古代 加賀・越前の国界は織豊期に変動し、白山連峰の西麓・手取川最上流域の東谷・西谷は越前国に属するようになった。
室町期から戦国期にかけて、浄土真宗 (真宗) 本願寺派の門徒は組織を形成し、近畿・北陸・中部の各地で支配者に対して武力蜂起した (一向一揆) (❉1)。特に加賀国では、長享2年(1488) 守護の富樫政親を倒して門徒が自ら国を経営する体制を確立し、内紛や変質を経験しながらも長く持ちこたえた。しかし天正年間(1573〜1592) に入ると、織田信長の猛攻によって各地の一揆は壊滅し、主導する石山本願寺も籠城戦に追い込まれるなど周辺状況は悪化していった。天正3年(1575) には信長によって加賀の一揆も南部を制圧され、天正7年(1579) には柴田勝家・佐久間盛政 (勝家の甥) が越前から本格的に侵攻、次々に拠点を攻略していった。
7月には佐久間盛政・柴田勝政 (盛政の実弟、同じく勝家の甥だがその養子となった) が越前から加賀へ谷峠を越えて侵入し、手取川最上流域の 3つの谷筋のうちの東谷・西谷を支配する加藤藤兵衛は屈服した。盛政はこれを受け容れ、加藤に東谷・西谷を安堵することで引き続き支配することを許し、このとき東谷・西谷の村々 (近世 須納谷・白山新保・島・杖・丸山・小原・牛首・下田原・鴇ケ谷・深瀬・釜谷・五味島・二口・女原・瀬戸・風嵐の 16村) は柴田勝家の所領 (越前領) に組み入れられた。一方、残る尾添谷 (近世 尾添・荒谷の 2村) は、東谷・尾添谷が合流する付近の村々 (近世 吉野・佐良・瀬波・市原・木滑・中宮の 6村) とともに抵抗を続けたが、天正10年(1582) に殲滅された。
この一連の出来事について直接の史料は残っておらず、すべて江戸期からさかのぼって記述された文書による。しかし、対立関係にあった牛首村と尾添村の文書に矛盾はなく、牛首村については「白山麓拾八ケ村留帳」(❉2) のほか、享保16年(1731) の「白山麓九カ村検地御尋に付口上書」(❉3) などに、尾添村については寛文6年(1666) の白山一巻や元禄10年(1697) の「白山争論に付尾添村訴状」(❉3)(『〜控』(❉4)) などにそれぞれ記述されている。また、吉野村の貞享3年(1686)「石川郡吉野村平三郎由緒」(❉3) や、白山比咩神社の「白山年代記幷由緒」(❉4) にも同様の記述がある。ただし、どれも東谷・西谷の 16村が柴田勝家の所領 (越前領) となったことと、越前国の一部になったこととを区別していない。
一方、越登賀三州志と白山下御公領等之覚書はともに豊臣政権下、秀吉が丹羽長秀に越前国を与えた時に 16村を含む検地が行われ、このときに国郡が確定したとしており、厳密な時期としてはこちらが正しいと考えられる。丹羽長秀の越前国における検地は天正12年(1584) である (❉5)。なお、両者とも 16村の自認が天正7年(1579) であることは否定していない。
➤ | 東谷 (牛首谷): 牛首川 (手取川最上流の別称) の谷筋、島村・牛首・下田原・鴇ケ谷・深瀬・釜谷・五味島・ 二口・女原・瀬戸・風嵐の11村 (加賀国➡越前国)。 |
➤ | 西谷 (丸山谷): 大日川 (手取川支流) の谷筋、須納谷・白山新保・杖・丸山・小原の 5村 (加賀国➡越前国)。 |
➤ | 尾添谷: 尾添川 (手取川支流) の谷筋、尾添・荒谷の 2村 (加賀国のまま)。 |
なお、瀬戸村は地形的には尾添谷にある。
浄土真宗 (真宗) 本願寺派の門徒による組織化された武力蜂起・闘争、およびその集団の総称。文明6年(1474) から天正8年(1580) までの一世紀にわたって、僧侶や門徒の農民が在地の小勢力と連合して支配者 (荘園領主・守護大名・戦国大名) に対抗した (❉1)。開始を金森一揆 (金森合戦) の寛正6年(1465) とする場合や、終結を加賀の尾添・荒谷・吉野・佐良・瀬波・市原・木滑・中宮の 8村 (荒谷を尾添に含める場合は 7村) が殲滅された天正10年(1582) とする場合もある。
越登賀三州志は富田景周著の越中・能登・加賀の史書・地誌。日置謙校訂の「重訂 越登賀三州志」(1933/1973) がある。その日置の解説および加能郷土辞彙 (❉6) によれば、原書は寛政10年(1798) から部分ごとに順次脱稿していったとされ、ここで関係する「本封叙次考」 (❉7) は序に文化9年(1812) の日付がある。一方、白山下御公領等之覚書は白山比咩神社記録 (❉4) としてまとめられている文書のひとつで文化11年(1814) の日付がある。著者の田辺政己は能登日記 (紀行文) のほか、短い地誌も残している。
越登賀三州志には、
「柴田勝家、越前の主たる時、其の甥・佐久間盛政、天正三年の頃加州の谷峠 (加・越分界の地。属大野郡) より踰えて働き入るに、石川郡吉野邑等八邑不從之。(八邑とは中宮・木滑・市原・瀨浪・佐良・吉野・尾添・荒谷、是也」(中略)「) 能美郡風嵐等十六邑は從之、以來勝家領となり、同十一年勝家北庄に亡ぶる後も猶越前に屬すればなり。(秀吉公、勝家を伐ち、丹羽長秀に越前を賜ふ時、秀吉公檢地を命ず。長秀、白山下十六邑をも共に檢地して、高六十八萬二千六百五十四石の內十六邑を高辻には二百三十石五斗五升二合に極り、此の時專ら越前大野郡と唱ふと也。去れば此の時、古制加・越の國界を失ふに似たり」
