(20) 依上保の変遷
○陸奥国➡常陸国: 文禄4年(1595)

よりかみ保の付近では、戦国末期から織豊期にかけて陸奥むつ常陸ひたちの国界が変動した。 fig.依上保は、建武元年(1334) 後醍醐天皇りん (❉1) に「当国依上保」(当国 = 陸奥) としてはじめてあらわれる。和名類聚抄わみょうるいじゅうしょうの陸奥国 白河郡 依上郷が荘園化・成立したものと考えられ、文明18年(1486) の慶乗・慶儀連署奉書 (❉1) に「奥州依上保」とあるなど、戦国初期までは一貫して陸奥国として把握されている。

白河結城氏 (陸奥) の支配下にあったが、徐々に佐竹氏 (常陸) の圧迫を受けるようになり、えいしょう7年(1510) には白河結城氏の内紛に乗じた佐竹氏が本格的に侵攻、以後はその勢力下に置かれることになった (❉2)。その後、ぶんろく3年(1594) 豊臣政権下の検地 (文禄の検地)、および文禄4年(1595) これに基づく佐竹氏 (よしのぶ) 所領の安堵により、依上保の村々は常陸国 久慈郡として把握された。

なお、このときの依上保各村の検地帳は現存せず、村々を「久慈郡之内」として書き上げた知行目録も確認できない。したがって、各村が常陸国 久慈郡として把握されたことを直接確認することはできないが、文禄3年(1594) 常州検地覚書 (❉3) によれば、検地は文禄3年(1594) 10月から 12月末まで「久慈郡・多珂郡・鹿島郡・行方郡・新治郡・真壁郡・志多郡・河内郡・筑波郡・茨城郡・那賀郡・奥州之内南郷・下野之内武茂・同松野・同茂木」で行われたとあり、かつ奥州 (陸奥国) とされているのは「南郷」だけなので、依上保の各村はすでに久慈郡に含めて把握されていたといえる。 fig.

南郷は依上保に接し、陸奥南部への進出を目論む佐竹氏 (よししげ) が次に狙っていた地域である。しかし、南郷が佐竹氏に掌握されるのはてんしょう) 年間(1573〜1592) に入ってからであり、天正3年(1575) 佐竹氏は南郷の北部の要衝・あかだてを攻め落とし、さらに白河城 (小峰城) に迫って、天正7年(1579) までに白河結城氏を屈服させた。一方で、その後は背後にいた伊達氏 (てるむね・正宗) と直接退治せざるを得なくなって、睨み合いが続いた (❉2)。結局、南郷の支配が安定するのは天正18年(1590) 小田原北条氏滅亡後の豊臣政権下であり、佐竹氏の領国は依上保までであって、南郷はあくまでも新たに加えられた他国の一部、ということだったかと推定される。

ちなみに茨城・福島県境の八溝山は茨城県でもっとも標高が高い (1022m)。仮に依上保が常陸国に組み入れられずにそのまま福島県となっていたら、同じく県境の高笹山 (922m) も除かれ、えいぞうむろ(882m) が茨城県の最高峰になっていた。この標高は筑波山 (女体山、877m) よりわずかに高い程度である。

❖ほかの史料

先行して下記のような史料がある。

天文7年(1538): 「常州八溝山」(八溝山下の坊鐘銘、塙町史 第2巻 資料編1 考古・古代・中世・近世,1980)。「八溝山下の坊」は近世 久慈郡 町附村、現在の茨城県 大子町 黒沢に所在の慈雲寺。
文禄2年(1593): 「常陸国佐竹保内」(高野山奥院常灯料寄進受取状、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)
❉1: 大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世(1984) 所収。
❉2: 「棚倉町史 第1巻 通史編」(1982)・「塙町史 第1巻 通史・旧村沿革・民俗」(1986)・「矢祭町史 第1巻 通史・民俗編」(1985)。
❉3: 秋田県公文書館所蔵「秋田藩家蔵文書 12 常州諸士文書」(A280-2-12) に含まれる。「出版、出版物への掲載、放映については申請が必要」とあるが、Webコンテンツで引用する場合の制限は見当たらなかった。翻刻は矢祭町史 第2巻 史料編1(1985) 所収。
❖天保郷帳・国絵図の村々(❉1)

