補編あとがき・補遺・付録
39. あとがきにかえて: 国界はいつまで使われたのか

地方区分としての「国(クニ)」は、近代に入っても公的に日常的に常用された。現在では都道府県にあたる部分には国(クニ) が使用され、たとえば「下総しもうさそうとり村」はそのまま「下総国相馬郡取手村」であり、これにどの府県 (のち道府県) の管轄下にあるのかを加えると「茨城県(管)下下総国相馬郡取手村」である。この「茨城県管下」「茨城県下」は茨城県の管轄下にあるという意味であり、はじめ府県は藩に代わる行政機関であって地方区分ではなかった。

明治維新後、新政府は幕府の直轄地のほか幕末の動乱を通じて没収した土地を「府」や「県」とする一方、残る大名領を「藩」と定義した上でそのまま管理させた (府藩県三治制)。その後、明治4年(1871) 新政府は藩を廃止してすべて県に改めたが (廃藩置県)、領域の変更をともなうものではなかったので、その時点では 3府302県もの領域が大小入り乱れて存在した。これを同年のうちに再編してひとまず 3府72県で完了したものの、その後も府県の再編は毎年のように繰り返された。現在とほぼ変わらない 1道3府43県に落ち着くのは明治21年(1888) のことであって、それまで府県は全国的・統一的な地方区分として機能するような状況になかった。

明治26年(1893) 神奈川県から東京府へ北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡 (いわゆる三多摩) が移管されると、ようやく府県の範囲は固定され、結果的には府県の規模と範囲は国 (クニ) と似通ったものになった。全国を分ける地方区分として、公的に府県を使用するようになるのはおおむねこの前後からである。

Fig.538 国郡表記の傾向

上図は、以下をキーワードとして官報を機械的に検索したものである※1

^ ※1: 同一官報内の出現回数に関係なく官報 (日単位) の数を集計した。識字率は NDLDCにおける OCR処理の精度や資料の保存状態に依存する。また、単純な文字列の検索であって「同国」や「同県」など異なる表現や文脈も考慮してしないため、数値そのものに意味はない。あくまでも統計的な傾向を見ることを目的とする。

明治20年代に入って府県による表記が優勢となり、明治30年を迎えるころには国(クニ) による表記は激減する。その後、明治の大合併にともなう登記等で国郡が載るケースが増えたか、若干の持ち直しがみられるものの、府県表記 8割に対して国表記 2割といった程度であり、明治末までに国表記はほぼなくなる。

もっとも地籍を取り扱う場面などでは国表記が散見され、その後も完全にはなくならない。なお、この推移からもわかるように明治政府 (新政府) に明確な方針があったようには見受けられない。

国(クニ) ではなく府県によって全国は分けられるという共通認識が形成され、日常的にも優勢になった時期は大正に入ってからと思われる。当然ながら地域差はあっただろうし、それ以上に世代間のギャップは激しかったと想像される。しかしこのころには実務上も国(クニ) の表記を扱う場面はかなり減って、さらに世代交代が進むにつれ、地図には相変わらず国界と府県境の両方があっても前者は歴史的なもの、あるいは互換性のために引かれている何かという程度にしかみなされなくなったのだろう。

なお『法令全書』に載る法律のなかで、明示的に国界が変更されているのは明治35年(1902) 3月10日付の法律第14号が最後で、これによって雲原村が丹後国から丹波国へ移された。したがって本書が国界が変動したとみなしているのも明治35年(1902) 3月10日までである。

実際にその変動がともなわなかった地域でも、国界に接する地域には興味深い事柄が多い。田口峠 (信濃・上野) や三池郡 四ケ村 (大牟田市 ちく・肥後) などの伝承や、本稿では対象外とした入会地をめぐる事例でもよしさいばん (なが周防すおう) やおおまた (せんかわ遠江とおとうみ駿河するが)・富士山麓 (駿河・甲斐)・浅間山麓 (信濃・上野) といった範囲が広いもののほか、てんちょう元年(824) 以前でやはり対象外のの広野河事件 (木曽川、美濃・尾張) や相模郷・東辺砥沢の問題 (甲斐・相模) なども含めて、機会があればいずれまとめたいとは考えている。