とある (読み仮名・一部句読点は筆者が補う、括弧内は割注)。
白山下御公領等之覚書には、
「柴田勝家、越前ニ鎮タリシ時、其甥・佐久間玄蕃、屢越前谷峠ヲ越テ加州ヘ働ラク、此時十六邑ハ従カヒシヨリ、自ツカラ越前ニ属スルナルヘシ、勝家亡テ丹羽長秀コレヲ領ス、此時秀吉公ノ命ヲ奉シテ越前国ヲ検地スルニ、此十六邑ニモ及フ、共ニ打立六十八万二千六百五十四石、内十六邑ノ高辻ハ、二百三十石五斗五升二合ニ極マリ、此時越前大野郡ト唱フル由」
とある (同)。
内容は基本的に同じだが、字句は異なり、前後の文脈や構成も違う。日置によれば、富田と田辺はともに加賀藩の藩士であり、富田は文政11年(1828) に83歳で没とあるので、おそらく延享3年(1746) の生まれ、田辺は宝暦3年(1753) の生まれで文政6年(1823)に 71歳で没。田辺は間接的に越登賀三州志を参照したわけではなく、おそらく交流があって知識を共有していたのだろう。同じく日置によれば、本封叙次考は第三者が取りまとめ、本人が承認し序を記したといい、その第三者が田辺なのではないかと考える人もいるようだ。
松平文庫 (福井県文書館寄託) に含まれ、デジタルアーカイブ福井でデジタル公開されている (❉8)。東谷 (牛首谷) の島村・牛首・下田原・常(堂)ケ谷 (鴇ケ谷)・深瀬・釜谷・こみか島 (五味島)・ 二口・女原・瀬渡 (瀬戸)・風嵐の11村と西谷 (丸山谷) のすなふ谷 (須納谷)・新保 (白山新保)・杖・丸山・小原の 5村も含まれている。
❉1: | 本願寺と一向一揆(辻川,1986)・本願寺百年戦争(重松,1976) など。 |
❉2: | 白峰村史 下巻(1959) 所収。奥書にある明治36年(1903) の日付は受け取った人物による後筆だが、最初の記事は嘉永6年(1853) 時点から遡ったこととして記述し、ほかに安政5年(1858) の出来事についての記載もあることから、いずれにせよ江戸末期に作成された文書である。 |
❉3: | 石川県尾口村史 第1巻・資料編1(1979) 所収。 |
❉4: | 白山史料集 上巻(1979) 所収。 |
❉5: | 福井県史 通史編3 近世1(1994)。 |
❉6: | 改訂増補 加能郷土辞彙(1956)、著者は同じ日置謙。 |
❉7: | 加能郷土辞彙では「本邦叙次考」、越登賀三州志の解説でも多くの箇所で同様。 |
❉8: | A0143-21177「越前国絵図」。「松平文庫資料の掲載・放映・展示」によれば、Webサイトにおける一般的な引用に関して特に制約は見受けられない。 |
近世 越前国 大野郡
218. | 須納谷村 (❉1)(❉2)(❉3) |
219. | 白山新保村 (❉1)(❉2) |
220. | 島村 (❉1)(❉4)(❉5)(❉6) |
221. | 杖村 (❉1)(❉2)(❉7)(❉8) |
222. | 丸山村 (❉1)(❉2)(❉9) |
223. | 小原村(❉1)(❉2)(❉10) |
224. | 牛首村 (❉1)(❉4)(❉11)(❉12) |
232. | 下田原村 (❉1)(❉4)(❉13) |
233. | 鴇ケ谷村 (❉1)(❉4)(❉14) |
234. | 深瀬村 (❉1)(❉4)(❉15) |
235. | 釜谷村 (❉1)(❉4)(❉16) |
236. | 五味島村 (❉1)(❉4)(❉16) |
237. | 二口村 (❉1)(❉4)(❉17) |
238. | 女原村 (❉1)(❉4) |
239. | 瀬戸村 (❉1)(❉18) |
240. | 風嵐村 (❉1)(❉4)(❉19)(❉12) |
近世 加賀国 能美郡
66. | 阿手村 |
67. | 数瀬村 |
68. | 野地村 (❉20) |
69. | 杉森村 (❉21) |
70. | 左礫村 |
71. | 渡津村 (❉22) |
72. | 神子清水村 (❉23) |
73. | 別宮村 (❉24) |
74. | 別宮出村 |
75. | 三瀬村 |
76. | 五十谷村 |
77. | 下野村 |
80. | 上野村 |
81. | 河合村 (❉25) |
82. | 仏師野村 (❉26)(❉27) |
83. | 河原山村 |
84. | 三屋野村 (❉28) |
85. | 西佐良村 |
86. | 上吉谷村 |
87. | 下吉谷村 |
88. | 釜清水村 (❉29) |
89. | 相滝村 (❉30) |
90. | 柳原村 |
91. | 二曲村 (❉31)(❉32) |
92. | 清水村 (❉32) |
94. | 若原村 |
202. | 尾添村 (❉1)(❉33)(❉34) |
203. | 荒谷村 (❉1)(❉33)(❉35) |
近世 加賀国 石川郡
22. | 吉岡村 |
25. | 中直海村 |
26. | 久保村 |
27. | 内尾村 |
28. | 金間村 |