近世 常陸国 久慈郷

112. 長貫村 (❉2)(❉3)
113. 梶畑村 (❉2)(❉3)
114. 諸沢村
115. 下小川村 (❉4)(❉5)
116. 西さいがね
117. 富根村 (❉6)(❉7)(❉8)
118. 田野村 (❉7)(❉8)
119. 武弓新田村 (❉9)(❉10)(❉11)(❉12)
120. 天下野けがの村 (❉13)(❉14)
121. 高倉村 (❉15)(❉16)(❉17)(❉14)
122. 頃藤村 (❉18)
123. 大沢村
124. 塩沢新田 (❉19)(❉20)
125. 下津原村
126. 南田みなみた村 (❉21)
127. きた村 (❉21)
128. 久野瀬村 (❉22)
129. 袋田村 (❉23)
130. 小生瀬村 (❉24)
131. 高柴村 (❉25)
132. 大野村 (❉26)(❉27)(❉28)
133. 大生瀬村 (❉24)
134. 池田村 (❉29)
135. 大子村 (❉30)
136. 槐沢さいかちざわ新田 (❉31)
137. 上沢村 (❉32)
138. 山田村 (❉33)
139. 栃原村 (❉34)
139a. 久隆くきゅう村 (❉35)
140. 相川村 (❉36)
141. 相川古新田 (❉37)(❉38)
142. 上金沢村
142a. 田野沢村 (❉39)
143. 開田村 (❉40)(❉41)
144. 塙村 (❉42)
145. 左貫村 (❉43)
146. 初原村 (❉44)
147. 芦野倉村 (❉45)
148. 高岡村 (❉46)(❉32)
149. 中谷田村 (❉47)(❉48)(❉49)
150. 下谷田村 (❉47)(❉48)(❉49)
151. 浅川村 (❉50)
152. 冥加村 (❉51)(❉52)
153. 川山村 (❉53)
154. 三ケ草村 (❉54)
155. 下野宮村
156. 田野草村 (❉55)(❉56)
157. 沢又村 (❉57)(❉58)
158. 中郷村 (❉59)(❉60)
159. 町附村 (❉60)
160. 上郷村 (❉60)
161. 槇野地村 (❉61)
162. 上野宮村 (❉62)

