明暦元年(1655) から寛文8年(1668) にかけて、近世 越前国 大野郡 牛首村・風嵐村と加賀国 能美郡 尾添村との間で白山争論が再燃し、最終的に福井藩と加賀藩の対立 (または前田家と松平家の対立) にまで発展した。これについて、徳川政権 (江戸幕府) は加賀藩には代替となる所領を与えてた上で、東谷 (牛首谷) の 牛首・風嵐を含む 11村と、西谷 (丸山谷) の5村、および尾添谷の尾添・荒谷の 2村をまとめて直轄支配するものとした。
これによって 18村は「白山麓十八か村」として集合的に把握されることとなり、国郡は徐々に曖昧になっていった。延宝元年(1673) の白山麓一六カ村免定目録※38には「白山麓牛首谷・丸山谷御蔵入拾六ケ村免定之目録」(牛首谷・丸山谷は併記)、元禄7年(1694)の御成箇可納割付状※39には「白山麓丸山村」、元禄10年(1697)の「白山争論に付尾添村訴状控」※40に 「白山麓尾添村」とある。ただし、白山麓一六カ村免定目録は「拾六ケ村」とあるように東谷・西谷 (越前国) の 16村についての文書であり、尾添谷 2村 (加賀国) とは区別されている。また、元禄11年(1698) の「尾添村と出入の請書」※41には「越前国大野郡牛首村」「同国同郡風嵐村」「加州尾添村」、同18年(1705) の皆済目録※39には「越前国大野郡白山麓 丸山村」、寛保3年(1743)の「白山争論に付尾添村へ過料銭申付覚」※38には「加賀国能美郡尾添村」ともある。
しかし、天明3年(1783) の二口村五人組御仕置帳※38に「加賀・越前国白山麓 二口村」(越前・加賀は併記) とあるのをはじめとして、文化15年(1818) 「瀬戸村村民盗難屈」「 瀬戸村村民葉煙草盗難届」※38に「越前加賀白山麓瀬戸村」「越前・加賀白山麓瀬戸村」(同)、文政5年(1822) 「三村山一件訴状および済口証文」に「越前・加賀白山麓五味島村」(同)・「同断釜谷村」「同断女原村」「同断深瀬村」「同断鴇ケ谷村」「同断杖村」「同断尾添村」「同断牛首村」、安永6年(1823) 年貢米金皆済目録※39に「越前加賀白山麓 須納谷村」とあるように、江戸後期には「白山麓」のほか「加賀・越前」を冠称することが多くなっていく。これは郷帳でも同様で、元禄郷帳では何も冠称しないが、天保郷帳ではすべて統一的に「越前・加賀 白山麓」を冠称している (越前・加賀は併記、国絵図では何も冠称しない)。「白山麓十八ケ村」については、享保17年(1732) の取次元帯刀由緒口上書※38に「白山麓拾八ケ村」とあり、これが初出かと思われ、元文元年(1736) の「福井藩御預所より木滑関所通行規定に付書状」※38では「越前・加賀国白山麓 拾八ケ村」(越前・加賀は併記) といった表現も使用されている。
これらについて、宝暦6年(1756) 「加州領への売物正金支払願」で牛首村の十郎右衛門は「幕府へ提出する諸書類にも加賀・越前両国 白山麓十八ケ村と書き上げてきた」としているので※42、意図的なものであることがわかる。この十郎右衛門は、代々同じ名前を継承して支配的な立場になることが多かった人物であり、この表現には 18村の上に君臨しようとした姿勢が見え隠れする。もっとも、文書自体は白山麓十八か村特有の不都合を訴えるものであり、ほかにも非常に厳しい自然環境に起因する窮状から減免を求めることも多く、人物像を一概に評価するのは難しい。帯刀するなど威勢を張る傾向にあったのは確かなようだ。
文化2年(1805) 「白山麓の唱に付十郎右衛門書上」によると、「白山麓 尾添村・荒谷村の 2箇村について、元禄年間(1688〜1704) まで『加賀国 能美郡』だったのに、その後どういった理由で『白山麓』を称するようになったのか」と十郎右衛門は問われ、まず「以前は加賀国 能美郡でしたので、御公領 (幕府直轄領) となっても、しばらくは以前からの能美郡と称したようです」とし、18村の全体について「郡を書くように仰せ付けられるのであれば、大野郡 白山麓です」と答えている※43。国郡と所領 (藩領・幕府直轄領) の区別が曖昧で時間経過の影響も見受けられるが、 あくまでも「加賀国 能美郡」は以前の呼称であり、また現在敢えて国郡を書くのならまとめて「越前国 大野郡」である、というのが十郎右衛門の見解ということになる。