29. | 板尾村 |
101. | 吉野村 |
102. | 佐良村 (❉36) |
103. | 瀬波村 |
104. | 市原村 |
105. | 木滑村 (❉37) |
106. | 中宮村 |
❉1: | 郷帳では「越前・加賀・白山麓」(『越前』『加賀』は併記) と付記される。 |
❉2: | 西谷。 |
❉3: | 現在の地名は「花立町」。昭和31年(1956) 小松市編入時に改称。 |
❉4: | 東谷。 |
❉5: | ダムのため集落は水没し実質消滅した (一部は村内代替地に移住、白峰村史 第3巻,1992)。 |
❉6: | 明治15年(1882) 桑島村に改称、したがって対応する近代の大字は「桑島」。 |
❉7: | 水没は免れたが、ダムにより孤立するため全戸移転した (新丸村の歴史,1966)。 |
❉8: | 現在の地名は「津江町」。昭和31年(1956) 小松市編入時に改称。 |
❉9: | [中世〜織豊期] 文亀元年(1501): 「加州能美郡山内庄丸山」(方便法身尊像裏書、増訂 加能古文書,1944/1973)。 |
❉10: | ダムのため全戸移転、集落は水没し消滅した (新丸町の歴史,1966)。 |
❉11: | [中世〜織豊期] 天文12年(1543): 「加州山内牛くび」(証如上人日記、石川県尾口村史 第1巻・資料編1,1979)、天文14年(1545): 「牛頸」(室町幕府政所奉行人意見状案、同)、ほか。 |
❉12: | 明治9年(1876) 牛首・風嵐 2村で合併し白峰村、したがって対応する近代の大字は「白峰」。 |
❉13: | ダム建設を契機に全戸移転し、集落は消滅した (白峰村史 第3巻,1992)。 |
❉14: | 水没は免れたが、ダムにより孤立するため全戸移転した (石川県尾口村史 第3巻・通史編,1981)。 |
❉15: | ダムのため集落は水没し実質消滅した (一部は村内代替地に移住、石川県尾口村史 第3巻・通史編,1981)。 |
❉16: | ダムのため全戸移転、集落は水没し消滅した (石川県尾口村史 第3巻・通史編,1981)。 |
❉17: | 明治16年(1883) 東二口村に改称、したがって対応する近代の大字は「東二口」。 |
❉18: | 地形的には尾添谷。 |
❉19: | [中世〜織豊期] 天文12年(1543): 「風嵐」(証如上人日記、石川県尾口村史 第1巻・資料編1,1979)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。 |
❉20: | [中世〜織豊期] 鎌倉末期〜南北朝期: 「河内庄内野地」(三宮古記、加能史料 南北朝2,1995)。 |
❉21: | [中世〜織豊期] 貞和3年(1347): 「加賀国河内庄内椙森野」(藤原重宗売券、石川県尾口村史 第1巻・資料編1,1979)、ほか。 |
❉22: | [中世〜織豊期] 永享10年(1438): 「加賀国河内庄ます谷」の四至牓示として「わたつ村」(祇陀寺寄進畠坪付、石川県尾口村史 第1巻・資料編1,1979)。 |
❉23: | [中世〜織豊期] 貞和3年(1347): 「加賀国河内庄内椙森野」の四至牓示として「御子清水」(藤原重宗売券、石川県尾口村史 第1巻・資料編1,1979)、永享10年(1438): 「加賀国河内庄小野山」の四至牓示として「ミこの清水」「御子の清水」(祇陀寺寄進畠坪付、同)。] |
❉24: | [中世〜織豊期] 元亨2年(1322): 「別宮」(白山宮荘厳講中記録、加能史料 鎌倉2,1994)。] |
❉25: | [中世〜織豊期] 貞和3年(1347): 「河合一村」(藤原重宗寄進状案、石川県尾口村史 第1巻・資料編1,1979))、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。 |
❉26: | [中世〜織豊期] 天正2年(1574): 「仏子野村」(仏師ケ野村五郎兵衛山売渡証文、石川県尾口村史 第1巻・資料編1,1979)。 |
❉27: | 現在の表記は「仏師ケ野」。 |
❉28: | 現在の表記は「三ツ屋野」。 |
❉29: | 天文11年(1542): 「かま志ミづ」(天文御日記、真宗史料集成 第3巻,1979)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。 |
❉30: | 永享10年(1438): 「加賀国河内庄ます谷」の四至牓示として「あいたき」(祇陀寺寄進畠坪付、石川県尾口村史 第1巻・資料編1,1979)、永正年間(1504〜1521): 「鮎滝」(反故裏書、新編真宗大系 第18巻,1950)、ほか。 |
❉31: | [中世〜織豊期] 天正9年(1581) 3月9日:「加賀国白山之麓ふとうげ」(信長公記、改定史籍集覧 第19冊,1901/1984)、慶長6年(1601) 5月24日: 「ふとうげ河」(加賀古文書、加賀藩史料 第1編,1929/1970)。 |
❉32: | 明治8年(1875) 二曲・清水の 2村で合併し出合村、したがって対応する近代の大字は「出合」。 |