近世 陸奥国 白川郡

33. かねざわ
34. 戸塚村 (❉63)(❉64)(❉65)
35. 東舘村 (❉66)(❉67)(❉68)
36. 小田川村 (❉69)
37. しもせき河内ごうど村 (❉70)(❉71)
37a. 追ケ草村 (❉72)(❉73)
38. ほうざか村 (❉74)(❉75)(❉76)
39. 上関河内村
40. 大滑村 (❉77)(❉78)
41. 高野こうや村 (❉79)
42. 山下村 (❉80)(❉81)
43. 関岡村 (❉82)(❉83)
44. 内川村 (❉84)(❉85)
45. 茗荷村 (❉86)(❉87)
❉1: 元禄郷帳・国絵図との対照を含む。
❉2: 天保国絵図には、2村で合併して家和楽村になった、という旨の付箋が貼られている。
❉3: 対応する近代の大字は「」。
❉4: 天保国絵図には、盛金村に改称、という旨の付箋が貼られている。
❉5: 対応する近代の大字は「もりがね」。
❉6: 天保郷帳では「古者 追原畠村」と付記され、元禄郷帳・国絵図では追原畑村。新編常陸国誌によれば天明6年(1786) の改称。
❉7: 天保国絵図には、2村で合併して北富田村になった、という旨の付箋が貼られている。新編常陸国誌によれば天保13年(1842) の合併。
❉8: 対応する近代の大字は「北富田」。
❉9: 元禄郷帳では武生新田村 (国絵図では折り目にあるため不明だが、天保国絵図では武弓山とある近くの山が武生山)。
❉10: 現在の表記は「武生たきゅう」。
❉11: 元禄郷帳・国絵図では「高倉村ノ内」、天保郷帳・国絵図では「高倉村枝郷」と付記される。
❉12: 対応する近代の大字は存在しない。新編常陸国誌によれば天保13年(1842) 高倉村に編入。
❉13: 元禄郷帳では「古ハ下高倉村」付記される。
❉14: [中世〜織豊期] 元弘3年(1333): 「高倉」(河会氏由緒書、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、文和4年(1355): 「同国久慈東郡内高倉郷」(同国 = 常陸国、佐竹義篤譲状、いわき市史 第8巻 原始・古代・中世資料,1976)、ほか。
❉15: 元禄郷帳では「古ハ上高倉村」付記される。
❉16: 天保国絵図には、上下高倉村に分村、という旨の付箋が貼られている。
❉17: 対応する近代の大字は上高倉・下高倉。
❉18: [中世〜織豊期] 応永32年(1425): 「奥州依上保比富士村」(結城氏朝(カ)証状、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、永正8年(1511): 「ころふし」(依上保目録、同)。
❉19: 天保郷帳では「古者 塩沢村」と付記され、元禄郷帳・国絵図では塩沢村。
❉20: 対応する近代の大字は存在しない。新編常陸国誌によれば天保13年(1842) 大沢村に編入。
❉21: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「たけ」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、天文5年(1536):「竹」佐竹義篤知行充行状写、同)。
❉22: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「依上之内久野瀬」(佐竹義篤知行充行状、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)。
❉23: [中世〜織豊期] 元弘3年(1333): 「袋田」(河会氏由緒書、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、永正8年(1511): 「袋田」(依上保目録、同)、ほか。
❉24: [中世〜織豊期] 永享8年(1436): 「なませ」(女とう知行充行状、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、永正8年(1511): 「なませ」依上保目録、同)、ほか。
❉25: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「たか四は」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)。
❉26: [中世〜織豊期] 元弘3年(1333): 「大野」(河会氏由緒書、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、永正8年(1511): 「おふの」(依上保目録、同)。
❉27: 天保国絵図では、内外大野村に分村、という旨の付箋が貼られている。
❉28: 現在の大字は内大野・大大野。新編常陸によれば天保13年(1842) の分村。
❉29: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「いけた」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、文禄5年(1596): 「いけ田」(佐竹義宣知行充行状、茨城県史料 中世編5,1994)、ほか。
❉30: [中世〜織豊期] 年不詳 (戦国期〜織豊期): 「たいこ」(某知行充行状写、茨城県史料 中世編2,1974)。
❉31: 対応する近代の大字は存在しない。新編常陸国誌によれば天保13年(1842) 大子村に編入。
