○救仁および財部・深河地域 (大隅国⬅➡日向国): 古代

古代 大隅国おおすみのくに噌唹郡そおのこおり (曽於郡) のうち、中世のはじめまで日向国ひゅうがのくに 郷・救仁院として分離された部分はそのまま近世 日向国 諸県郡に組み込まれた。 Fig.104: 大隅国⬅➡日向国: 古代同様に日向国 諸県郡もろかたのこおりのうち、中世に入って大隅国 財部たからべ院・深河院として分離された部分はそのまま近世 大隅国 噌唹郡 (曽於郡) に組み込まれた。 Fig.163: 大隅国⬅➡日向国: 古代

郷・救仁院は、基本的に建久8年(1197)『日向国建久図田帳ずでんちょう』にはじめてあらわれ、救仁郷は島津庄の一円庄、救仁院は同 寄郡(よせごおり/よりごおり) をそれぞれ構成する。島津庄はまん寿じゅ年間(1024〜1028) 太宰府官の平すえもとが開発し、関白の藤原よりみちに寄進して成立した荘園であり、日向国 諸県郡から領域を広げ、最盛期には日向・大隅・薩摩さつまの 3国にまたがる広大な荘園となった。異なるいくつもの荘園から構成される複合的な荘園であり、個々の成立事情はそれぞれであって、わかることは少ない。救仁郷・救仁院は、島津庄が南へ伸長した結果その一部に取り込まれて日向国として把握されるようになったと考えられる。

財部たからべ院・深河院も建久8年(1197)『大隅国建久図田帳』にはじめてあらわれ、多禰島 (現在の種子島) ともに島津一円庄に含まれるが「新立庄」「三箇所保延年中以後新庄」とあって、ほうえん年間(1135〜1141) に成立して島津庄に組み込まれたらしい。構成するほかの荘園はすべて寄郡であることからいっても大隅国における島津庄の影響力は相対的に小さい。

財部院・深河院が大隅国の一部として把握された背景も史料からわかることはない。周辺の状況を整理すると、中世 大隅国 財部院に対し、建久8年(1197)『日向国建久図田帳』に島津一円庄の一部として財部郷が存在し、中世以降の国界を挟んで大隅の財部院と日向の財部郷が相対する。大隅国の荘園の分布※33をみると、しょうはちまんぐう領 (大隅正八幡宮領) がその所在地を中心に占め、その影響は大隅半島にも広がり、財部院・深河院に隣接する小河院も大部分は正八幡宮領である※34。ただし小河院には島津庄などの一部となっている部分があって、完全に正八幡宮領となっているわけではない。これらからいえば、財部院・深河院も正八幡宮の影響下で開発・成立あるいは収奪・譲渡されたものが大隅国の荘園として把握されたものの、のち島津庄の一部を構成するようになった、と想像することはできる。救仁郷・救仁院がそれぞれ一円庄・寄郡を構成することから、財部院もはじめは寄郡であって「新立庄」は一円庄化したことを説明しているのかもしれない。しかしどちらにせよ、文字どおりに想像以上のものではない。

なお、近世 大隅国 噌唹郡 (曽於郡) の福山郷 れいがわ村と国分郷 川内村のそれぞれ一部にあたる部分も小河院の拡大にともない、日向国から大隅国へ移ったと考えられ、同様に近世 日向国 諸県郡 都城みやこのじょう郷 安久村とすえよし郷 南之郷村のそれぞれ一部にあたる部分も島津一円庄 中郷・南郷の拡大にともない、大隅国から日向国へ移ったと考えられる。どれも各村最奥部 (川内村は飛地) で分水嶺を越えたところにあって、小河川の最上流部である。

❖変動前の国界

『日向国史』(1929) は、和名類聚抄の郡郷から古代 諸県郡の復原を試み、

「其の管域は、遠く西及び南に及び、西は肥後、大隅の境より、南は海に瀕するの大郡となれり。こゝに於て地勢自ら四方面に分る。東北は本庄を中心として、東郡中の主要なる地方をなし、西北はさきとう、飯野、小林等、所謂眞幸院の地方、中央は都城市附近、卽ちもと島津庄の起原をなせる地方、南は現今大隅國郡に編入せられたる志布志、大崎等、中古の救仁院の地方なり」