❉33: | 尾添谷。 |
❉34: | [中世〜織豊期] 天文13年(1544): 「山内庄尾副村」(後奈良天皇綸旨案、石川県尾口村史 第1巻・資料編1,1979)、天文14年(1545): 「尾添村」(室町幕府政所奉行人意見状、同)、同: 「賀州尾添」(言継卿記、同)、ほか。 |
❉35: | 明治16年(1883) 東荒谷村に改称、したがって対応する近代の大字は「東荒谷」。 |
❉36: | [中世〜織豊期] 嘉元2年(1304): 「加賀國得橋鄕內佐羅別宮御供田」(六波羅下知状、加能史料 鎌倉2,1994)、徳治3年(1308): 「當國白山中宮佐羅別宮」(當國 = 加賀國、六波羅下知状、同)、ほか。 |
❉37: | 天保国絵図には「木滑村之内」と付記された木滑新村がほかにある。 |
明暦元年(1655) から寛文8年(1668) にかけて、近世 越前国 大野郡 牛首村・風嵐村と加賀国 能美郡 尾添村との間で白山争論が再燃し、最終的に福井藩と加賀藩の対立 (または前田家と松平家の対立) にまで発展した。これについて、徳川政権 (江戸幕府) は加賀藩には代替となる所領を与えてた上で、東谷 (牛首谷) の 牛首・風嵐を含む 11村と、西谷 (丸山谷) の5村、および尾添谷の尾添・荒谷の 2村をまとめて直轄支配するものとした。
これによって 18村は「白山麓十八か村」として集合的に把握されることとなり、国郡は徐々に曖昧になっていった。延宝元年(1673) の白山麓一六カ村免定目録 (❉38) には「白山麓牛首谷・丸山谷御蔵入拾六ケ村免定之目録」(牛首谷・丸山谷は併記)、元禄7年(1694)の御成箇可納割付状 (❉39) には「白山麓丸山村」、元禄10年(1697)の「白山争論に付尾添村訴状控」(❉40) に 「白山麓尾添村」とある。ただし、白山麓一六カ村免定目録は「拾六ケ村」とあるように東谷・西谷 (越前国) の 16村についての文書であり、尾添谷 2村 (加賀国) とは区別されている。また、元禄11年(1698) の「尾添村と出入の請書」(❉41) には「越前国大野郡牛首村」「同国同郡風嵐村」「加州尾添村」、同18年(1705) の皆済目録 (❉39) には「越前国大野郡白山麓 丸山村」、寛保3年(1743)の「白山争論に付尾添村へ過料銭申付覚」(❉38) には「加賀国能美郡尾添村」ともある。
しかし、天明3年(1783) の二口村五人組御仕置帳 (❉38) に「加賀・越前国白山麓 二口村」(越前・加賀は併記) とあるのをはじめとして、文化15年(1818) 「瀬戸村村民盗難屈」「 瀬戸村村民葉煙草盗難届」 (❉38) に「越前加賀白山麓瀬戸村」「越前・加賀白山麓瀬戸村」(同)、文政5年(1822) 「三村山一件訴状および済口証文」に「越前・加賀白山麓五味島村」(同)・「同断釜谷村」「同断女原村」「同断深瀬村」「同断鴇ケ谷村」「同断杖村」「同断尾添村」「同断牛首村」、安永6年(1823) 年貢米金皆済目録 (❉39) に「越前加賀白山麓 須納谷村」とあるように、江戸後期には「白山麓」のほか「加賀・越前」を冠称することが多くなっていく。これは郷帳でも同様で、元禄郷帳では何も冠称しないが、天保郷帳ではすべて統一的に「越前・加賀 白山麓」を冠称している (越前・加賀は併記、国絵図では何も冠称しない)。「白山麓十八ケ村」については、享保17年(1732) の取次元帯刀由緒口上書 (❉38) に「白山麓拾八ケ村」とあり、これが初出かと思われ、元文元年(1736) の「福井藩御預所より木滑関所通行規定に付書状」(❉38) では「越前・加賀国白山麓 拾八ケ村」(越前・加賀は併記) といった表現も使用されている。
これらについて、宝暦6年(1756) 「加州領への売物正金支払願」で牛首村の十郎右衛門は「幕府へ提出する諸書類にも加賀・越前両国 白山麓十八ケ村と書き上げてきた」としているので (❉42) 、意図的なものであることがわかる。この十郎右衛門は、代々同じ名前を継承して支配的な立場になることが多かった人物であり、この表現には 18村の上に君臨しようとした姿勢が見え隠れする。もっとも、文書自体は白山麓十八か村特有の不都合を訴えるものであり、ほかにも非常に厳しい自然環境に起因する窮状から減免を求めることも多く、人物像を一概に評価するのは難しい。帯刀するなど威勢を張る傾向にあったのは確かなようだ。
文化2年(1805) 「白山麓の唱に付十郎右衛門書上」によると、「白山麓 尾添村・荒谷村の 2箇村について、元禄年間(1688〜1704) まで『加賀国 能美郡』だったのに、その後どういった理由で『白山麓』を称するようになったのか」と十郎右衛門は問われ、まず「以前は加賀国 能美郡でしたので、御公領 (幕府直轄領) となっても、しばらくは以前からの能美郡と称したようです」とし、18村の全体について「郡を書くように仰せ付けられるのであれば、大野郡 白山麓です」と答えている (❉43) 。国郡と所領 (藩領・幕府直轄領) の区別が曖昧で時間経過の影響も見受けられるが、 あくまでも「加賀国 能美郡」は以前の呼称であり、また現在敢えて国郡を書くのならまとめて「越前国 大野郡」である、というのが十郎右衛門の見解ということになる。