❉32: 対応する近代の大字は「うわおか」。新編常陸国誌によれば天保13年(1842) に合併。
❉33: [中世〜織豊期] 永享2年(1430): 「依上保内山田村」(結城(白川)氏朝寄進状、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、永正8年(1511): 「やま田」(依上保目録、同)、ほか。
❉34: 元禄郷帳・国絵図では杤原村。
❉35: [新田・分村] 元禄郷帳・国絵図・天保郷帳には含まれない。国絵図では、大沢村・栃原村・開田村・下小川村より分村された久隆村、という旨の付箋が相当する位置にある。
❉36: [中世〜織豊期] 永和3年(1377): 「より上の内、あゆ河の郷内上 (上あゆ河、中あゆ河)」「山井内とつかの村」(結城朝治譲状、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、応永6年(1399): 「同国依上保内鮎河上中両郷」(同=陸奥国、足利満貞預ケ状写、同)、永正8年(1511): 「あゆかは」(依上保目録、同)、文禄4年(1595): 「愛川」(佐竹義宣知行充行状、同)、ほか。
❉37: 天保郷帳では「古者 相川新田」と付記され、元禄郷帳・国絵図では「相川新田村」。
❉38: 対応する近代の大字は存在しない。新編常陸国誌によれば天保13年(1842) 相川村に編入。
❉39: [新田・分村] 元禄郷帳・国絵図・天保郷帳には含まれない。天保国絵図には、開田村 (下金沢村)・上金沢村から分村された田野沢村、という旨の付箋が相当する位置にある。
❉40: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「せき田」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、永禄6年(1563): 「關田村金澤」(関田村十二天鰐口銘、水府志料)、元亀4年(1573): 「開田恵福寺」(同寺鐘銘写、常陸国郡郷考)、文禄4年(1595): 「金澤村」(佐竹義宣知行充行状写、茨城県史料 中世編2,1974)、ほか。
❉41: 天保郷帳では「古者 下金沢村」と付記され、元禄郷帳・国絵図では下金沢村。ただし天保国絵図では、下金沢村に改称された、という旨の付箋が貼られている。新編常陸国誌によれば享保6年(1721) 開田村に改称、天保13年(1842) に金沢村に改称。
❉42: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「はなハ」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)。
❉43: [中世〜織豊期] 永正8年(1511) 8月3日: 「くわから」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、天文5年(1536): 「依上鍬柄」(佐竹義篤知行充行状写、同)、文禄4年(1595): 「くわから」(佐竹義宣知行充行状写、同)。
❉44: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「はつハら」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)。
❉45: [中世〜織豊期] 永享8年(1436): 「大日本國奧州寄神保內芦野倉村」(慶福寺阿弥陀堂棟木銘写、水府志料)、永正8年(1511): 「あしの蔵」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、ほか。
❉46: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「たかをか」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、文禄4年(1595): 「高岡」(佐竹義宣知行充行状、同)。
❉47: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「いやたの」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、ほか。
❉48: 国絵図では、2村で合併して矢田村となった、という旨の付箋が貼られている。新編常陸によれば天保13年(1842) 合併。
❉49: 対応する近代の大字は「矢田」。
❉50: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「あさ川」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)。
❉51: 天保郷帳では「冥賀村」。
❉52: 現在の表記は「冥賀」。
❉53: [中世〜織豊期] 永享10年(1438): 「近津大明神之御領」の「皮山」(結城(白川)氏朝書下、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、ほか。
❉54: 対応する近代の大字は存在しない。新編常陸国誌によれば天保年間(1830〜1844) 川山村に編入。
❉55: [新田・分村] 萬万治2年(1659) 下野宮村から分村 (新編常陸国誌)。
❉56: 対応する近代の大字は「高田」。新編常陸国誌によれば天保10年(1839) の改称。
