ここでは、戦国期から織豊期にかけて発生したと推定される甲斐・信濃国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである富士見町東部について分析しています。

そもそもどこか?

変動の舞台は、現在の長野県 富士見町東部である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.118 富士見町東部 (甲斐・信濃国界): 天正11年(1583)
Fig.118 富士見町東部 (甲斐・信濃国界): 天正11年(1583)
天保郷帳・国絵図の村々
近世 信濃国 諏訪郡
  • 92. 木舟新田村※1※2
  • 93. 大池新田村※1
  • 94. 大沢新田村※1
  • 95. 金沢村※3※4※5
  • 96. 菖蒲沢村※6
  • 97. 柏木新田村
  • 102. 八ツ手新田村
  • 103. はらいざわ新田村
  • 104. 中新田村
  • 104a. 室内新田村※7
  • 105. やま神戸ごうど※8
  • 106. 栗生くりゅう新田村※9
  • 107. 瀬沢新田村※10
  • 108. たつざわ新田村
  • 109. 稗底ひえのそこ
  • 110. おっこと※11※8
  • 111. 小六新田村※12
  • 112. 高森村
  • 113. 池袋村
  • 114. 葛久保村
  • 115. 円見山つぶらみ※8
  • 116. せんだつ
  • 117. 小東村※13
  • 118. 森新田村※14
  • 119. しもつた※15※4※16
  • 120. 上蔦木村※15※4※16
  • 121. 田端村
  • 122. 烏帽子新田村※17
  • 123. じんだい
  • 124. 平岡村
  • 125. 机村
  • 126. 瀬沢村
  • 127. 芓木新田村※18※19
  • 128. 大平新田村※18
  • 129. 松目新田村※18
  • 130. 若宮新田村※18※20
  • 131. 木間村※21※22
  • 132. 横吹新田村※18
  • 133. 木戸口新田村※18※23
  • 134. 休戸村※24※25
  • 135. 花場新田村※18
近世 甲斐国 巨摩郡
  • 143. 下教来石しもきょうらいし※26
  • 144. 大武川村
  • 153. 上教来石村※26
  • 249. 小淵沢村※27

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保信濃国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

Fig.615 天保信濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.615 天保信濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
注釈

範囲

この地域が甲斐国だったということは古くから知られ、さまざまなかたちで現在まで伝わっている。しかし、直接の記録が残っているわけではないため、特に谷底平野をはさんだ東側 (八ケ岳側) における甲斐国の範囲、つまり信濃国との国界 (国境) についてははっきりしない。たとえば左下に示した地形図のように、立場川を国界とする部分はもっと長かった可能性もあり (バリエーションa)、釜無川に合流する直前 (瀬沢の手前) あたりまでだったという考え方 (バリエーションb) も存在する※1

Fig.199 富士見町東部 (甲斐・信濃国界): 天正11年(1583) バリエーションa
Fig.199 富士見町東部 (甲斐・信濃国界): 天正11年(1583) バリエーションa
Fig.617 富士見町東部 (甲斐・信濃国界): 天正11年(1583) バリエーションb
Fig.617 富士見町東部 (甲斐・信濃国界): 天正11年(1583) バリエーションb

八ケ岳の裾野は、近世に開発の手が及ぶまで長く原野として取り残されていた。いちおう諏訪社 (諏訪大社) の神域とされ、立ち入りは禁じられていたものの、逆にいえば居住や開墾によって明確に占有されていない、権利を留保しているだけの土地だった。国界は漠然と把握され、あるいはそもそも明確には定まっていなかったのかもしれない。