白山 (御前峰・大汝峰・剣ケ峰の総称) は古くから信仰の対象とされ、その頂上の社殿を維持・管理する権利をめぐってしばしば争いが起こっていた。権利の獲得者は、参拝者 (登山者) から直接的に得られる利益 (奉納された金銭や進物など) を独占し、山林資源も優先的に利用することができたとされる。牛首村・風嵐村と尾添村も戦国期のころから対立が目立つが、これは牛首村・風嵐村の介入に起因する。牛首村・風嵐村は禅定道と呼ばれる登山道 (❉44) から外れたところに位置していた。
寛文8年(1668) の幕府裁決は福井・加賀両藩の対立を円満に解消させたものの、そもそもの白山争論については何も解決しなかった。特に尾添村は加賀藩の後ろ盾を失い、江戸期を通じて牛首村の圧迫を受けることになってしまった。もっとも、白山信仰については発言力を増した越前国・平泉寺白山神社 (江戸期は単に『平泉寺』) が独占することになり、両村とも利益を失うことになった (❉45)。
禅定道は加賀・越前・美濃の 3国からそれぞれあり、加賀禅定道・越前禅定道・美濃禅定道と呼ばれた。また禅定道の起点を馬場といい、加賀馬場・越前馬場・美濃馬場はそれぞれ現在の白山比咩神社・平泉寺白山神社 (正式には単に『白山神社』)・長滝白山神社であり、神仏分離前の寺院としてはそれぞれ白山寺・平泉寺・長瀧寺である。越前国を経由する美濃禅定道には、途中の石徹白に所在する白山中居神社が拠点として加わる。なお神仏習合であることにはほかと変わらないが、この白山中居神社だけ神職による支配であり、別当寺 (神宮寺) は存在しなかった。
加賀国の一部が割かれた上、代替は遠隔地である近江国 高島郡 海津中村町 (現在の高島市 マキノ町海津付近) の一部だった (❉46)。しかし当地は琵琶湖の重要港の一角であり、すでに近隣の今津村・弘川村 (同じく現在の高島市 今津町今津と今津町弘川の付近) を持っていた加賀藩にとっては何ら支障なく、むしろ面倒ごとばかり起こす尾添・荒谷の 2村を手放すことができて好都合だったようだ (❉47)。
東谷・西谷の 16村は福井藩の預かり (預地) となって管理下にあり、寛文8年(1668) の裁決はその扱いが解かれただけだった。したがって福井藩に代替となる所領は与えられていない。預地が失われた得失の評価は難しいが、基本的には一時的かつ幕府の裁量によって変更されうる土地の、しかも実入の小さいわりには面倒な土地がなくなっただけであって、影響はほとんどなかったかと思われる。なお、この預地は、転封により寛永21年(1644) から勝山藩が存在しなかったことによるものであり、「勝山御領分」などと総称されていた (❉48)。
越前国の正保郷帳の写本または副本。奥付に正保3年(1646) 6月7日の日付がある。福井県文書館の所蔵・公開。
❉38: | 石川県尾口村史 第1巻・資料編1(1979) 所収。 |
❉39: | 新丸村の歴史(1966) 所収。 |
❉40: | 白山史料集 上巻(1979) 所収。 |
❉41: | 白峰村史 下巻(1959) 所収。 |
❉42: | 石川県尾口村史 第1巻・資料編1(1979) 所収、原文「御公儀様へ差上候諸書物茂加賀・越前両国白山麓拾八ケ村と書上来申候」。 |
❉43: | 石川県尾口村史 第1巻・資料編1(1979) 所収、原文「白山麓尾添村・荒谷村弐ヶ村之儀者、元禄年中迄ハ加賀国能美郡ニ有之候処、其後何々之訳を以白山麓と唱候哉」「前々加賀国能美郡ニ御座候得者、御公料ニ相成候而も前々ゟ相唱候能美郡と暫相唱候哉」および「郡を書候様被仰付事御座候而者大野郡白山麓ニ而御座候」。 |
❉44: | 白山の自然誌 21 白山の禅定道(2001) など。 |
❉45: | 白鳥町史 通史編 上巻(1976)、石川県尾口村史 第3巻・通史編(1981) など。 |
❉46: | 「白山争論記」所収史料・「白山収公一件」所収史料など。 |
❉47: | 石川県尾口村史 第3巻・通史編(1981)。 |
❉48: | 越前国知行高之帳・福井県史 通史編3 近世1(1994)。 |
明治5年(1872) 越前国 大野郡の 16村 (東谷・西谷) は、加賀国 能美郡に移された。これにより越前・加賀の国界は古代のものに戻った。
江戸後期の白山麓十八か村は、越前国のほかの幕府直轄地などとともに本保陣屋 (代官所、のち郡代の出張所) の支配下にあった。その支配地を母体として明治3年(1870) 12月に本保県が成立し、白山麓十八か村もこれに引き継がれたが、廃藩置県とその後の府県再編の過程で明治4年(1871) 11月 本保県は福井県に統合され、さらに同12月20日 福井県は足羽県に改称された。
