たかはし: 寛永14年(1637)
Fig.081 近世はじめの変遷: 高椅

この地域※1は、和名類聚抄に含まれるしもうさゆう郡の高橋郷にあたる。 Fig.501: 元和3年(1617): 倭名類聚鈔 古活字版(20巻本) 第6巻 (国立国会図書館所蔵)たかはし神社もえんしきじんみょうちょうに下総国 結城郡の神社として記載されている。 Fig.532: 延喜式 巻九 (現存最古の写本・部分・東京国立博物館所蔵・ColBase公開)▼現在の高椅神社 (参考資料)。 Fig.674: 現在の高椅神社しかし近世は下野しもつけ郡に含まれ、国界が南へ移ったことがわかる。

この付近では、古くから結城氏が下総を、やま氏が下野を勢力下に置いていた。この構図は中世を通して変わらなかったが、周辺諸氏との争いは絶えず、また南北朝期に小山よしまさの乱 (てんじゅ6年/こうりゃく2年〜こう2年/えいとく2年,1380〜1382)、室町期に結城合戦 (えいきょう12年〜きつ元年,1440〜1441) が展開されるなど、動乱の舞台にもなった。戦国期には、はじめ古河公方と関東管領・上杉氏の対立、のち後北条氏と上杉氏をはじめとする戦国大名の争いに巻き込まれ、小山氏の祇園城 (小山城、現在の小山市 城山公園) は天正3年(1575) 北条うじてるに奪われた。その後、祇園城には天正10年(1582) 小山ひでつなが形式的に復帰するものの、天正18年(1590) に結城はるともによって攻略された。

小山秀綱と結城晴朝は兄弟であり、父は小山たかとも、祖父は結城まさともという関係にある。結城晴朝の祇園城攻略は、すでに豊臣秀吉が小田原城を包囲する状況にあって、豊臣陣営についた立場としてやむを得なかったのだろう。小山氏の旧臣が内応したともいわれる※2。いずれにせよ、これによって小山氏の旧領 (小山領) のほとんどは結城氏の所領に組み込まれることになった。

けいちょう6年(1601) 関ケ原の戦い後、晴朝から家督を継いでいた結城ひでやすは論功行賞により越前北庄きたのしょう (現在の福井) へ加増・転封された。結城氏の旧領 (結城領) は山川領とともに一時的に幕府直轄地となって代官・伊奈ただつぐの支配下に入ったとみられ※3、小山領についても同様と考えられている※2。伊奈忠次が慶長7年(1602) 上山川・大木・結城寺の各村で検地を行った記録が残っており※3、次の安藤重信・壬生藩が慶長17年(1612) 上山川・大木村で、小山に入った本多まさずみが慶長18年(1613) 神鳥谷ひととのやくろもとだい行寺ぎょうじなどの各村で※2、古河に入った奥平ただまさが元和7年(1621) 乙女村・横倉村などで※2、同じく永井なおかつが元和9年(1623) 野田・横倉・とう・黒本・大行寺などの各村で※2、出羽久保田藩 (秋田藩) がかんえい5年(1628) 藩領としては飛地の上茅橋・飯田・山田の各村で※2それぞれ検地を行った記録が残っている。高椅地域については寛永14年(1637) 高橋村※4・中島村で、同15年(1638) 延島村※5で行われた記録が最初で、中島村については検地帳も現存し、その表紙には「下野国結城領中嶋村」とある※6。したがって、高椅地域はこのときまでに下総国 結城郡から下野国 都賀郡に移されたといえる。

慶長6年(1601) 〜寛永14年(1637) の具体的にどの時期なのかは記録が残っていないためわからないが、同時期の寛永14年(1637) に結城本郷・武井村 (結城郡) でも検地が行われたことや、寺社の朱印状・在地での認識 (どちらも後述) を踏まえると、それ以前ではなく寛永14年(1637) に周辺一帯の国郡が再編成され、この過程で高椅地域は下野国 都賀郡に移されたとするのが妥当といえる。

❖正保の下野国郷帳 (東野地誌)

正保の下野国郷帳は東京大学史料編纂所が所蔵・公開している。表題から『東野地誌』といい、奥書に慶安元年(1648) の日付があるので『慶安郷帳』とも呼ばれる。 Fig.560: 正保の下野国郷帳 (東野地誌・部分・東京大学史料編纂所所蔵)Fig.561: 正保の下野国郷帳 (東野地誌・部分・東京大学史料編纂所所蔵)