としているが (読み仮名は筆者による)、これは中世以降の国界に基づく領域である。『日向国史』は、延喜式の日向国駅馬にある「救貳」(救弐) に引きずられて救仁郷を

「所在詳ならず。或は思ふ、三股村の東方山間なる今の宮崎郡田野村地方にあらざるか」

とし、救仁院を

「旧南諸県郡志布志、大崎の地方なるべし」

として救仁郷の領域まで含めてしまっているなど、地理に関して正確さを欠く。本稿では、中世 財部郷・財部院を『和名類聚抄』に含まれる古代 日向国 諸県郡 財部郷の範囲とし、中世 救仁郷・救仁院は古代においては大隅国の一部だったとした上で、地形を考慮して変動前の国界を導き出した。

ただし変動があった一帯の大部分は、生産性の低いシラス台地か丘陵地である。正応元年(1288)『島津庄々官等申状』※35に「島津本庄者、萬壽年中、以無主荒野之地、令開發庄号、令寄進 宇治關白家」とあるように、島津庄はまだ占有されていない土地を開発したことにはじまる。また前述のように、律令制下の国郡が南九州でどこまで機能・定着したかもわからない。未開発の空白地帯全体が面的に相当漠然と国界として認識され、変動したというより確定したというのが実態だろうし、特に両端の丘陵地 (近世 佳例川村・川内村・安久村・南之郷村のそれぞれ最奥部) は漠然とも認識されない未設定の国界が定まっただけだろう。

❖一円庄・寄郡

一円庄は荘園領家が完全に (一円に) 支配する荘園をいう。これに対して寄郡(よせごおり/よりごおり) は税を領家と国衙で折半し、国衙の干渉を受ける荘園をいう。この寄郡という妥協的な仕組みは南九州の荘園を特徴づけるものであって、広大な島津庄が成立した要因のひとつは、個別の荘園が次々に寄郡として加わったためと考えられる。

❖正八幡宮および正八幡宮領

島津庄が全盛期を迎えたころ、しょうはちまんぐう領 (大隅正八幡宮領) もまた広大な領域を誇り、薩摩・大隅、および日向国 諸県郡の荘園は、ほぼこのどちらで二分されていた。所在地を中心に大隅国の荘園の多くは正八幡宮領であり、島津庄の荘園は外縁部に限られる。正八幡宮 (大隅正八幡宮) は、えんしきじんみょうちょうに大隅国 桑原郡の一座として含まれる鹿児島神社が正式名称で、近代に入って鹿児島神宮に改称した。薩摩国の郡名である「鹿児島」を名乗るのは大隅国が分割によって設置されたためである。

❖深河院・岩河村

延文元年(1356)『足利義詮よしあきらそではん下文くだしぶみ※36には「同國本庄內」(同國 = 大隅國、本庄は島津一円庄) として「岩河村」が多禰島 (現在の種子島)・深河院・岩河村・財部院・つつ村と並んで記されている。財部院・深河院が含まれる大隅国建久図田帳にはないことからその後に成立したとみられる。周辺の状況から、深河院の一部が開発が進行にともなって独立・同格の扱いになったのではないかと推定されるが、正確な経緯は不明である。近世 大隅国 曽於郡 末吉郷を構成する岩崎・深川・二之方・諏訪方・五拾町・ 中之内・南之郷の 7村のうち、南之郷村 (中世 島津一円庄 南郷) を除く 6村はこの深河院・岩河村のどちらかに含まれていたとみられ、深河村・五拾町村はそれぞれ深河院・岩河村として、近世以降の結びつきや地形から二之方村・諏訪方村は深河院、岩崎村・中之内村は岩河村と考えられる。

❖小河院

深河院・財部院と同様に建久8年(1197)『大隅国建久図田帳』にはじめてあらわれる。大部分が正八幡宮領であり、これに国方 (国衙領) が次ぐが、島津庄の一部となっている部分もあった。

❖中郷・南郷

深河院・財部院と同様に建久8年(1197)『大隅国建久図田帳』が初出で、島津一円庄を構成する。南郷は「南中郷」とあるが、北郷・中郷・南中郷と並ぶことや「南郷」となっている写本※37も存在し、その後の史料では南郷と呼ばれることから書き誤りの可能性がある。もっとも南中郷が南郷に変化したとしても特に不自然ではない。

❉32: 『蒙古襲来の研究 増補版』(1982, 相田)。
❉33: 『菱刈町郷土史 改訂版』(2007) 所収『九州の主な荘園分布想定図』。
❉34: 『国分郷土誌』(1973)。
❉35: 『鹿児島県史料 旧記雑録前編1』(1979) 所収。
❉36: 『取手市史 古代中世史料編』(1986) 所収。
❉37: 『国中寺社庄公総図田帳』、鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ5(1995) 所収。
❖薩藩政要録の村々