白山 (御前峰・大汝峰・剣ケ峰の総称) は古くから信仰の対象とされ、その頂上の社殿を維持・管理する権利をめぐってしばしば争いが起こっていた。権利の獲得者は、参拝者 (登山者) から直接的に得られる利益 (奉納された金銭や進物など) を独占し、山林資源も優先的に利用することができたとされる。牛首村・風嵐村と尾添村も戦国期のころから対立が目立つが、これは牛首村・風嵐村の介入に起因する。牛首村・風嵐村は禅定道と呼ばれる登山道※44から外れたところに位置していた。
寛文8年(1668) の幕府裁決は福井・加賀両藩の対立を円満に解消させたものの、そもそもの白山争論については何も解決しなかった。特に尾添村は加賀藩の後ろ盾を失い、江戸期を通じて牛首村の圧迫を受けることになってしまった。もっとも、白山信仰については発言力を増した越前国・平泉寺白山神社 (江戸期は単に『平泉寺』) が独占することになり、両村とも利益を失うことになった※45。
禅定道は加賀・越前・美濃の 3国からそれぞれあり、加賀禅定道・越前禅定道・美濃禅定道と呼ばれた。また禅定道の起点を馬場といい、加賀馬場・越前馬場・美濃馬場はそれぞれ現在の白山比咩神社・平泉寺白山神社 (正式には単に『白山神社』)・長滝白山神社であり、神仏分離前の寺院としてはそれぞれ白山寺・平泉寺・長瀧寺である。越前国を経由する美濃禅定道には、途中の石徹白に所在する白山中居神社が拠点として加わる。なお神仏習合であることにはほかと変わらないが、この白山中居神社だけ神職による支配であり、別当寺 (神宮寺) は存在しなかった。
加賀国の一部が割かれた上、代替は遠隔地である近江国 高島郡 海津中村町 (現在の高島市 マキノ町海津付近) の一部だった※46。しかし当地は琵琶湖の重要港の一角であり、すでに近隣の今津村・弘川村 (同じく現在の高島市 今津町今津と今津町弘川の付近) を持っていた加賀藩にとっては何ら支障なく、むしろ面倒ごとばかり起こす尾添・荒谷の 2村を手放すことができて好都合だったようだ※47。
東谷・西谷の 16村は福井藩の預かり (預地) となって管理下にあり、寛文8年(1668) の裁決はその扱いが解かれただけだった。したがって福井藩に代替となる所領は与えられていない。預地が失われた得失の評価は難しいが、基本的には一時的かつ幕府の裁量によって変更されうる土地の、しかも実入の小さいわりには面倒な土地がなくなっただけであって、影響はほとんどなかったかと思われる。なお、この預地は、転封により寛永21年(1644) から勝山藩が存在しなかったことによるものであり、「勝山御領分」などと総称されていた※48。
越前国の正保郷帳の写本または副本。奥付に正保3年(1646) 6月7日の日付がある。福井県文書館の所蔵・公開。
❉38: | 石川県尾口村史 第1巻・資料編1(1979) 所収。 |
❉39: | 新丸村の歴史(1966) 所収。 |
❉40: | 白山史料集 上巻(1979) 所収。 |
❉41: | 白峰村史 下巻(1959) 所収。 |
❉42: | 石川県尾口村史 第1巻・資料編1(1979) 所収、原文「御公儀様へ差上候諸書物茂加賀・越前両国白山麓拾八ケ村と書上来申候」。 |
❉43: | 石川県尾口村史 第1巻・資料編1(1979) 所収、原文「白山麓尾添村・荒谷村弐ヶ村之儀者、元禄年中迄ハ加賀国能美郡ニ有之候処、其後何々之訳を以白山麓と唱候哉」「前々加賀国能美郡ニ御座候得者、御公料ニ相成候而も前々ゟ相唱候能美郡と暫相唱候哉」および「郡を書候様被仰付事御座候而者大野郡白山麓ニ而御座候」。 |
❉44: | 白山の自然誌 21 白山の禅定道(2001) など。 |
❉45: | 白鳥町史 通史編 上巻(1976)、石川県尾口村史 第3巻・通史編(1981) など。 |
❉46: | 「白山争論記」所収史料・「白山収公一件」所収史料など。 |
❉47: | 石川県尾口村史 第3巻・通史編(1981)。 |
❉48: | 越前国知行高之帳・福井県史 通史編3 近世1(1994)。 |