❖中川忠英旧蔵の下野国絵図

国立公文書館が所蔵する中川忠英旧蔵の下野国絵図 (#714243#714302) について、記載されている各郡の石高を『東野地誌』(正保郷帳) の石高と比較すると一致する。 Fig.559: 正保の下野国絵図 (中川忠英旧蔵・国立公文書館所蔵)Fig.563: 正保の下野国石高したがって中川忠英旧蔵の下野国絵図は正保の下野国絵図の写しであるといえる。

➸高椅地域

高椅地域は、正保の下野国郷帳 (東野地誌)、およびこれに対応する中川忠英旧蔵 下野国絵図に含まれている。 Fig.545: 正保の下野国絵図・郷帳

❖小山氏・結城氏・山川氏・白河結城氏

結城氏は小山氏からの分家ではあるが、小山よしまさの乱 (天授6年/康暦2年〜弘和2年/永徳2年,1380〜1382) で断絶した小山氏を再興したのは結城氏から出たやすともであり、その後も複雑な系譜を経て、結城まさとも、結城まさかつ・小山たかとも兄弟、および小山ひでつな・結城はるとも兄弟の3代で戦国期の終盤を迎えた。小山高朝は結城政勝の弟で小山氏を継いだが、結城晴朝は小山秀綱の弟で結城氏を継いだ。山川氏は系図によれば結城氏からの分家だが、対立することもあって実質的には独立していた。最終的には結城氏に服して越前国へ同行した。白河結城氏は古く結城氏から分かれて奥州 (陸奥) へ進出した家系である。

➸小山よしまさの乱

てんじゅ6年/こうりゃく2年(1380) 小山義政が対立する宇都宮基綱を、鎌倉公方・足利うじみつの制止を無視する形で攻撃・殺害したことにはじまる反乱。氏満は義政の討伐を命令、ただちに編成された討伐軍に対して義政は本拠とする小山城 (祇園城) に籠城した。降伏・反攻を繰り返したあと、こう2年/えいとく2年(1382) 義政は自害し小山氏は断絶した。なお陸奥へ逃れていた子の若犬丸も、のちに挙兵後、鎮圧され死亡した。

➸結城合戦

えいきょうの乱(永享10〜11年,1438〜39) 後、破れた鎌倉公方・足利もちうじの遺児 (春王丸・安王丸) を結城うじともが擁し、永享12(1440) 室町幕府 (関東管領) に対して挙兵した反乱。北関東の諸氏がこれに応じて 1年におよぶ籠城戦となったが、最終的に結城城は陥落し氏朝は自害した。春王丸・安王丸も捕らえられ、のちに死亡した。

➸結城秀康

徳川家康の次男。天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い後に秀吉の養子 (実質的には人質) となって羽柴秀康を名乗り、さらに天正18年(1590) 結城はるともの求めに秀吉が応じ、 その養子となって結城氏を継いだ。関ケ原の戦い後、越前国 北庄きたのしょう (のちの福井) へ移った。

えん

延喜式は養老律令に対する「式」(施行細則) を集大成した古代の法典である。延喜5年(905) に編纂をはじめ、延長5年(927) に成立した。先行する「こうにん式」「じょうがん式」を基に、その後の法令を網羅的に集成したものであり、特に巻9・巻10は、律令制下の神社 (官社) 2861社 (3132座) を国郡ごとに載せ、「延喜式神名帳」ともいい、古代の地名の検討するのに重要な史料となっている。国立公文書館で江戸初期などの写本がデジタル公開されている。また平安末期の写本を東京国立博物館が所蔵、ColBaseで公開されており (#B-2370)、現存するものでは最古である。 Fig.673: 延喜式 (現存最古の写本・東京国立博物館所蔵・ColBase公開)

たいほうりつりょう・養老律令

大宝律令・養老律令は古代の基本法典である。唐の制度を参考に編纂され、大宝律令は大宝元年(701) に成立、翌年にかけて施行された。養老律令はこれを改訂したもので、天平宝字てんぴょうほうじ元年(757) に施行された。律は刑罰に関する規定、令は行政に関する規定。なお、養老律令は養老2年(718) の成立とされるが、実際にははっきりしない。