本稿で示した変動前の国界は、西側 (入笠山側) の国界をそのまま延長したものであり、以下の各説に相当する。

本稿が従った各説
史料内容
『諏訪史蹟要項 8 富士見村篇』(1955/1996)天文九年堺十八ケ村が諏訪領とならざる以前の甲信の境界
a、立場肘曲り―糠塚―神戸あらい坂―麦日向見通シ
b、立場肘典り―栗生の細尾迄
『下伊那史 第4巻』(1961)※2旧甲信国境は凡そ北、八ケ嶽連峯中の権現山より立沢川の谷に沿い、今の本郷・原両村境を下り、南、南原 (本郷村) 附近より入笠山を見通した線
『富士見村誌』(1961)入笠山の東に位する赤のら山の峯から、立場川の肘曲りを見通して、この二点を結んだ一直線を甲・信の境と定めていた

これは、そのまま釜無川水系と宮川水系 (諏訪湖へ向かう水系) の分水嶺であり、支配が決定したものではない境界は自然地形に依存するだろうという考えによる。以下に、谷底平野の地形が明確になるように、標高900~1,100メートルを強調して示す。標高900メートル以下と 1,100メートル以上の分解能はない。

Fig.119 富士見町東部 (甲斐・信濃国界): 天正11年(1583)
Fig.119 富士見町東部 (甲斐・信濃国界): 天正11年(1583)

これによれば、釜無川水系と宮川水系の谷底平野は回廊状に接続しているものの、わずかに高い地形が対峙する部分に分水嶺の存在を見て取れる。この分水嶺は、どちらの水系も尽きるところであって、水利に乏しく本来は農業に適さない原野である。村々の分布からも確かめられ、付近には江戸期になってようやく開かれた新田村しか存在しない。地形による境界としては、移動の制約になる高山帯や大河がたいてい想起されるが、どこにも属さない空白域も漠然とした幅広の境界である。そして八ケ岳の裾野にあってはさらに曖昧にはなるものの、絶対的に存在する分水嶺が国界として認識されていた、と考えるのが自然だろう。人工的に開削されることになる用水 (せぎ) もこの分水嶺を境にそれぞれの方向へ流れていくので、あるいは実際に裾野を利用する者たちには、十分認識されるものだったのかもしれない。

以下は立場川の谷を渡る立沢大橋と八ヶ岳 (左)、変動後の国界である釜無川を渡る新国界橋※3(中)、および国界の変動に影響を及ぼした諏訪大社 上社本宮の東参道 (右) である。

立沢大橋と八ヶ岳
立沢大橋と八ヶ岳
立沢大橋と八ヶ岳
新国界橋
新国界橋
新国界橋
諏訪大社 上社本宮 (東参道)
諏訪大社 上社本宮 (東参道)
諏訪大社 上社本宮 (東参道)
左: 長野県産業労働部 営業局『長野県魅力発信ブログ しあわせ信州』の『富士山・八ヶ岳ビュースポット』から引用
中: 『らんまるの街道歩きブログ』から許可を得て転載
右: Omairiの『諏訪大社 上社本宮の見どころ』 に投稿された写真をmichyさんから許可を得て転載
注釈

要因と経過

てんぶん10年(1541) 6月、武田はるのぶ (信玄) は父ののぶとらを追放し、翌年 6月には信州 へ侵攻を開始した。そして 7月には諏訪よりしげを滅ぼしたのち、たかとおよりつぐも後退させて支配下においた。さらに天文14年(1544) にはその高遠氏も降伏させ、天文17年(1548) までにほかの諸氏も排除した※1。この結果、諏訪は武田氏の領国に組み込まれ、その後 30年以上にわたってこの体制が続くことになる。しかしげん4年(1573) かわからの帰路で信玄が病死すると情勢は一変する。天正3年(1575) 家督を継承したかつよりは長篠の戦いで大敗、以降は勢力挽回を図るも周囲の包囲網に抗い切れず、天正10年(1582) 3月までに武田氏は滅びた。