近世 日向国 諸県郡 大崎郷※1

3. 野方村
4. 横瀬村
5. 益丸村※2
6. じんりょう
7. ながよし※3※4
8. 狩宿村※5
9. 岡之別府村※6※7
10. 井俣村
11. 持留村
12. 菱田村※3※8

近世 日向国 諸県郡 志布志郷※9

13. ふつはら※10※11
14. 町畠村
15. 夏井村※12
16. 伊崎田村※13
17. はら
18. 田之浦村※14
19. 野上村※11※15
20. 月野村
21. 内之倉村※16※17
22. ちょう※16
23. 安楽村※18
24. 野井倉村※19

近世 日向国 諸県郡 松山郷

25. 尾野見村※20
26. たい
27. 新橋村※21
❉1: [中世〜織豊期] 永禄4年(1561): 「大崎」箕輪自記、鹿児島県史料 旧記雑録後編1,1981)、文禄4年(1595): 「日向諸縣之内大さき」(豊臣秀吉朱印知行方目録、鹿児島県史料 旧記雑録後編2,1982)、ほか。
❉2: [中世〜織豊期] 延文6年(1361): 「求二郷益丸名」(島津氏久寄進状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、嘉慶3年(1389): 「日向國救仁郷益丸名」(明印譲状、同)。
❉3: [中世〜織豊期] 正平14年(1359): 「日向國求仁郷永吉東方比志田」(島津氏久安堵状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、ほか。
❉4: [中世〜織豊期] 文明5年(1473): 「求仁之郷之内永吉名」(田代家文書、鹿児島県史料拾遺 16,1974)。
❉5: 現在の表記は「かり宿じゅく」。
❉6: [中世〜織豊期] 文明5年(1473): 「求仁之郷之内」の「岡之別府」(田代家文書、鹿児島県史料拾遺 16,1974)。
❉7: 現在の表記は「おかべっ」。
❉8: [中世〜織豊期] 永和3年(1377): 「日向國救仁郷比志田村」(島津氏久寄進状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、ほか。
❉9: [中世〜織豊期] 正和5年(1316): 「日向方嶋津御庄志布志津」(沙弥蓮生打渡状、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、文明2年(1470): 「日向國救仁院志布志」(村田経安等連署施行状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、文禄4年(1595): 「日向國諸縣郡之内しふし村」(豊臣秀吉朱印知行方目録、鹿児島県史料 旧記雑録後編2,1982)、ほか。
❉10: [中世〜織豊期] 元亀4年(1573): 「ふつ原」(末吉口討捕頚頚注文、鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ2,1991)、ほか。
❉11: [中世〜織豊期] 天正5年(1577): 「日州求仁郷蓬原之内野上名」(伊集院忠棟外四名連署坪付、鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ9, 2002)。
❉12: [中世〜織豊期] 正平14年(1359): 「日向國救仁院志布志條内夏井・益倉村」(伴基栄寄進状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)。
❉13: [中世〜織豊期] 正平5年(1350): 「日向國救仁院内井崎田條」(楡井頼仲寄進状、鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ6,1996)、ほか。
❉14: [中世〜織豊期] 観応2年(1351): 「同院内田浦條」(同 = 嶋津庄日向方救仁院、畠山直顕寄進状、鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ6,1996)、ほか。
❉15: 現在の表記は「野神」。
❉16: [中世〜織豊期] 応永17年(1410): 「日向國内倉・帖」(島津玄喜安堵状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)。
❉17: [中世〜織豊期] 文禄5年(1596): 「日州諸縣郡志布志」の「内之蔵村」(伊集院幸侃署判領知目録、鹿児島県史料 旧記雑録後編3,1983)、ほか。
❉18: [中世〜織豊期] 文明6年(1474): 「安楽」(行脚僧雑録、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、永正16年(1519): 「安楽」(中野歳信答申書、同)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉19: [中世〜織豊期] 正平14年(1359): 「日向國救仁院内野与倉茶」(『〜条』、島津氏久宛行状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、ほか。
❉20: [中世〜織豊期] 延文2年(1357): 「日向国救仁院尾見條」(畠山直顕寄進状、鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ6,1996)、ほか。
❉21: [中世〜織豊期] 天正19年(1591): 「日向国」「諸県郡」の「新橋」(日向国五郡分帳、日向郷土史料集 第5巻,1963)。