この過程で混乱があったようで、たとえば、明治3年(1870) 12月の本保県成立時に太政官から渡された仮高帳には「越前国大野郡」とは別に「越前国白山麓」があり、かつ尾添村・荒谷村も含む 18村が記載されている (❉1)。また、明治4年(1871) 12月の伺書で旧・本保県は「越前・加賀白山麓十八ケ村については、これまで国郡の呼称なく、また、どの国郡にも所属してこなかった」という見解を示していた (❉2)。文化2年(1805) に牛首村の大庄屋・十郎右衛門に尾添村・荒谷村の国郡について問い合わせたのは本保陣屋なので、その曖昧な認識が反映されたためかと推定される。また参照すれば正しい情報は得られるので、少なくともここに関係した人物たちは国絵図・郷帳を確認していないし、おそらくその存在を認識していない。
伺書には「白山麓十八ケ村の加賀・越前分割について大蔵省へ上申したことについては、前々より当県大参事の熊谷直光が金沢県へ足を運び、同県の内田大参事 (と議論し) ともども異論はない次第なので」とあるので、すでに分割するという結論には達し、大蔵省へ決定を求める状況にはあったようだ (分割後の国郡に基づく県の管轄も含む)。しかし大蔵省からは一向に結論を得られず、その一方で本保県はすでに廃止され、また「無知で愚かな農民は、ややもすれば急に方向を失いかねず」と、すでに不穏な動きがあるなか「一刀両断のご指示をしていただきたい」と、国郡・管轄県の決定を催促している (❉3) 。
結局、明治5年(1872) 3月になっても状況は変わらず、戸籍調査やその他取り締まり事項を旧・本保県から布達する旨を足羽県に連絡する書状の中で、旧・本保県は「ついに新たに設置された何県の統轄となるのか御達はなかった」といっている。なおこの書状で、白山麓十八か村を「郡名の呼称がない閑地」としつつ「昔はその多くは大野郡所属の村々」としているので (❉4) 、旧・本保県はその大部分が江戸初期 (元禄年間,1688〜1704 より前か、幕府直轄地化より前) 越前国 大野郡 で残りは加賀国 能美郡だったということは、(これはこれで誤認識ではあるものの) 理解している。明治4年(1871) 12月の伺書でいう加賀・越前分割も、この旧・本保県の認識における江戸初期の状態を前提とするものだったと考えられる。
一方、同じ明治5年(1872) 3月、牛首村の山岸十郎右衛門は 18村を仮に引き継いだ足羽県に陳情書を送り、「元本保県の見込みでは尾添・荒谷両村を加賀の地とし、(残りの) 16か村を大野郡に所属することにしたいとお伺い中とのことですが」とし、あれこれ理由を書き並べた上で「1村たりとも分割されることのないよう嘆願いたします」と求めている。ただし、その理由の中で「貧民とはいえ、皆の力を合わせてお互いに助け合い、手伝いなどし」といっているのは十郎右衛門の虚偽である (❉6)。これを受けて 4月には、足羽県から大蔵省に決定を催促しているが、その書状 (❉4) では十郎右衛門の求めを反映し「18か村を分割すると難渋すると思われる」(❉5) との意見が添えられている。足羽県からの求めを受けて、明治5年(1872) 5月、大蔵省は石川県 (同年 3月に金沢県から改称) と足羽県の両県に対し、共同で実地調査を行って意見書を提出するように指示した。
石川・足羽両県はさっそく予定を調整の上、7月に実地調査を行って 9月までにそれぞれの意見書 (❉7) を大蔵省に提出した。このうち石川県の意見書は、官員として帯同した郷土史家の森田平次 (柿園) による別紙が添付され、その別紙は江戸期より前の経緯を説明し、18村がすべて本来は加賀国であることを明らかにするものだった。また実地調査の結果として、牛首村・風嵐村以外の村々の交通・購買は石川県と結びついていることも説明していた。これによってか11月、太政官は 18村を加賀国 能美郡の所属・石川県の管轄と決定し、明治6年(1873) 2月までに通達書 (❉7) を送付した。ただし、明治政府が実際にどのような検討を行って 18村の国郡と管轄県を決定したのかは、かならずしも明らかではない。
「白山麓十八か村」のうち、近世 牛首・風嵐・島村・下田原村の 4村 (すべて東谷) にあたる白峰村の「白峰村史 上巻」(1962)と、近世 鴇ケ谷・深瀬・釜谷・五味島・二口・女原・瀬戸 (以上、東谷) と尾添・荒谷の 2村 (以上、尾添谷) にあたる尾口村の「石川県尾口村史 第3巻・通史編」(1981) では石川・足羽両県の対応について、それぞれ「森田平次は郷土史研究の造詣深く」(中略)「精密な沿革調査書をそえて報告したのに対し、足羽県側の報告はきわめて粗放なものであった」、「森田平次は、柿園と号し、すぐれた郷土史家であったから」(中略)「詳細な調査に基いて主張したのに対し、足羽県の報告は極めて杜撰なものであった」と評価している。しかし足羽県の意見書が「粗放」で「杜撰」だったかといえば、そうでもない。なお、須納谷・白山新保・杖・丸山・小原の 5村 (すべて西谷) にあたる新丸村の「新丸村の歴史」(1966) では特に評価はなく、経過だけが記されている。
