戦国期、常陸国 関城を根拠とする多賀谷氏が勢力を強めて南下し、下妻城を拠点に下総国へ領域を拡大し、両国にまたがった多賀谷領が成立した。しかし天正17年(1589) 多賀谷重経・宣家親子と三経 の二派に分裂し、慶長6年(1601) 関ケ原の戦い後、佐竹義宣に従った前者は没落 (重経)・退去 (宣家) を余儀なくされた。他方、結城秀康に従った三経は加増となったものの越前国 北庄 (現在の福井) へ移ることになった。
これによって当地の領域認識は曖昧化し、初期の国絵図にはその混乱がそのまま反映され、慶長9年(1604) の検地で確定する近世の常陸・下総国界は北へ移された。

詳細は『28.2.2. 下妻鬼怒川東流部』を参照。