じんぽうしょう

神鳳鈔は伊勢神宮領 (御厨・御園/薗) を国別に書き上げた文書である。延文5年(1360) 以後、卓治3年(1364) 以前の成立とみられる。伊勢神宮広報誌の『瑞垣 第163号』(1993) や『新校群書類従 第1巻』(1932) の解題などによれば、『群書類従巻第九』に収められて広く流布したものは朱墨の区別がなく、合点が省略されている。これを嘉永6年(1853) に『内宮文殿本』によって忠実に再現(影写)したものが神宮文庫に所蔵され、『新校群書類従 第1巻』(1932) にはこれが反映されている。国立公文書館にはこれを安政3年(1856) に写した写本 (中扉に『神鳳鈔 古本影摹』とある)NDLDCには明治9年(1876) の写しで写本 (同『古本神鳳鈔』とある)が存在する。前者のほうが古いが、後者のほうが紙の破れ・虫食い・取り消し (削除) などの表現が相当に細かく、おそらくこちらのほうが忠実に影写・再現しているかと思われる。 Fig.531: 神鳳鈔 (部分・国立国会図書館所蔵)

❉1: 現在の小山市における地域区分では絹地区に概ね相当するが (明治22年〜昭和31年,1889〜1956の村名に由来する)、ここで扱う範囲よりやや広いため、古代〜中世の景観も踏まえて高椅地域とした。
❉2: 『小山市史 通史編2 近世』(1984)。
❉3: 『結城市史 第5巻 近世通史編』(1983)。
❉4: 延享4年(1747) 高橋村円藤庵記録書、『小山市史 史料編 近世1 付録』(1982) 所収。「結城御代官所市川孫右衛門殿御代 同十四丁丑年六月、高橋村御検地御縄入有之」(同 = 寛永) とある。
❉5: 享保21年(1736) 延島村大蔵坊本末帳帳落につき一札、『小山市史 史料編 近世1 付録』(1982) 所収。「寛永十五戊寅之年当地田畑、従御 公儀様為御検地御改熊沢三郎左衛門様御検地」とある。
❉6: 寛永14年(1637) 結城領中島村検地水帳、『小山市史 史料編 近世1 付録(1982)』所収。「寛永十四年丑ノ七月朔日」「下野国結城領中嶋村御検地水帳」とある。
❖天保郷帳・国絵図の村々※7

近世 下野国 都賀郡

55. 延島村※8※9※10
56. 延島新田村※11
57. 中川原村※12※9※13※14
62. 高橋村※15※16※17※9※10※18
63. 福良村※16※19※13※9※10
64. 中島村
280. 田間村※20
281. 武井村※21
282. 野田村※22※23
285. おお※24※25
286. 稲葉郷
287. 中久喜村※26
288. 神鳥谷村※27※28※29
289. 犬塚村※30
290. 犬塚新田村※31※32

293. 泉崎村
294. とう※33
295. 塚崎村※34
296. 出井いでい※35
297. はちがた※36
298. 向野村
299. 雨ケ谷村※37
300. 横倉村※38
303. 喜沢村※39
373. 山田村
374. 飯田村※40※41
375. 上茅橋村※42※43
376. 下茅橋村※42※43
377. やな※9※44
378. 向原新田※45

近世 下野国 河内郡

147. 磯部村※46
148. 絹板村※47
155. 船戸村※48
189. 下吉田村

近世 下総国 結城郡

1. 結城本郷※49
2. おお※50
3. 小田林村※51
4. すけ※52
5. 小森村※53
6. 小森新田村※54
7. 久保田村※55
8. 中村※56
9. 中村新田※57
12. 作野谷村※58※59
13. 上成村※60
14. 田間村※61
21. 武井村※62
❖小山高朝伊勢役銭算用状

天文5年(1536) 小山領における「伊勢役銭」の負担額を、小山高朝が書き上げ、佐八掃部大夫へ送付した目録。『小山市史 史料編 中世』(1980) に所収。伊勢役銭は伊勢信仰に関係して徴収された費用負担、また佐八氏は内宮の神職であり御師 (栃木県史・小山市史・真岡市史・壬生町史)。