近世 大隅国 曽於郡 財部たからべ

2. 下財部村※1※2※3
13. みなみまた※4※7※2
14. きたまた※4※7※2

近世 大隅国 曽於郡 末吉郷※5

7. 岩崎村
8. 深川村※6※7
9. 二之方村
10. 諏訪方村
11. 五拾町村※7※8※9
12. 中之内村
1. 南之郷村※10

近世 日向国 諸県郡 都城郷※11

28. 後久村※12※13
29. 田部村※14
30. 鷺巣村※15
31. 早水村※16※17
32. 郡元村※18
33. 川東村
34. 宮丸村※19
35. 安久村※20
36. 寺柱村※21※22
37. 前川内村※23
38. 下長飯村
39. 木之前村※24※25
40. 高木村※26

41. 金田村※27
42. 水流つる※28
43. 山田村※29
44. 梅北村※30
45. かみなが
46. たに※31
47. 横市村
48. 五拾町村※32
49. 西岳村
50. 中霧島村
51. 岩満村※33
52. 石寺村※34※35
53. 丸谷村※36
❉1: [中世〜織豊期] 建久8年(1197): 「同郡内」(同郡 = 諸県郡)・「殿下御領島津庄」の「財部郷」(日向国図田帳、日向郷土史料集 第5巻,1963)、建武4年(1337): 「下財部院新宮城」(祢寝清種軍忠状、同)、ほか。
❉2: 暦応2年(1339): 「下財部新宮城」「上財部城」(建部清種軍忠状、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、ほか。
❉3: 村は近世 日向国 諸県郡。
❉4: [中世〜織豊期] 建久8年(1197): 「大隅国」の「財部院」(大隅国建久図田帳、大隅国建久図田帳小考、日本歴史 142,1960)、建治2年(1276): 「新庄」の「財部院」(石築地役配符、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、ほか。ただし地名の直接的な結びつきはない。
❉5: [中世〜織豊期] 観応2年(1351): 「末吉」(鳥山直顕書下、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、文禄4年(1595): 「大すミの内すゑよし」(豊臣秀吉朱印知行方目録、鹿児島県史料 旧記雑録後編2,1982)、ほか。
❉6: [中世〜織豊期] 建久8年(1197): 「大隅国」の「深河院」(大隅国建久図田帳、大隅国建久図田帳小考、日本歴史 142,1960)、建治2年(1276): 「大隅国」の「深川院」(石築地役配符、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、建武3年(1336): 「大隅国深河院」(足利尊氏下文、鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ6,1996)、ほか。
❉7: [中世〜織豊期] 延文元年(1356): 「同國本庄內 (多禰嶋、深河院、岩河村、財部院、筒羽野村)」(同国 = 大隅国、足利義詮袖判下文、取手市史 古代中世史料編,1986)。
❉8: [中世〜織豊期] 正平12年(1357): 「正八幡宮所奉寄進之大隅國岩河村參分貳事」(島津氏久書下、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、ほか。ただし地名の直接的な結びつきはない。
❉9: [中世〜織豊期] 貞治2年(1363): 「岩河村三分二五十町」(正八幡宮永賢供米結解状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、天正2年(1574): 「岩川五十町分」(北郷時久日記、鹿児島県史料 旧記雑録後編1,1981)。
❉10: [中世〜織豊期] 建久8年(1197): 「日向國」の「嶋津庄日向方本庄分」の「南郷」(国中寺社庄公総図田帳、鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ5,1995)、天正19年(1591): 「日向国」「諸県郡」の「南之郷」(日向国五郡分帳、日向郷土史料集 第5巻,1963)、ほか。
❉11: [中世〜織豊期] 永和2年(1376): 「都城」(土持栄勝軍忠状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、天正19年(1591): 「日向国」「諸県郡」の「都之城」(日向国五郡分帳、日向郷土史料集 第5巻,1963)、文禄4年(1595): 「日向もろかた郡の内みやこの城村」豊臣秀吉朱印知行方目録、鹿児島県史料 旧記雑録後編2,1982)、ほか。