武田氏滅亡後、甲斐・信濃の両国は一時的に織田信長の支配下に入った。しかし 6月に本能寺の変が起こると、在地旧勢力や徳川家康・北条うじなおら周辺勢力の動きが活発となり、諏訪では諏訪よりただ (頼重の従兄弟) が旧臣らに擁立された。頼忠は徳川と北条の間で揺れ動いたものの、最終的には徳川の配下となって天正11年(1583) 諏訪を安堵された※1。このとき、変動エリアもまた諏訪の一部として把握され、近世以後の甲斐・信濃国界は確定する。

具体的には、天正11年(1583) 3月28日付『徳川家康宛行状あてがいじょう※2で諏訪頼忠は家康から「信州諏方郡」を宛てがわれ、それを受けた頼忠は、天正12年(1584) 10月14日付『諏訪頼忠宛行状』※3で平井弖清右衛門に「蔦木内合五貫文」を与えた。この「蔦木」は、近世 かみつた村・下蔦木村を含む郷であって、すでに諏方 (諏訪) 郡に含まれていることがわかる。つまり天正11年(1583) に近世以後の甲斐・信濃国界は確定した。

注釈

「境方18か村」と「境川」

変動エリアに関係する地名として「境方18か村」と「境川」がある。

境方18か村

伝承によれば、武田信虎は娘・禰々を諏訪頼重へ嫁がせるにあたって「境方十八箇村」を化粧料として与えたといい、これによって当地が甲斐から信濃に移った理由が説明される。伝承はその性質上、そのままに受けとることはできない。しかし、以下のように伊勢神宮の御師も当地を「蔦木郷十八ケ村」と呼称し、かつては甲斐国だったと認識している。国界の変動を経験した特殊な地域として集合的に把握されていたのは確かといえるだろう。

信濃國蔦木郷18か村は、武田家の旧領なので、甲斐国同然に古くより御祈祷

信濃国蔦木郷十八ケ村ハ、武田御家之御旧領ニ付、甲斐国同前ニ古来ゟ御祈祷

甲斐国御檀家由緒略記

蔦木郷18か村については信玄公のころはその所領であったので

蔦木郷十八ケ村ノ儀ハ信玄公御代御領分ニ付

幸福出雲由緒書

上に示したのは、幸福家文書の『甲斐国御檀家由緒略記』※1と、同系統の天保12年(1841) 伊勢神宮の御師・幸福出雲が幕府に提出した由緒書※2である。幸福出雲は、伊勢神宮 (外宮) の御師の祓銘 (襲名されるもの) であり、城下に屋敷が与えられるほど武田氏の庇護を受けた※3。元治・慶応年間(1864~1868) 『山田師職銘鑑』※4によれば、甲斐の御師には幸福出雲のほか幸福ではじまる数名が含まれ、『甲斐国御檀家由緒略記』と幸福出雲由緒書は、その活動がかつて甲斐国だった蔦木郷18か村にまで及ぶ正当性をあらわしている。なお、江戸中期の『皇室・公卿・幕閣・大名の師職表』※4によれば、幸福出雲の受け持ちには郡山藩・黒川藩・三日市藩が含まれ、甲府藩 (廃藩) から移った柳沢氏との関係も維持された。

18か村の内訳は、江戸後期の国学者・小山清庸が『栗林換録』にあげたものによれば「乙事・田端・先達・池之袋・高森・葛久保・小東・円見山・立沢 (稗ノ底高ニ入)・上蔦木・下蔦木・机・平岡・神代・瀬沢・休戸・木之間・大片瀬」であるという※5。相当するエリアに含まれる当時の各村 (近世の各村) を列挙しているように見え、18という数字にも強い意味はないようだ。つまり、あとの時代の 18か村がかつてそうだったと示しているだけで、変動した時点の具体的な地名を数えたものではないのだろう。

