568): 「從府中臺原ヘ」「從臺原蔦木ヘ」「蔦木ヨリ靑柳ヘ」「靑柳より上原へ」「上原より下諏方」「下諏方ヨリ鹽尻ヘ」「鹽尻より洗馬へ」「洗馬より贄川へ」「贄川より奈良井へ」「奈良井ヨリ𛃟ふ原へ」「𛃟ふ原より福嶋へ」(武田氏伝馬口付銭掟書、改訂新編 相州古文書 第1巻,1965; 信濃史料 第13巻,1959)。
❉5: 元禄郷帳・国絵図では「古ハ青柳村 金沢村」と付記される。
❉6: [新田・分村] 正保2年(1645) または慶安2年(1649) に菖蒲沢新田として開発 (原村誌 上巻,1985)。
❉7: [新田・分村] 元禄国絵図では「中新田村ノ内」、天保国絵図では「中新田村之内」と付記される。元禄郷帳・天保郷帳には含まれない。
❉8: [中世〜織豊期] 天正20年(1592): 「同分 乙事村」「同分 神戸村」(同=諏方新六)「弥蔵分 円見山村」(大祝諏方頼広宛日根野高吉知行分状、長野県史 近世史料編 第3巻 南信地方,1975)。
❉9: 元禄郷帳・国絵図・天保郷帳・国絵図「御射山神戸村枝郷」と付記される。
❉10: 元禄郷帳・国絵図・天保郷帳・国絵図「瀬沢村枝郷」と付記される。
❉11: [中世〜織豊期] 天正10年(1582): 「おつこつ」(家忠日記、富士見町史 上巻 史料編,1991)、ほか。
❉12: 元禄郷帳・国絵図・天保郷帳・国絵図では「乙事村枝郷」と付記される。
❉13: [中世〜織豊期] 享禄元年(1528): 「蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷」(蘿木ノ郷 = 蔦木郷、神使御頭之日記、茅野市史 史料集 中世・近世・近現代,1991)。
❉14: 元禄郷帳・国絵図・天保郷帳・国絵図では「田端村枝郷」と付記される。
❉15: [中世〜織豊期] 天正12年(1584): 「蔦木内合五貫文」(諏訪頼忠宛行状、富士見町史 上巻 史料編,1991)。
❉16: 天正6年(1578): 「大宮之一御柱」「山出之人足」「蔦木・原両郷」・「前宮一御柱 伊賀良庄」「山本郷」「中閞郷」(上諏訪造宮帳、新編信濃史料叢書 第2巻(1972)。
❉17: 元禄郷帳・国絵図・天保郷帳・国絵図では「上蔦木村枝郷」と付記される。
❉18: 元禄郷帳・国絵図・天保郷帳・国絵図では「木間村枝郷」と付記される。
❉19: 現在の表記は「とちノ木」。
❉20: 元禄郷帳・国絵図ではさらに「古ハ木間新田」と付記される。
❉21: [中世〜織豊期] 永禄9年(1566): 「木之間之郷」(穴山梅雪等奉書、富士見町史 上巻 史料編,1991)。
❉22: 現在の表記は「」。
❉23: 元禄郷帳・国絵図では「古ハ先能村」とも付記される。
❉24: [新田・分村] 諸郷帳等では元禄郷帳から含まれる (富士見町史 上巻 本文編,1991)。
❉25: 天保国絵図のみ「木間村枝郷」と付記される (元禄郷帳・国絵図・天保郷帳では何も付記されない)。
❉26: [中世〜織豊期] 天正17年(1589): 「甲州」の「上敎來之鄕」「下敎來之鄕」(伊奈忠次知行書立、新編甲州古文書 第2巻,1968,1988)。
❉27: [中世〜織豊期] 永禄4年(1561): 「六十三番 黒坂の禰き・小淵の澤の禰き」(中黒は筆者が補う、武田晴信禁制、新編甲州古文書 第1巻,1966)。