❉12: [中世〜織豊期] 明徳5年(1394): 「北郷北方内後交村椎屋跡幷野〻三谷寺跡」(島津元久宛行状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、応仁元年(1467): 「日向國山西三俣院塚原・新原・後交」(旦那売券、熊野那智大社文書 第2巻,1972)、ほか。
❉13: 江戸末期までに安久村・上長飯村へ編入、したがって対応する近代の大字は存在しない。
❉14: 明治3年(1870) 豊満村に改称、したがって対応する近代の大字は「豊満」。
❉15: 江戸末期までに寺柱村へ編入、したがって対応する近代の大字は存在しない。
❉16: [中世〜織豊期] 永享11年(1439): 「樺山・早水・寺柱」(樺山孝久段銭納入日記、日向古文書集成(1938,1973)、文正2年(1467): 「早水・寺柱」(某所領注文、同)。
❉17: 江戸末期までに郡元村へ編入、したがって対応する近代の大字は存在しない。ただし、昭和38年(1968)、都城市 郡元の一部から早水町が成立した。
❉18: [中世〜織豊期] 文正2年(1467): 「郡本」某所領注文、日向古文書集成,1938,1973)、明応4年(1495): 「日向國嶋津庄郡本」(島津武久知行宛行状、同)、ほか。
❉19: [中世〜織豊期] 建武元年(1334): 「嶋津庄日向方北郷宮丸名」(源某書下、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、ほか。
❉20: [中世〜織豊期] 応安8年(1375): 「島津御庄日向方中郷富山・安久名・和里木名・同秋永等」(島津氏久書状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、天正19年(1591): 「日向国」「諸県郡」の「安久」(日向国五郡分帳、日向郷土史料集 第5巻,1963)、ほか。
❉21: [中世〜織豊期] 永享11年(1439): 「樺山・早水・寺柱」(樺山孝久段銭納入日記、日向古文書集成,1938,1973)。
❉22: 明治3年(1870) 宮村に改称、したがって対応する近代の大字は宮村。
❉23: 江戸末期までに安永村に編入、したがって対応する近代の大字は存在しない。
❉24: [中世〜織豊期] 寛正6年(1465): 「中郷西方木前取帳」(地方史研究資料 第2集 鬼束文書,1972)。
❉25: 現在の表記は「木ノ前」。
❉26: [中世〜織豊期] 文明12年(1480): 「三俣院南方」の「高木」(三俣院内坪付、日向古文書集成,1938,1973)、ほか。
❉27: [中世〜織豊期] 永享10年(1438): 「北郷之内金田」(むねちかゆうくわう料足借用状、日向古文書集成,1938,1973)。
❉28: 現在の地名は「上水流 (上水流町)」。
❉29: [中世〜織豊期] 文明6年(1474): 「山田」(行脚僧雑録、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、明応4年(1495): 「同山田」(同 = 日向國嶋津庄、島津武久知行宛行状、日向古文書集成,1938,1973)、天正19年(1591): 「日向国」「諸県郡」の「山田」(日向国五郡分帳、日向郷土史料集 第5巻,1963)、ほか。
❉30: [中世〜織豊期] 建武3年(1336): 「梅北城」(日下部盛連軍忠状、豊日史学 第29巻,1961)、天正19年(1591): 「日向国」「諸県郡」の「梅北」(日向国五郡分帳、日向郷土史料集 第5巻,1963)、ほか。
❉31: [中世〜織豊期] 明徳5年(1394): 「北郷北方内後交村椎屋跡幷野〻三谷寺跡」(島津元久宛行状、鹿児島県史料 旧記雑録前編2,1980)、文亀2年(1502): 「日向國島津御庄北郷野之見谷」(諏訪大明神棟札、都城島津家史料 第2巻,1988)、天正19年(1591): 「日向国」「諸県郡」の「野々深」(日向国五郡分帳、日向郷土史料集 第5巻,1963)、文禄4年(1595): 「同のゝミ谷」(同 = 日向國諸縣郡之内、豊臣秀吉朱印知行方目録、鹿児島県史料 旧記雑録後編2,1982)、ほか。
❉32: 現在の表記は「五十町こじっちょう」。
❉33: [中世〜織豊期] 文正2年(1467): 「岩光」(某所領注文、日向古文書集成,1938,1973)、文明12年(1480): 「三俣院」の「岩満」(三俣院内坪付、同)、ほか。
❉34: [中世〜織豊期] 文保2年(1318): 「日向国山西・樺山・石寺・嶋津」(関東下知状并島津道義譲状、鹿児島県史料 旧記雑録前編1,1979)、建武5年(1338): 「嶋津院東方内石寺」(沙弥某連署奉書、同)。
❉35: [中世〜織豊期] 明治3年(1870) 長田村に改称、したがって対応する近代の大字は「なが」。)。
❉36: [中世〜織豊期] 応永32年(1425): 「丸谷」(中郷西方本田市王丸御内検馬上取帳2、地方史研究資料 第2集 鬼束文書,1972)。
❖都城郷