❉7: 下野国は正保・元禄郷帳、下総国は元禄郷帳・国絵図との対照を含む。
❉8: [中世〜織豊期] 延徳4年(明応元年,1492): 「下条之延嶋郷之内堀内」(多賀谷朝泰寄進状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、弘治2年(1556): 「延嶋之内」(結城政勝所領宛行状、同)。
❉9: 天正13年(1585): 「高橋之宮造営勧進之事、のふしま・につ川・高橋・やな・福ら・中河ら・川嶋并下郷」(結城晴朝朱印状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉10: 天正年間(1573〜1592): 「たか橋・のふしま・ふくら三郷へ、他のくわん進いれす、高橋の御さうゑい、いたすへく候也」(某黒印状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉11: 正保郷帳 (東野地誌) では「延島新田」。
❉12: [中世〜織豊期] 永徳2年(1382): 「中河原合戦」(烟田重幹着到状、小山市史 史料編 中世,1980)。
❉13: [中世〜織豊期] 戦国後期: 「高橋江進納」「上福羅鈴木給分之内」「中川原牛尾田給分之内」(結城政勝寄進状写、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)・同: 「上ふくら」「中かハら」(同)。
❉14: 現在の表記は「中河原」。
❉15: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下総国 結城郡 高橋郷 (和名類聚抄)、康正3年(長禄元年,1457): 「下総国結城郡上高橋郷」(結城成朝寄進状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉16: 享禄4年(1531): 「高橋・福良両村之内」(政直安堵状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉17: 戦国後期: 「貴寺之御寺領高橋郷」(貴寺 = 安穏寺、結城政勝書状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉18: 現在の表記は高椅神社と同じ「高椅」。
❉19: [中世〜織豊期] 天文25年(弘治2年,1556): 「福郎 法光坊」(結城政勝書下状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉20: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「たんま」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「多摩」(足利梅千代丸印判状)。
❉21: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下野国 都賀郡 高家郷 (和名類聚抄)、天文5年(1536): 「上郷」の「たけい」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「武井」(足利梅千代丸印判状)、文禄5年(1596): 「小山領武井村内」(結城秀康知行充行状写、小山市史 史料編 中世,1980)。
❉22: [中世〜織豊期] 明応3年(1494): 「下野国小山庄野田郷」(小山成長安堵状、小山市史 史料編 中世,1980)、天正5年(1577): 「野田」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「野田」(足利梅千代丸印判状)、天正3〜4年(1575〜1576): 「小山押領之内野田拘之分」の「野田郷」(古河公方家料所書立案)。
❉23: 明治12年(1879) 東野田村に改称、したがって対応する近代の大字は「東野田」。
❉24: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下野国 都賀郡 小山郷 (和名類聚抄)、ほか。
❉25: 天保郷帳では「古者小山町」と付記され、元禄郷帳では「小山町」。正保郷帳 (東野地誌) では「大谷田郷」。
❉26: [中世〜織豊期] 室町期: 享徳4年(1455): 「同四月十八日中岫江御出令供奉」筑波潤朝軍忠状写、群馬県史 資料編7 中世3 編年史料2,1986)、天文5年(1536): 「下郷」の「中くき」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「中久木」(足利梅千代丸印判状)、ほか。
❉27: 天文5年(1536): 「下郷」の「しとゝのや」(小山高朝伊勢役銭算用状写)。
❉28: 「巫鳥/鵐 (しとど)」は鳥の名前。「神鳥」は「巫」の代わりに「神」を用いているものと思われる。正保郷帳 (東野地誌) では左右に、元禄郷帳・天保国絵図では上下に「神」「鳥」を配した 1文字 (『嶋/嶌』『峰/峯』『崎/嵜』『略/畧』『群/羣』などと同様、意味に違いはない)。
❉29: 天保国絵図ではほかに「神鳥谷村之内」と付記された「神鳥谷新田」がある (天保郷帳・正保郷帳 (東野地誌) には含まれない)。
❉30: 天文5年(1536): 「下郷」の「いぬつか」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「犬塚」(足利梅千代丸印判状)。
❉31: 正保郷帳 (東野地誌) では「犬塚新田」。
❉32: 明治3年(1870) 犬塚村に編入、したがって直接対応する近代の大字は存在しない。
❉33: [中世〜織豊期] 永禄9年(1566): 「土塔本願仏聖房覚秀聖人」(小山秀綱修理銘、小山市史 史料編 中世,1980)。
❉34: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「下郷」の「東つかさき」「西つかさき」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「塚崎」(足利梅千代丸印判状)。