「化粧料」については伝承以上でも以下でもない。そもそも時期が合わないし、「化粧料」として与えるには当地は広過ぎる。「領知」や「安堵」といった難しくてわかりにくいものを、「お姫さまのお輿入れ」という、きらびやかでわかりやすいものに置き換えて理解しようとした結果なのだろう。ほかにも三濃村の例 (『(参考) 県境の変動: 昭和3x年(19xx)』を参照) や、肥後・筑後国界の四箇村の例※6があって、元和元年(1615) 幕府直轄領から尾張藩領となった木曽でさえ、化粧料に結びつけられている※7

境川

境川 (堺川) は、まず『神使御頭之日記』※8には享禄元年(1528) および天文4年(1535) の出来事として以下のような記事がある。

八月廿二日ニ武田信虎堺ヘ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同廿六日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ、同晦日ニ神戸堺川一日ノ内ニ二度合戦候テ、朝神戸ニテハ諏方負候、晩堺川ニテ諏方打勝

神使御頭之日記: 享禄元年(1528)

武田信虎ト碧雲斎於堺川ニ参会、当社御宝モタセラレ、於堺川ニ御宝鈴ヲ被仰候」(中略)「信虎・碧雲両所ノ間ニテ神長申立ツカマツリナラシ申候、堺川マテ御宝御越候事往古ヨリ是始ニ候、彼川ノ北ノハタテナラシ申候

神使御頭之日記: 天文4年(1535)

これによれば、享禄元年(1528) 8月22日、武田信虎・諏訪頼満が衝突し、頼満は朝に神戸で負けたが、晩には「堺川」で勝ったといい、また天文4年(1535) には、和解にあたって「堺川」で参会し、このとき諏訪社のほうれいがその北の川辺まで持ち出され、両者の間で鳴らされたという。この「堺川」は、分水嶺付近を流れる松目沢と考えられており、当時の認識において境界付近を流れていたから、このように呼ばれたのだろう。

一方、この諏訪社が戦国期に認識した西側 (入笠山側) の境界認識とは別に、八ケ岳の裾野で江戸期に認識された境界として立場川が存在する。『長野県町村誌』には以下の各記事が存在する。

一名立波川 *中略* 昔甲信の境と云ふ。國界たるを以て境川と號く。中昔國境沿革して、甲六川を以て、甲信の界を定むと云ふ。

落合村: 境川

深志の城主小笠原長時諏訪賴茂、兩旗を以て甲州へ亂入す。甲信の境、瀨澤合戰と武田記に見へたり。

落合村: 古戦場

里老云、往古甲斐國巨摩郡たり。今の立場川甲信の境たり。天文年中本郡に屬す。

本郷村

本村古時、甲斐國巨摩郡に屬す。年暦不詳本郡に屬すと云ふ。

境村

落合村※9は瀬沢を含み、明らかに『甲陽軍鑑』の「甲信堺瀬沢合戦」の影響を受けている。本郷村※10も「天文年中」とあるほか、地理的に瀬沢に近いことからも同じだろう。境村※11は曖昧ではっきりしない。

次に『甲斐国志』には以下の記述がある。

立場川 (立端川) 以南、甲六川 (甲陸沢) 以北を里人は「南山裏」とも「界筋」ともいう。18村は高 1万石余で諏訪藩領 (諏訪因幡守領分) である。立場川 (端川、『立』欠) は、古くは「界河」といい、すなわち甲信の境である。武田信虎のとき信州に属したという。のちに開墾した村里を「十箇所新田」と称する。

タツ川以南カウロク澤以北ヲ里人南ミ山ウラトモ界筋トモ云十八村高一萬石餘諏訪因幡守領分也端川古ヘ界河ト云乃甲信ノ界是ナリ武田信虎ノ時信州ニ属スト後ニ墾辟セシ村里ヲ十箇所新田ト称ス