都城郷は薩摩藩の郷 (外城) のひとつだが、ほんごう氏 (都城島津氏) の私領として半ば独立していた。郷内は「いつくち外城とじょう」に分割され、鹿児島藩の郷 (外城) 制度の縮小版のような構成が都城郷内に存在し、「都城藩」といった様相だった。ただし (『藩』の呼称の議論はともかく) 徳川政権 (江戸幕府) から見ればあくまでも薩摩藩の一部であって「都城藩」が存在したことはない。

天保国絵図・郷帳の薩摩国・大隅国・日向国 諸県郡は元禄国絵図・郷帳のまま更新されておらず、幕府は江戸後期の薩摩藩領を正確には把握していない。このため薩摩藩の内部文書である薩藩政要録に示された実態との乖離も大きいが、その薩藩政要録の都城郷は実際と異なる部分が多く、薩摩藩も薩摩藩で、都城島津氏の私領である都城郷の同時期を正確には把握していない。 Fig.185: 大隅国⬅➡日向国: 古代

❉1: 天保郷帳・薩藩政要録と同様、番号は日向国 諸県郡について筆者が順に振ったもの。
❉2: 分けて記載されている。
❉3: 国絵図には「上中原村之内」と付記された「瀬戸口村」がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉4: 国絵図では「五十町分村之内」と付記された「平長谷村」がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉5: 国絵図には「宮丸村之内」と付記された「都城村」「平江町」「三重町」がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉6: 国絵図では「井蔵田村之内」と付記された「宝蔵絃村」がさらにほかにある (郷帳には含まれない)。
❉7: 国絵図では「井蔵田村之内」と付記される (郷帳には含まれない)。
❉8: 国絵図では「梅北村之内」と付記された「今町」がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉9: 国絵図では「金田村之内」と付記された「大島村」がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉10: 国絵図では「原口村之内」と付記された「森木園村」がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉11: 国絵図では「鷺巣村之内」と付記された「小籠村」「森園村」「本村」「宝園村」「木峯村」がほかにある (郷帳には含まれない)。
❉12: 「御分国之巻」(三州御治世要覧 巻36) に「前ハ安永村ノ内 西嶽村」「前ハ安永村ノ内 中霧島村」とある。御分国之巻は鹿児島県史料集 25 三州御治世要覧(1984) 所収。
❉13: 三俣院古雜記に「薄谷村・大西村」「此両所唯今唱丸谷村」、三俣院記に「薄谷村・大西村」「但此両所唯今丸谷村与唱申候」とある。三俣院古雜記・三俣院記は鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 地誌備考8(2021) の「日向地誌備考 追録2」に含まれ、後者の全体は鹿児島県史料拾遺 9(1968) に所収。
❉14: 「都城・末吉古雑記」の目録に「山田村」「右山田村、古ハ上中原村、高原郷ノ内梶原村、中郷ノ内一ケ村ニナル」とある。「都城・末吉古雑記」は鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 地誌備考8(2021) の「日向地誌備考 追録4」に含まれる。
❉15: 「元祿十五年ノ頃ハ黑池村・牧野村・是井村・小牟禮村・下椎屋村・山菅村・梶原村・上中原村・瀨戶口村九小村ヲ管ス、後九村合シテ一村トナル、年月詳ナラス」(中黒は筆者が補う、山田村、日向地誌)。
❉16: 「本村延享以前ハ早水村ト兩村タリ、後合テ一村トナル」、また「字地」に「早水」(郡元村、日向地誌)。「早水」には早水神社・早水公園があり、周囲は現在「早水町」。
❉17: 「御分国之巻」に「古ハ井蔵村 下長飯村」とある。
❉18: 「日向國覺書及ヒ日向村形覺書ニ木ノ前・貝本村アリ (今甲斐本ニ作ル)、本村ノ稱呼見エス。蓋シ、後ニ木ノ前村・貝本村二村を合セテ今ノ村號トナセシト見ユ」、また「字地」に「甲斐元」「木ノ前」(下長飯村、日向地誌)。「木ノ前」は地理院地図でも小字として確認できる。「甲斐元」は近代に入って「甲斐元町」として分立。
❉19: 本文参照。
❉20: 旧高旧領取調帳の 6. 下水流村 (現在の都城市 下水流町) は高原郷の水流村。
❉21: 木村の翻刻版では「五拾町分村」。
❉22: 「本村元田邊村ト云 (或ハ田部ニ作ル) 明治三年庚午今名ニ改ム」、また「字地」に「田邊」(豊満村、日向地誌)。
❉23: 「都城島津家領内統治の都合上、延享年間 (1744-1747) に田部村を南北に分割して南田部村を安久村に付属せしめ、また後久村を南北に分割して南後久を安久村に北後久村を上長飯村に付属せしめた。明治3年 (1870) 北田部村は豊満と改称された」(漢数字は算用数字に改めた、中郷村史,1958)。
❉24: 「本村延享以前ハ後校村 (今後久ニ作ル) ト兩村タリ、後合テ一村トナル」、また「字地」に「後久」(安久村、日向地誌)。小字は地理院地図でも確認できる。
❉25: 「日向國覺書及ヒ日向村形覺書ニ原口村・後校村アリ、本村ノ稱呼見エス。蓋シ、後二村合テ一村トナリ、今ノ名ニ改メシト見ユ」(上長飯村、日向地誌)。
❉26: 「御分国之巻」に「古ハ後校村 後久村」とある。
❉27: 「都城・末吉古雑記」の目録に「古ハ原口村 上長飯村」とある。
❉28: 「本村、元寺柱村ト云、明治三年庚午改テ宮村ト稱シ」(宮村、日向地誌)。
❉29: 「字地」に「大鷺巢」「寺柱」「小鷺巢」(宮村、日向地誌)。これらは地理院地図でも小字として確認できる。
❉30: 「本村往時ハ梶山鄕ナリ」(中略)「村名ハ元石寺村ト云、明治三年今ノ村號ニ改ム」(長田村、日向地誌)。
➸安永村・前川内村・今平村

