○近世はじめの変遷

近世のはじめ、中世 吉田院が展開された地域では大隅・薩摩国界が変動した。

○吉田 (大隅国➡薩摩国): 天正15年(1587)

中世 大隅国 吉田院は、近世 薩摩国 鹿児島郡に吉田郷として組み込まれた。 Fig.141: 大隅国➡薩摩国: 天正15年(1587)吉田院は、治暦5年(1069)『藤原頼光所領配分帳案』※34に「吉田院」としてはじめてあらわれ、建部頼光が所領を 6人に分けた際、弟の頼重に吉田院にもっていた所領が譲られている。建久8年(1197)『大隅国建久図田帳』に含まれ、その後の建治2年(1276)『石築地役配符』や永享3年(1431)『大隅国司庁宣』※35にも含まれている。

吉田院は、『大隅国建久図田帳』ではほぼ全体が正八幡宮領となっている。『吉田町郷土誌』(1991) によれば、これは鎌倉期を通して変わらず、祠官・吉田氏が院司として支配したといい、吉田氏の名前も当地を相伝したことに由来する。しかし南北朝期に入ると、正八幡宮の力も弱まって吉田氏も守護大名・島津氏の家臣となり、さらに戦国期の永正14年(1517) 以降は島津氏の支配になった。以後文禄元年(1592) まで、吉田院は北に隣接する蒲生院・蒲生氏に対する前線基地として機能し、その間に島津氏の薩摩・大隅・日向 3国統一とさらなる版図拡大、これに対する豊臣秀吉の九州侵攻を経験する。

天正15年(1587) 3月、秀吉は大軍を率いて九州への侵攻を開始した。島津義久は抵抗を試みたものの、大軍を前に総崩れとなって撤退を余儀なくされ、5月8日までに降服した。秀吉はこれを受けて義久に薩摩国、義弘 (弟) に大隅国 (ただし肝付郡と北郷時久旧領を除く) を安堵した※36。このとき近世の国界が確定し、吉田院の地域は薩摩国の一部として把握されるようになったと考えられる。義久宛の判物・義弘宛の朱印状とも郡や村の詳細な一覧は示されていないが、天正20年(1592)『薩隅日寺社領注文』※38で「薩之内 吉田」とあり、この間に目立った動きは確認されない。したがってこれは天正15年(1587) の安堵を反映したものといえる。薩摩国の総検地は文禄3〜4年(1594〜1595) に実施され※37、文禄4年(1595) 6月29日付『豊臣秀吉朱印知行方目録』※38では「羽柴薩广侍從藏入分」として「同郡の内 よし田村」(同郡 = さつまかこ嶋郡) が義弘 (羽柴薩摩侍従は義弘のこと) に与えられた。

吉田院の地域が薩摩国として把握された明確な理由は史料からはわからないが、北に隣接する蒲生院・蒲生氏に対する前線基地として機能し、薩摩国の延長とみなされたため、と考えられる。

❉34: 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ1』(1988) 所収。
❉35: 『鹿児島県史料 旧記雑録前編2』(1980) 所収。
❉36: 『鹿児島県史料 旧記雑録 後編2』(1982) 所収 天正15年(1587) 5月9日付『豊臣秀吉判物』(義久宛)・5月25日付『豊臣秀吉朱印状』(義弘宛)、および『豊臣政権下における九州再国分について』(1983, 桑田, 九州史学 第78号)。
❉37: 『鹿児島市史 第1巻』(1969)。
❉38: 『鹿児島県史料 旧記雑録後編2』(1982) 所収。
❖薩藩政要録の村々

近世 薩摩国 鹿児島郡 近在 (鹿児島城下)※1

16. 岡之原村
17. ※2※3
18. 川上村※4
19. かいぼう※5❉SGNp8_KBO2)
20. 下田村※7※8
21. 吉野村※9
22. だな※10※11
1. 小山田村※12※13
2. 比志島村※14※13

近世 薩摩国 鹿児島郡 吉田郷

24. 本城村※15
25. 本名村※16
26. 宮之浦村※17
27. 西佐多浦村※18
28. 東佐多浦村※18

大隅国 日置郡 郡山郷※19

37. 東俣村※20
39. 川田村※14
40. 油須木村※21
41. 郡山村※22

大隅国 姶良あいら帖佐ちょうさ※23※24

12. 深水村※25
13. 三十町村
14. 永瀬村※26
15. 中津野村※27
17. 豊留村※28
18. 増田村※29
19. 住吉村※30
20. 西餅田村※31
22. 寺師村※32

大隅国 姶良郡 重富郷

23. 平松村※33
24. 船津村※34
25. はる※35
29. ふれ※36※37

大隅国 姶良郡 山田郷※38※39

28. 下名村
29. 大山村※40

大隅国 姶良郡 蒲生郷※41※42

33. 白男村
34. 下久徳村※43
35. 上久徳村※43
36. 久末村※44
37. 北村※45
❖鹿児島諏訪社祭次第

諏訪神社の御佐山 (御射山) 祭礼に関して、7年に1度の負担配分を定めたもの※46。近隣の村々が 7つに分けて書かれている。鹿児島県史料 旧記雑録前編2(1980) 所収。この諏訪神社は現在の鹿児島市 清水町に鎮座する南方神社で、島津氏久が勧請したという。