甲斐国志 第47巻

これらによれば、立場川は境川 (界河) と呼ばれ、またかつての甲斐・信濃国界だったという。ただ、これらは『甲陽軍鑑』の「甲信堺瀬沢合戦」の影響を否定できない。また、江戸期の八ケ岳裾野ではたびたび争論 (境論) が起こってそのたびに紛糾した。そのうち寛永年間(1624~1644) の争論では、結果として甲斐国 巨摩郡のぶちざわ村が甲六川 (変動後、つまり江戸期の国界) を超えた「境川」まで入会地の利用を認められ、立場川が境界に設定された。このときの取り決めは「正保の御証文」とか「御証文」と呼ばれ、各村にとっては絶対的なものとして扱われたという※12。結局のところ各村の認識は、立場川を生活に直結する重要な境界 (境川) として強く認識するところに、「甲信堺瀬沢合戦」が流入した結果、形成されたものではないのだろうか。

注釈

甲陽軍鑑と甲信境瀬沢合戦

甲陽軍鑑は、武田信玄・勝頼の事跡とされるものを借りる形式で、甲州流の兵法や武家の心構えなどを説いた軍学書である。家臣の高坂だんじょうまさのぶの著述か口述を原本として複数の人物が書き継ぎ、最終的に小幡かげのりが元和7年(1621) までに完成させたといわれているが、成立の経緯には諸説ある。

その第22ほん (『品』はエピソードの単位) によれば、天文11年(1542) に、「甲信境」の「瀬沢」で合戦があったという。

Fig.635 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.635 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)

① 22品 甲信さかい せさは峠合戦の事

② 廿二品 甲信さかいせさは合戦乃事

① 廿二品 甲信サカイせさ𛂞峠合戦の事

② 廿二品 甲信さ𛀚ひせさ𛂞合戦乃事

甲陽軍鑑 第22品①②
Fig.709 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.709 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)

③ 甲陽軍鑑 品第22 甲信境せさは合戦之事

④ 天文11年壬寅みつのへとら2月中旬に信濃しなのくに大身しゆかさはらよりしげむらかみよしきよ殿とのことごとく合申、甲州武田晴信公退たいいたすべきとの評儀ひやうぎ乃事、かうへきこえ

⑤ 敵方は四人の大将うちよりて、信州甲州のさかいなるせざわにぢん取て三日むまをやすめ

⑥ せざは合戦とは是也、信玄公22歳の御時なり

③ 甲陽軍鑑品㐧廿二 甲信境せさ𛂞合戦之事

④ 天文十一年壬寅ミツノへトラ二月中旬𛂌信濃シナノクニ大身シユカサハラヨリシゲムラカミヨシキヨ殿トノコト〱ク合申甲州武田晴信公、退タイい𛁠𛁏べきとの評儀ヒヤウギ乃事カウへき𛀸え

⑤ 敵方𛂢四人の大将うちよ𛃶て信州甲州のサカイなるせざわ𛂋ヂン取て三日ムマをや𛁏め

⑥ せざ𛂞合戦と𛂞是也信玄公廿二歳乃御時𛂂り

甲陽軍鑑 第22品③~⑥

また、第24品によれば、天文13年(1544) 2月に信玄は頼重を降参させ、和議を結んで「甲信は蔦木切りになり」になった (甲斐・信濃の国界は蔦木付近になった) という。

Fig.637 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.637 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)

① 天文13年甲辰きのえたつ2月に晴信公、信州諏訪へ打越給ふ

② 3月、晴信公、御かヘぢんなされ、さて又諏訪頼茂とはやうあり、甲信はつたききりになり

① 天文十三年甲辰キノエタツ二月𛂌晴信公信州諏訪へ打越給ふ

② 三月晴信公御カヘヂンなさ𛄀さて又諏訪頼茂と𛂣𛃟うあり甲信𛂣つ𛁠きき𛃶𛂌なり

甲陽軍鑑 第24品

しかしこれは史実とはいえない。天文11年(1542) 6月に諏訪へ侵攻し、7月に頼重を滅ぼした、というのが信頼できる史料に基づく経過である。このほか第22品では、晴信が信虎を追放した時期を天文7年(1538) 3月としているが、実際には天文10年(1541) 6月である。また、晴信と頼重との交戦は信虎の追放直後に発生し、その後繰り返されたというが、そのような事実を一次史料から確認することはできない。