足羽県は意見書の中で、地理的には濁清川 (現在の尾添川) を境界とするのが望ましいとし、牛首村の陳情書に沿って 18村を分割させないことだけを求め、国郡・管轄県については何も主張していない。足羽県としてはこれ以上に書くべきことはなく、牛首村の意向に沿っているのは白山争論が念頭にある。またこの濁清川 (尾添川) について、森田が石川県の意見書別紙に記載した内容は誤っており、足羽県の意見書のほうが正しい。
共同の実地調査では瀬戸村と牛首村で両県は議論を重ねており、「加賀藩の郷土史家森田柿園とその系譜」(❉8) によれば、森田は「旧藩時代の明暦元年騒論の留記や、旧記・旧図を持参して、本来加賀国の地であることを証明してみせたので、足羽側は『閉口致シ候』と日記に記している」とある。また、大蔵省に意見書を送付するにあたっては、足羽県から石川県への書状 (❉6) に「別紙之通相伺度、即写指進申候。御縣御伺文も御送回被下度侯。此段御打合旁申進候也」、石川県から足羽県への返答 (❉6) にも「御県御伺文御廻し致披見候。且当県よりも、別紙之通取調書等相添伺度存候間、写御廻申候。仍而此段御報旁及御打合候也」とあるように、事前に草案を取り交わした上で、さらに打ち合わせも行われていた。これらからいえば、早くから状況を理解した足羽県は、必要最小限で現実的な意見に留めたのではないかと考えられる。
ある程度は結果論も含まれるが、管轄地どころか県自体の存在も流動的な状況下で、そもそも足羽県が 18村の処遇にどこまで関心があったのかはわからない。少なくとも、加賀を代表する石川県とこの時点では越前の東部だけを管轄する足羽県とでは、18村および白山への思い入れは異なるものだったかと想像される。
なお、森田は「白山復古記」の白山復古概論で「足羽官員は尾添・荒谷二村の地のみ檢査して歸縣す」としているが、自身で同記に記しているとおり、石川県は 7月22日の朝、足羽県とともに尾添村を出発、瀬戸村を経て東谷 (牛首谷) の深瀬村に到着、昼食をとって夕方に牛首村へ到着・宿泊している。この牛首村では 23日に議論も行われた。さらに 24日には牛首村から谷をさかのぼって一ノ瀬の温泉に到着し、ともに湯につかった。足羽県が帰途に着くのはこのあとになる。
石川県はさらに、25日は未明から松明を手に登山を開始、「室堂」を経由し「奥の院」まで登り切って下山、 26日は東谷 (牛首谷) をさかのぼって谷峠を越え、現在の勝山市 中心部まで到達、27日は大日峠を経て西谷 (丸山谷) に戻って新保村に宿泊、28日にようやく帰途に着いた。この行程からすれば「尾添・荒谷二村の地のみ檢査して歸縣す」になってしまうのだろうが、少し冷静さを欠いているようだ。
石川県の意見書別紙の中で、森田は「柴田勝家の甥である柴田三左衛門 (勝政) という者が勝家の命令で白山麓境の濁澄橋まで出向き、その橋の上で佐久間盛政と会い、その川をもって所領の境界としたので、川より南の瀬戸村等 16か村は、加賀国 能美郡の村落として勝家の所領になり、勝家滅亡後もそのまま越前藩の管轄となってきたところ」(❉9) と書いているが、これでは 16村が川より南、尾添・荒谷の 2村は川より北となってしまう。実際には尾添・荒谷の 2村も川より南にある。「加賀国 能美郡」も書き誤りで、真逆の「越前国 大野郡」でなければならない。
この濁澄川・濁澄橋は、「白山一巻」所収の「金沢年寄衆 (前田孝貞等五名) ゟ今枝近義宛書状」に「柴田三左衛門 (勝政)・佐久間玄蕃 (盛政) が濁澄川の橋の上で馬を止め、この川を境界とする、とした取り決めにより、尾添村も越前の内となり、(尾添村から) 人質をも遣わす (ことになった) が (中略) 加賀の白山であるからには、越前方となるのは迷惑に思い、加賀方になったということである」(❉10) とある。つまり「濁澄川が境界にされる可能性があったが、そうはならなかった」の前半だけをもって森田は説明している。あるいは「濁澄川を境界とて 16か村を柴田三左衛門 (勝政) へ与え支配するように取り決めたということです」(❉11) といった簡略化された表現のほうを採用したのかもしれない。なお、この文書が要領を得ない表現の羅列であるのは、尾添村など土地の者から聞き取ったことを書き並べているためである。
加越能文庫所蔵史料、白山史料集 上巻(1979) 所収。明暦元年(1655) 〜寛文8年(1668) の争論に対応するにあたって村方・金沢の年寄衆・江戸の今枝民部 (近義) の間で取り交わされた書状が集成され、表紙には寛文6年(1666) の日付がある。「金沢年寄衆 (前田孝貞等五名) ゟ今枝近義宛書状」は、細目次で寛文6年(1666) 9月12日の文書となっているが、実際の書状では奥書に 9月12日としか書かれていない (干支もない)。
白山一巻と同様に、往復の書状を加賀藩が保存のために集成したもの。白山争論一件は、争論発生時の明暦元年(1655) 7月から明暦3年(1657) 7月まで、白山収公一件は、裁許時の寛文8年(1668) 8月から寛文10年(1670) 1月まで。白山収公一件の「明暦元年未八月十二日・同十五日・同十九日日付に而、江戸民部方より、対馬・玄蕃・因幡・大学・内膳方へ来る書状三通之趣を受、九月十二日右五人より御請之留」が同文書であり、この表題 (史料名) のとおり明暦元年(1655) 9月の文書として扱われている。白山争論一件・白山収公一件とも白山所属争論(1934) 所収。