❉1: ほかに坂元・草牟田・上伊敷・中・西別府・武・荒田・西田・郡元・田上・犬迫・小野・原良・永吉・下伊敷・塩屋の各村が含まれる。
❉2: [中世〜織豊期] 寛正6年(1465): 「毛野」(鹿児島諏訪社祭次第)。
❉3: 明治4年(1871)、岡之原村に編入、したがって対応する近代の大字は存在しない。
❉4: [中世〜織豊期] 寛正6年(1465): 「河上」(鹿児島諏訪社祭次第)。
❉5: [中世〜織豊期] 寛正6年(1465): 「皆房之村」(鹿児島諏訪社祭次第)。
❉6: 明治4年(1871) 比志島村へ編入、したがって対応する近代の大字は存在しない。
❉7: [中世〜織豊期] 正平13年(1358): 「鹿児島郡内上伊敷・下田兩村」(島津氏久安堵状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)。
❉8: 明治4年(1871) 坂元村へ編入、したがって対応する近代の大字は存在しない。
❉9: [中世〜織豊期] 弘治元年(1555): 「吉野ゝ原」(山本氏日記、鹿児島県史料 旧記雑録後編1,1981)、ほか。
❉10: [中世〜織豊期] 応永34年(1427): 「薩摩國鹿兒島郡花棚內」(本田安了寄進状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980、寛正6年(1465): 「花棚」(鹿児島諏訪社祭次第)。
❉11: 明治4年(1871) 川上村へ編入、したがって対応する近代の大字は存在しない。
❉12: [中世〜織豊期] 建長5年(1253): 「薩摩國滿家院」の「小山田」(栄尊譲状、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、ほか。
❉13: 村は近世 日置郡。
❉14: [中世〜織豊期] 天福元年(1233): 「滿家院内比志嶋・西俣・城前田・上原薗」「河田村」(僧智弘等三人契約状、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、ほか。
❉15: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「吉田院」の「中納」(石築地役配符)、建治3年(1277): 「吉田院中納村」(大隅吉田家文書、吉田町郷土誌,1991)、永正14年(1517): 「大隅國吉田院」の「本城名」(島津家老臣連署坪付、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)。
❉16: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「吉田院」の「本名」(石築地役配符)。
❉17: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「吉田院」の「宮浦」(石築地役配符)、永正14年(1517): 「大隅國吉田院」の「宮之浦名」(島津家老臣連署坪付、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)。
❉18: 慶長4年(1599): 「薩州郡内」の「吉田佐多之浦村」(島津忠恒知行目録、鹿児島県史料 旧記雑録後編3,1983)。
❉19: ほかに厚地・西俣の 2村が含まれる。
❉20: [中世〜織豊期] 建武2年(1335): 「薩摩國滿家院之内郡名、小山田・油須木・東俣并比志嶋」(良舜奉書、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、ほか。
❉21: [中世〜織豊期] 正慶2年(1333): 「さつまのくにミついへのゐんのうちゆすのきむら」(ひくにせうあん売券、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、ほか。
❉22: 延応2年(1240): 「郡山」(比丘尼菩薩房・生阿弥陀仏連署田地去文、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、ほか。
❉23: 建久8年(1197): 「大隅国」の「帖佐郡」(大隅国建久図田帳)、元久元年(1204): 「怗(帖)作鄕」(吾妻鏡)、ほか。
❉24: ほかに鍋倉・東餅田の 2村が含まれる。
❉25: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「深見」(石築地役配符)、ほか。
❉26: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「永世」(石築地役配符)、ほか。
❉27: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「中津乃」(石築地役配符)、ほか。
❉28: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「豊富」(石築地役配符)、ほか。
❉29: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 永享6年(1434): 「帖佐濱益田村」(平田氏宗寄進状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、ほか。
❉30: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「住吉」(石築地役配符)、ほか。
❉31: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「餅田」(石築地役配符)、ほか。
❉32: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「寺師」(石築地役配符)、ほか。
❉33: [中世〜織豊期] 永伝元年 (延徳2年,1490): 「大隅蒲生之内 平松村」(渋谷重豊譲状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、ほか。
❉34: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「船津」(石築地役配符)、ほか。
❉35: 旧高旧領取調帳に含まれない。江戸末期までに船津村に編入されたと思われる (現在の船津に小字春花がある)。
❉36: 村は近世 鹿児島郡。
❉37: 旧高旧領取調帳に含まれない。江戸末期までに平松村に編入されたと思われる (現在の平松に小字触田上・触田下がある)。
❉38: [中世〜織豊期] 弘治4年(1558) : 「大隅國帖佐郷之内山田之村寺師名」(島津氏老臣連署坪付、鹿児島県史料 旧記雑録後編1,1981)、ほか。
❉39: ほかに木津志・上名・北山・辺川の 4村が含まれる。
❉40: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「大山」(石築地役配符)、ほか。
❉41: [古代〜織豊期] 延暦23年(804): 「大隅国桑原郡蒲生駅」(日本後紀)、建久8年(1197): 「大隅国」の「蒲生院」(大隅国建久図田帳)、建治2年(1276): 「蒲生院」(石築地役配符)、ほか。
❉42: ほかに西浦・米丸・漆の 3村が含まれる。
❉43: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「久得」(石築地役配符)、ほか。
❉44: [中世〜織豊期] 建治2年(1276): 「帖佐西郷」の「久末」(石築地役配符)、ほか。
❉45: [中世〜織豊期] 弘治元年(1555): 「蒲生ノ北村」(箕輪伊賀覚書、鹿児島県史料 旧記雑録後編1,1981)、ほか。
❉46: 鹿児島城下諏訪神社祭礼の練物風流と太鼓踊り (2004、国立歴史民俗博物館研究報告 第114集、福原)