このように『甲陽軍鑑』が語る歴史には、一次史料とは合致しない部分が少なくなく、叙述部分については物語 (軍記物) と捉えたほうが適切である。武家の心得や、信玄・勝頼の治世を通じてそれがどう実践され、教訓となったのかを伝えるために、また読者の興味を引き付けるために構成されたのだろう。他方で、あるいはそれゆえ、『甲陽軍鑑』は知識層ばかりでなく、一般の読者にも広く受け容れられた。歌舞伎や浄瑠璃の題材にされ、諸文芸にも影響を与えたといい※1、以下のような絵入写本 (奈良絵本) も現存する。

Fig.638 甲陽軍鑑・江戸中期の絵入写本(奈良絵本) (部分・WA-32)
Fig.638 甲陽軍鑑・江戸中期の絵入写本(奈良絵本) (部分・WA-32)

変動エリアの各村 (境方18か村) に「甲信境瀬沢合戦」の記憶が残るのは『甲陽軍鑑』からいわば逆輸入されてしまったものと考えたほうが自然だろう。瀬沢付近には「血ケ原」や「九ツ塚」といった、この合戦に関連付けられた地名が残っているというが※2、それも同様といえる。第22品の舞台が瀬沢に設定されたのは、立場川が釜無川に合流する複雑な地形にあって、かつ境界といわれても不自然でない地点だったからだろう。甲州の視点でいえば、勢いよく下ってくる相手 (諏訪) を迎え撃つ構図であり、劇的な展開を想像できる。

『甲陽軍鑑』が語る物語は現代の感覚でも十分に面白い。それは生き生きとした文体による劇的な展開だけでなく、読者をいつの間にか教えへと導く、巧みな語り口と説得力に負うところが大きい。また、戦国期の空気感を色濃く反映した描写は貴重であり、事実誤認の可能性に留意すれば、当時の武士の思想や文化を知る上で貴重な資料といえる。

注釈

旧国界の諸説

変動前の甲斐・信濃国界は、範囲で言及したように東側 (八ケ岳側) で特に曖昧であり、同じく「バリエーションb」として示したように、立場川の大部分を国界とする考え方もある。また、そもそもの観点が異なれば、まったく違う境界が導出されるのは当然であり、正解がない以上、どれも正しいし、どれも誤っている。もちろん本稿もこれを免れない。

ひとつ論考を加えておけば、立場川~釜無川とする考え方※1は少なからず問題をはらんでいないだろうか。この考え方には、変動後の国界が甲六川~釜無川であることを念頭に、変動前の国界も河川であったに違いない、またその河川も境川と呼ばれるに相応しい大きな流れでなければならない、という固執を感じてしまう。上空高くから見下ろしたような視点といい、河川の名称に不整合はないという仮定の潜在といい、どうも近現代の知見を排し切れていない歪みもある。

やはり範囲で言及したように、どこにも属さない空白域も漠然とした幅広の境界である。そして付近の小さな流れは目印として境川と呼ばれるだろうし、それは国界が曖昧であればなおさらだろう。境川にふさわしい河川が流れているから国界が定まるばかりではない。そして河川の名称は部分的・一時的であって、また異なる時期の断片的な描写を無理に結びつける必要もない。

注釈

補足

補足として、関係する地名の検証を載せておく。

荒井坂・洗坂

「荒井坂」は、文政8年(1825) 裁許の山論に糖塚・三本栂・立場川臂曲りとともに登場する地名で※1、別の争論 (桑畑一件) では「洗坂」と表記される。『富士見町史 上巻』(1991) には「洗坂」として、国道20号の「富士見パノラマリゾート入口」交差点付近の旧甲州街道入口が写真として示され、同地点から峠 (原の茶屋) までの急坂が洗坂なのだろう (左下)。御射山神戸村絵図※2にも付近の甲州街道脇に「字洗坂」という地名がある (右下)。