白山争論記は、白山争論一件・白山収公一件に先行して明治期に森田平次 (柿園) がまとめたもの。書状は取捨選択されている。「明暦元年九月聞取書之内」が同文書であり、やはり表題 (史料名) のとおりに明暦元年(1655) 9月の文書として扱われている。ただし、前者の最後の 2項目と奥書部分は省略されている。白山史料集 上巻(1979) 所収。
一方、白山復古記は、森田平次が当事者として関与した明治期の一件を排仏毀釈までまとめた記録。基本的に白山争論記と同じように史料を時系列に集成したものだが、末尾に「白山復古概論」として概要がまとめられている。白山所属争論(1934) 所収。
❉1: | 「本保県創置につき布告ならびに管轄仮高帳」、福井県史 資料編10 近現代1(1983) 所収、 |
❉2: | 「白山麓地所引渡しにつき本保県伺」、福井県史 資料編10 近現代1(1983) 所収、原文「越前加賀白山麓十八ケ村ノ儀ハ是迄国郡ノ称呼アルニアラス又何レノ国郡ニ附属スルニモ無之」。 |
❉3: | 原文「白山麓十八ケ村加越分割ノ儀大蔵省へ上申致シ候儀ハ兼テ当県大参事熊谷直光金沢県ニ到り同県内田大参事ニ通同シ無異議次第ニ付」「蠢愚ノ農民動モスレハ急猝方向ヲ失ヒ候ハンカ」および「一刀両断ノ御指示被成下度」。 |
❉4: | 石川県史(1931)・「白山復古記」所収。原文「遂に新置何縣統轄之御達は無之侯」「郡名の稱呼なき一閑地」および「古昔多くは大野郡所屬之村々」。 |
❉5: | 原文「十八ケ村分割相成候ては難澁之趣有之」。 |
❉6: | 石川県史(1931)・「白山復古記」所収。原文「元本保縣之御見込にては、尾添・荒谷兩村を加賀地へ被附、十六ケ村を大野郡に被屬度との御伺中之趣」「一村たり共分割相成不申樣奉歎願候」および「貧民とは乍申、多勢之力を以互に助合手傳等仕」。 |
❉7: | 石川県史(1931)・「白山復古記」所収。 |
❉8: | 金沢工業大学研究紀要 B 11(1988) 所収。 |
❉9: | 原文「勝家の甥柴田三左衞門と申者、勝家の命に依て白山麓境濁澄橋まで出馬し、橋上に於て盛政と出會、右川を以て領分の經界と約し申に付、河南瀬戸村等十六ケ村、加州能美郡の村落にて勝家の所領と成、勝家滅亡後も其儘越前藩の管轄と成来し処」。 |
❉10: | 原文「柴田三左衛門・佐久間玄蕃にこりすミ川橋之上ニ馬を立、此川切との約談ニて、尾添村も越前之内ニ罷成、人しちをも遣候へ共」中略「加賀之白山ニ候処ニ、越前方江罷成候儀迷惑被存、加賀方江罷成由ニ御座候」。 |
❉11: | 原文「にこりすミ川を切、十六ケ村三左衛門ヘ出シ支配候様ニ約談之由御座候」。 |
昭和33年(1958) (❉1)、福井県 大野郡 石徹白村のうち、小谷堂・三面地区を除く主要地区 (上在所・中在所・下在所・西在所) は、岐阜県 郡上郡 白鳥町に編入された。結果として、越前・美濃の国界はこの付近で西へ移動したことになるが、当然ながらこの時点で「越前国」も「美濃国」も地域区分として用いられていない。
地形的には旧県境 (=旧国界) が分水嶺であって、石徹白村は福井県側 (越前国側) と連続している。しかし、もっとも近い福井県 大野市の市街地へは距離がある上に道のりも険しく、近代に入って道路が整備されても冬季は途絶した。一方で、長滝白山神社が所在する岐阜県 郡上郡 白鳥町とは白山信仰を通して古くから深い関係にあり、桧峠を越えれば市街地へのアクセスも難しくなかった。
いわゆる昭和の大合併において県境をまたぐ合併・編入 (越境合併) が試みられたほかの地域と同様、ここでも編入賛成派・反対派で対立し、これに福井県側の強力な引留工作が拍車をかけ、結果として西部の小谷堂・三面地区は福井県に残ることになった。江戸期の両地区は主要地区の従属的な立場にあって、白鳥町史 通史編 上巻(1976) によれば「末社人」が居住し、社田 (神田) の小作や祭礼の下働きに従事していたという。相対的に大野市の市街地や県庁所在地に近いことも理由と考えられるが、昭和中期とはいえ山深い土地にあっては過去の経緯も少なからず影響したかと想像される。
近世 越前国 大野郡
274. | 上石徹白村 (❉2) |
275. | 中石徹白村 (❉2) |
276. | 下石徹白村 (❉2) |
基本的に近代の上在所は天保郷帳・国絵図の上石徹白村、中在所・西在所は中石徹白村、下在所は下石徹白村に対応すると考えられ、小谷堂・三面はこの 3村のどれかに含められていると思われるが、厳密には不明。
❉1: | 昭和33年(1958) 10月15日付。 |
❉2: | [中世〜織豊期] 天正3年(1575): 「石徹白」「押谷村」「下石徹白村」「下村」「さ津ら村」「小谷道村」「古小谷道村」「西村」(御祭田定帳、岐阜県史 史料編 古代・中世1,1969)、天正21年(文禄2年,1593): 「石徹白」「かミ村」「下村」「小谷道」「さつら」「ふち」「こたんと」「おし谷」(石徹白年貢算用状・算用状断簡、同)。 |