❉57: 国絵図では、「北吉沢村」に改称された、という旨の付箋が貼られている。新編常陸国誌によれば天保13年(1842) の改称。
❉58: 対応する近代の大字は「北吉沢」。
❉59: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「くろさハ」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)、ほか。
❉60: 天保郷帳では「古者 黒沢上郷村」「古者 黒沢中郷村」「古者 黒沢町附村」と注記され、元禄郷帳・国絵図では黒沢上郷村・黒沢中郷村・黒沢町付村。新編常陸国誌によれば万治元年(1658) の改称。
❉61: [中世〜織豊期] 永正8年(1511): 「まきのち」(依上保目録、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)。
❉62: [新田・分村] 寛文5年(1665) 上郷村から分村 (新編常陸国誌)。
❉63: [古代〜織豊期] 永和3年(1377): 「より上の内、あゆ河の郷内上 (上あゆ河、中あゆ河)」「山井内とつかの村」(結城朝治譲状、大子町史 資料編 上巻 原始・古代・中世・近世,1984)。
❉64: 天保郷帳では「古者 戸塚村・池内村 弐ケ村」(村名は併記) と付記される。
❉65: 天保国絵図には「戸塚村之内」と付記された池内村がほかにある。
❉66: [古代〜織豊期] 天正元年(1573)年前後: 「東舘」(小野崎義政(?)書状、塙町史 第2巻 資料編1 考古・古代・中世・近世,1980)、天正13年(1585): 「東舘」(戸部氏覚書、同)、ほか。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉67: 天保郷帳では「古者 東舘村・山野井村・矢沢村 三ケ村」(村名は併記) と付記される。
❉68: 天保国絵図には「東舘村之内」と付記された山野井村・矢沢村がほかにある。
❉69: [古代〜織豊期] 天文4年(1535): 「をた川」(和知直頼添状、矢祭町史 第2巻 史料編1,1985)、年不詳: 「南郷之内小田川」(白河義親(不説斎)書状、同)。
❉70: 天保郷帳では「古者 下関河内村・鴇巣・村・面木村・追分村・追ケ草村 五ケ村」(村名は3村・2村の 2段で併記) と付記される。
❉71: 天保国絵図には「下関河内村之内」と付記された鴇巣村・面木村・追分村がほかにある。
❉72: [古代〜織豊期] 天文4年(1535): 「おつ気のくさ」(白河結城義綱寄進状、矢祭町史 第2巻 史料編1,1985)、天文4年(1535): 「をた川」「おつ気の草」(和知直頼添状、同)。
❉73: 天保郷帳には含まれない。国絵図では「下関河内村之内」と付記される。
❉74: [中世〜織豊期] 年不詳 (天正年間はじめか): 「ほう坂」「手本」(某知行目録、矢祭町史 第2巻 史料編1,1985)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。
❉75: 天保郷帳では「古者 宝坂村・清水内村・押立村・手元村・高野谷地村 五ケ村」(村名は3村・2村の 2段で併記) と付記される。
❉76: 天保国絵図には「宝坂村之内」と付記された清水内村・押立村・手元村・高野谷地村がほかにある。
❉77: [新田・分村] 天保郷帳・国絵図では「上関河内村枝郷」と付記される。
❉78: 現在の表記は「おおぬかり」。
❉79: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 陸奥国 白河郡 高野郷 (和名類聚抄)、寛正4年(1463): 「高野郷」(斑目直政寄進状、棚倉町史 第2巻,1978)、ほか。
❉80: 天保郷帳では「古者 山下村・荻村・栗生村 三ケ村」(村名は併記) と付記される。
❉81: 天保国絵図には「山下村之内」と付記された荻村・栗生村がほかにある。
❉82: 天保郷帳では「古者 関岡村・芝村・小坂村・江戸塚村・天神沢村・飯野村 六ケ村」(村名は 3村ずつ 2段で併記) と付記される。
❉83: 天保国絵図には「関岡村之内」と付記された芝村・小坂村・江戸塚村・天神沢村・飯野村がほかにある。
❉84: 天保郷帳では「古者 内川村・平畑村・高地原村・真木野村・斜村 五ケ村」(村名は 3村・2段の 2段で併記) と付記される。
❉85: 天保国絵図には「内川村之内」と付記された平畑村・高地原村・真木野村・斜村がほかにある。
❉86: 天保郷帳では「古者 名下村・志田平村 弐ケ村」(村名は 3村ずつ 2段で併記) と付記される。
❉87: 天保国絵図には「茗荷村之内」と付記された志田平村がほかにある。
❖上高倉村・下高倉村

新編常陸国誌・水府志料によれば、上高倉村・下高倉村が元禄12年(1699) に改称して高倉村・天下野けがの村となった (後者の改称にともない前者の『上』を略した)。その後、高倉村 (旧・上高倉村) が天保13年(1842) に分村して上高倉村・下高倉村となった。したがって、元禄12年(1699) 以前と天保13年(1842) 以後の上高倉村・下高倉村は異なる対象を指している。

❖天保の常陸国絵図

【(3) 古代から中世・近世はじめにかけての下総国】で言及したように、国立公文書館でデジタル公開されている天保国絵図には付箋 (懸紙・掛紙) が貼られているものがある。常陸国絵図も該当し、特に中北部に多い。依上保の付近を示すと以下のとおり。 fig.