慶長17年(1612)『島津家(家久)家老三原重種他四名連署知行目録』※31では内訳なく「安永」、慶長20年(1615)『島津家久袖判・家老伊勢貞昌他三名連署知行目録』※31・元和6年(1620)『島津家(家久)家老伊勢貞昌他四名連署知行目録』※31では「前河内村」「西嶽村」「中霧島村」、表紙に「斉興公御巡見之節」の付記がある江戸後期の『都城領内諸村惣高頭草稿』※32では「安永」の内訳として「前川内村」「中霧島村」「西嶽村」があり、広域地名・六外城のひとつとしては「安永 (郷)」であって前川内村はその内訳である。しかし『日向地誌』の「安永村」には「本村、元小郷名ナリ西嶽村・中霧島村・今平村・前河内村を管ス」とある一方で、別に「中霧島村」「西嶽村」の項目はあっても「前河内村」はなく、「安永村」が「前河内村」を説明している。つまり実質的に前河内村すなわち安永村であり、きゅうだかきゅうりょうとり調しらべちょうで「前川内村」がなく「安永村」があるのはこのような認識によるものだろう。『宮崎県史蹟調査 自第1輯至第8輯』(1924〜1931/1980) は六外城のひとつである「安永」の内訳を「南前川内村 (後 安永村)」「北前川内村 (後 安永村)」「西嶽村」「中霧島村」とし、前川内村 (北前川内村・南前川内村) はすなわち安永村と明言している。なおこの前川内村の南北分割は、ほかの分割とともに『都城領内諸村惣高頭草稿』でも示されていて、五十町 (五拾町) が東西、鷺巣が大小、田部 (田辺)・前川内・後久 (後校) が南北で、梅北は益貫・寄地が内訳である。

今平村については天保郷帳には含まれていても薩藩政要録には含まれておらず、『島津家(家久)家老三原重種他四名連署知行目録』などの知行目録にも含まれていないことから、もともと実態としてはほかの一部だったものと思われる。『日向地誌』では前述のとおり「本村、元小郷名ナリ西嶽村・中霧島村・今平村・前河内村を管ス」としながら、「前川内村」の項目が別には存在しないのと同様に「今平村」の項目も存在せず、「安永村」の字地に「今平」がある (地理院地図でも小字として確認できる)。

➸五口・六外城

日向国史によれば、都城郷の中心部を来住・大岩田・弓場田・中尾・鷹尾のいつくち、その周囲を安永・山田・志和池・野之美谷・梶山・梅北の外城とじょうに分けたもの。元和元年(1615) に定められた※33。『宮崎県史蹟調査 自第1輯至第8輯』(1924〜1931/1980) によれば、江戸末期の構成は以下のとおり (番号は『旧高旧領取調帳』)。

5口

来住口: 15. 上長飯村・16. 下長飯村・20. 豊満村・24. 宮村
大岩田口: 11. 五拾町村 (東部)・21. 安久村
弓場田口: 12. 宮丸村・14. 郡元村
中尾口: 11. 五拾町村 (西部)・2. 横市村
鷹尾口: 13. 川東村・11. 五拾町村 (一部)