❉35: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「上郷」の「いて井」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天正5年(1577): 「下出井郷」(小山伊勢千代丸政種書状、小山市史 史料編 中世,1980)、ほか。
❉36: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「上郷」の「はちかた」(小山高朝伊勢役銭算用状写)。
❉37: [中世〜織豊期] 天正5年(1577): 「下郷」の「あまかや」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「尼賀谷」(足利梅千代丸印判状)、天正17年(1589): 「あまかひ之内」(結城晴朝寄進状、小山市史 史料編 中世,1980)、ほか。
❉38: [中世〜織豊期] 天正5年(1577): 「下郷」の「よこくら」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、天文23年(1554): 「小山領十一郷」の「横倉」(足利梅千代丸印判状)。
❉39: [中世〜織豊期] 文亀3年(1503): 「木沢之けん座役」(小山成長判物、小山市史 史料編 中世,1980)、天正5年(1577): 「きさワ」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、ほか。
❉40: 元禄郷帳では「古館田村」(または『古舘田村』) と付記されるが、正保郷帳 (東野地誌) では「飯田村」。
❉41: 明治12年(1879) 北飯田村に改称、したがって対応する近代の大字は「北飯田」。
❉42: [中世〜織豊期] 天文5年(1536): 「かやハし」(小山高朝伊勢役銭算用状写)、文禄5年(1596): 「結城萱橋村之内」(結城秀康朱印状写/高橋神社文書、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、同: 「結城領萱橋村内」(結城秀康黒印状/大輪寺文書、同)。
❉43: 明治9年(1876) 合併し萱橋村、したがって現在の地名は「かやばし」。
❉44: 現在の表記は「梁」。
❉45: [新田・分村] 正保郷帳 (東野地誌)・元禄郷帳には含まれない。
❉46: 正保郷帳 (東野地誌)・元禄郷帳では「礒部村」。
❉47: 正保郷帳 (東野地誌) では「𥿻坂村」。
❉48: [新田・分村] 正保郷帳 (東野地誌) には含まれない。
❉49: [古代〜織豊期] 承平年間(931〜938): 下総国 結城郡 結城郷 (和名類聚抄)、ほか。
❉50: [中世〜織豊期] 大永6年(1526): 「あふや瀬」(人見右京亮宛多賀谷家植知行宛行状、関城町史 史料編3 中世関係史料,1985)、弘治2年(1556): 「あふやせ」(結城氏新法度、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉51: [中世〜織豊期] 天正8年(1580): 「小田林郷簗民部少輔給分之内」(結城晴朝所領宛行状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、慶長3年(1598): 「結城領 小田林村之内」(結城秀康知行充行状、茨城県史料 中世編6,1996)、ほか。
❉52: 元禄郷帳・国絵図では「小田林村之枝郷」、天保郷帳では「小田林村枝郷」と付記される。
❉53: [中世〜織豊期] 天正14年(1586): 「こもりニおゐて」(結城晴朝所領宛行状写、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉54: 明治初期に小森村に編入されたと思われ、対応する近代の大字は存在しない。
❉55: [中世〜織豊期] 大永8年(享禄元年,1528): 「くほた郷之内おしま分之内」(結城政朝所領宛行状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、天正20年(1592): 「結城領内知行分」「中村 窪田内」(結城秀康宛行状、同)、ほか。
❉56: 天正20年(1592): 「結城領内知行分」「中村 窪田内」(結城秀康宛行状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉57: 近世末までに中村に編入されたと思われ、対応する近代の大字は存在しない。
❉58: [中世〜織豊期] 織豊期: 「さく乃や之内おふり給分」(結城晴朝寄進状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。
❉59: 明治19年(1886) 結城町に編入、したがって、対応する近代の大字は存在しない。
❉60: [中世〜織豊期] 天文25年(弘治2年,1556): 「上無」(結城政勝書下状、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、永禄7〜8年(1564〜1565): 「上山川之内山王内寺野・田間・かす□い・うへなし」(〜かすれい〜、中黒は筆者が補った、山川氏重等連署寄進状写、同)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「うへなし」(豊臣秀吉宛行状)。
❉61: [中世〜織豊期] 永禄7〜8年(1564〜1565): 「上山川之内山王内寺野・田間・かす□い・うへなし」(〜かすれい〜、中黒は筆者が補った、山川氏重等連署寄進状写、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)、天正18年(1590): 「下野国」(下総国) の「田間」(豊臣秀吉宛行状)。
❉62: [中世〜織豊期] 元亨元年(1321): 「下総国結城郡下方内毛呂郷」の四至牓示として「武井」(山河貞重寄進状案、結城市史 第1巻 古代中世史料編,1977)。