Fig.556 富士見村図・富士見町史抜粋
Fig.556 富士見村図・富士見町史抜粋
Fig.554 明治初期長野県町村絵地図大鑑 4 南信篇(1985)NDLDC#12672355 所収「御射山神戸村」(#667)
Fig.554 明治初期長野県町村絵地図大鑑 4 南信篇(1985)NDLDC#12672355 所収「御射山神戸村」(#667)

糖塚 (糠塚)

「糠塚」は、『富士見町史 上巻』(1991) には「瀬沢新田原に設けられた糠塚」とあって、瀬沢新田村の西の原に築かれた境塚のひとつと思われる。『富士見村誌』(1961) などでは「糖塚」と表記されている。地名で使用される文字としては「糖」(あめ/トウ) よりも「糠」(ぬか/コウ) のほうが明らかに多いが※3、どちらにしても現況はわからない。

三本栂

「三本栂」は、立沢村絵図※2(左下) にある「字三本栂」のこと、またはそこに実際に存在した栂 (つが/とが) の木のことだろう。『富士見町史 上巻』(1991) でも略図上に相当する位置が示されている。一部「三木栂」とあるのは誤字だろう。

アカノラ山・麦日向

「アカノラ山」(赤のら山) は、富士見パノラマリゾートのゴンドラ終点付近を頂上とする山である (右下)。また「麦日向」は、「桑畑一件」で総称される江戸後期の争論で登場する地名であり、『富士見町史 上巻』(1991) はこれを「右側のゲレンデの頭頂部」としているので、アカノラ山頂上付近を指す地名とみられる。

Fig.553 明治初期長野県町村絵地図大鑑 4 南信篇(1985)NDLDC#12672355 所収「立沢村」(#667)
Fig.553 明治初期長野県町村絵地図大鑑 4 南信篇(1985)NDLDC#12672355 所収「立沢村」(#667)
Fig.636 富士見村図・富士見町史抜粋
Fig.636 富士見村図・富士見町史抜粋

肘曲り (臂曲り)

「肘曲り」(ひじ曲り) は、立場川が西から南へその流路を変える付近を指す地名と思われる。立沢 (近世 立沢新田村) 集落の上流部であり、この付近から谷が広がって人の営みも観察され、また人口の分水路 (せぎ) が両岸へ放射状に伸びている。

細尾

「細尾」は、松目沢の北側の尾根のひとつである。複数の争論にあわわれる地名であり、目印として広く通用していたようだ。『諏訪藩主手元絵図』の「御射山神戸村 栗生新田」の左端 (南端) と「木之間村 大平新田 若宮新田 松目新田 横吹新田」の右端 (北端) にも記載されている。

Fig.555 「御射山神戸村 栗生新田」「木之間村 大平新田 若宮新田 松目新田 横吹新田」(部分・諏訪藩主手許絵図(1985) 所収)
Fig.555 「御射山神戸村 栗生新田」「木之間村 大平新田 若宮新田 松目新田 横吹新田」(部分・諏訪藩主手許絵図(1985) 所収)

シラサレ山

国道20号の茅野市コミュニティバス・木舟入口バス停付近から西を向くと、『諏訪史 第3巻』(1954) の写真「しらざれ城址」と同じ山が見える。宮川の曲流部が山をえぐるような地形であり、確かに山城に向いている。

注釈

データシート

データシート (富士見町東部: 甲斐・信濃国界)
変動地域富士見町東部
要因戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認
曖昧化の時期戦国期~織豊期
変動の確定時期天正11年(1583)

更新履歴

内容

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  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

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  • 『国絵図と国界』の一部として追補。

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  • 同、追補。

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  • 同、追補。

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  • 同、新規作成。