6外城 (郷)

安永郷: 1. 安永村・4. 西嶽村・10. 中霧島村
山田郷: 9. 山田村
志和池郷: 3. 上水流村・7. 岩満村・8. 丸谷村
野之美谷郷: 5. 野々美谷村・18. 金田村・19. 高木村
梶山郷: 26. 長田村
梅北郷: 17. 梅北村
➸国絵図だけに含まれる村々

「宮丸村之内 都城村」と同じように、郷名を名乗る村がほかの一部として存在する例はほかにも多く、本稿で扱う範囲だけでも以下がある。

大口郷: 目丸村之内 大口村
羽月郷: 下殿村之内 羽月村
馬越郷: 前目村之内 馬越村
本城郷: 荒田村之内 本城村
大崎郷: 横瀬村之内 大崎村
松山郷: 新橋村之内 松山村
財部郷: 図師村之内 財部村
末吉郷: 稲井原村之内 末吉村
吉田郷: 佐多之浦村之内 吉田村

郷名村を含む村はどれも江戸期の中心地 (『麓』があるなど) か、かつての中心地 (古城付近など) である。一方、このような形態を有しない曽木郷・志布志郷には薩藩政要録の里村・帖村に代わって曽木村・志布志村があり、湯之尾郷は川北・川南 2村ではなく湯尾村 1村で構成され、山野郷には天保郷帳・国絵図と薩藩政要録に共通して山野村がある (天保郷帳・国絵図にはさらに下山野村、国絵図には山野村之内 長野村がある) ということからいえば、一定の法則が見出されるが、正確な意図や詳細はわからない。なお、財部郷・末吉郷は現在は小字となっているか、もしくは位置不明の細かな単位の村で表現されているため、図師村・稲井原村は薩藩政要録の村々に含まれない (それぞれ南俣村・二之方村の一部)。佐多之浦村は東西分村が反映されていない。

「宮丸村之内 平江町」「宮丸村之内 三重町」は実際にあった町場の一部が書き出されたもの、「五十町分村之内 平長谷村」は小字として現存 (地理院地図で確認)、「鷺巣村之内 小籠村」は三股町史(1961) によれば同町 宮村 (近世 寺柱村・鷺巣村) の御年神社に合祀された稗田神社が「小籠大明神」とも呼ばれたとあるのでその周辺、「梅北村之内 今町」は分離され現存 (梅北・五十町の間に位置し、もとは五十町の一部とされるので多少の再編はあったかと思われる)、「上中原村之内 瀬戸口村」は特定できないが、山田に小字「瀬之口」が存在する。ほかは位置を含めて詳細不明である。

➸2つの岩満村

天保郷帳には岩満村が2つ存在するが、都城郷の範囲では「屋鋪村」(屋敷村) が 3つ、付近では下財部村が 3つ存在する。これらは古い支配単位・形態のままに初期の国絵図が作成され、その後も見直されなかったためと推定される。

❖日向地誌

『日向地誌』は宮崎県全域および鹿児島県 南諸県郡 (近世 日向国の全域) の「郡村誌」を昭和4年(1929) に刊行したもの。平部嶠南著となっているが、ほかの郡村誌と同じように各村から提出された原稿をもとに複数人で編纂されている。また、叙言に「郡誌ノ例則」とある以外に皇国地誌・郡村誌との関係はわからないが、内容・時期からその編纂事業の一環であることは明らかであり、経緯などは昭和51年(1976) に刊行された増補・改訂版の解題に詳しい。平部嶠南の名義になっているのは、さまざまな遺漏・不統一を解消するために本人が各地を実地調査したことや、最終的に平部が完成させたことによるらしい。なお、増補・改訂版は原本の活字・体裁を維持しているためあくまでも復刻版となっているが、東京大学史料編纂所の完成版と宮崎県立図書館の副本 (3種類) によって全面的に校訂されている。

❉31: 『都城島津家史料 第1巻』(1987) 所収。
❉32: 『都城島津家史料 第2巻』(1988) 所収。
❉33: 日向国史に「元和元年八月、宗家幕府の命に依り、城を下りて新館を設く。忠能、亦、都城を下り、地を卜して邸宅を設く。卽ち都城を五口 (來住口・大岩田口・弓場田口・中尾口・鷹尾口) に定め、六外城 (安永・山田・志和池・野之美谷・梶山・梅北) を置き、舊に依り、各〻、地頭に命じて軍務を執らしむ」とある。