ここでは、戦国期から織豊期にかけて、さらに近代に入って発生した加賀・越前国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである白山麓十八箇村について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、石川県南東の手取川上流域、白山の西麓である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。
天保郷帳・国絵図の村々
この地域では、天正12年(1584) と明治5年(1872) の二度、加賀・越前の国界 (国境) が変動した。まず、戦国期から織豊期にかけての動乱のさなかに越前が加賀を侵食し、国界は北へ動いた (左)。しかし、明治維新後の混乱期には、今度は加賀が越前を押し返すように国界は南へ動いた (右)。つまり、左では淡紫色が天正12年(1584) の変動前かつ明治5年(1872) の変動後の加賀・越前国界、濃紫色が天正12年(1584) から明治5年(1872) までの国界である (右では濃淡がこの逆)。『天保越前国絵図』で示せば、以下のとおり。
なお、変動エリアは東谷 (牛首谷)・西谷 (丸山谷)・尾添谷に分けられ、このうち変動したのは東谷と西谷である。以下は 3つの谷とそれぞれに所属する村の一覧である。
| 谷 | 村 | 備考 |
|---|---|---|
| 東谷 (牛首谷) | 島・牛首・下田原・鴇ケ谷・深瀬・釜谷・五味島・ 二口・女原・瀬戸・風嵐 | 牛首川の谷筋。ただし瀬戸村は地形的には尾添谷にある。牛首川は、手取川本流の最上流における別称。 |
| 西谷 (丸山谷) | 須納谷・白山新保・杖・丸山・小原 | 大日川の谷筋。大日川は手取川の支流。 |
| 尾添谷 | 尾添・荒谷 | 尾添川の谷筋。尾添川は同じく支流。 |
注釈
要因と経過
同じような変動を経験した例には伊師がある。どちらも本来の国界が分水嶺であり、河川の上流部だけが異なる水系の領域に組み込まれ、そのまま固定された。また、どちらも江戸期はそのままに経過したものの、近代を迎えて廃藩置県とその後の府県再編のなか、県境に連動して国界も変更された。この結果、伊師は播磨国に戻り、当地は加賀国に戻ることになった。しかし、伊師ではもともと曖昧だった国界が古代から中世にかけて、いわば「いつの間にか」変わってしまい、それが明治中期に郡制の施行にともない、行政上の不便解消のために是正されただけである。一方で、当地では動乱のさなかに奪い取られたことに加え、近代の変動も維新直後ともいえる明治初期に発生したことにおいて、経緯も経過も大きく異なっている。
柴田勝家の侵攻 (織豊期)
室町期から戦国期にかけて、浄土真宗 (真宗) 本願寺派の門徒は組織を形成し、近畿・北陸・中部の各地で支配者に対して武力蜂起した (一向一揆)※1。特に加賀国では、長享2年(1488) 守護の富樫政親を倒して門徒みずから国を経営する体制を確立、内紛や変質を経験しながらも、長年にわたって独立を維持した。しかし、天正年間(1573~1592) に入ると、織田信長の猛攻によって各地の一揆は壊滅し、主導的な役割を果たしてきた石山本願寺も籠城戦に追い込まれるなど、周辺状況は悪化していった。天正3年(1575) には、信長によって加賀南道の一揆も制圧される。さらに天正7年(1579)、柴田勝家と佐久間盛政 (勝家の甥) が越前から本格的に侵攻し、次々と拠点を攻略していった。
同年 7月、盛政と柴田勝政 (盛政の実弟、勝家の養子) は、谷峠を越えて手取川最上流域へと侵入する。これに対し、在地勢力の加藤藤兵衛が降服したため、盛政はこれを受け容れた。加藤には東谷・西谷の継続支配が許され (安堵)、この結果、東谷・西谷の 16村は柴田勝家の所領へと組み込まれた。
勝家の越前国支配は天正11年(1583) はじめまで継続した。しかし、天正10年(1582) 6月の本能寺の変と、その後の清須会議を経て秀吉との対立が激化、天正11年(1583) 4月に本格的な戦闘へ発展すると (賤ケ岳の戦い)、勝家は敗れ、北庄で自害した。佐久間盛政も敗走中に捕らえられ、殺害されたという。
勝家の滅亡後、越前国 北庄には丹羽長秀が入って、天正12年(1584) に豊臣政権下での検地 (太閤検地) が実施された※2。このとき、柴田勝家以来の領域認識がそのまま国郡に反映され、加賀・越前の近世における国界は確定した。『越登賀三州志』※3は、これを以下のように説明している。
柴田勝家越前の主たる時、其の甥佐久間盛政、天正三年の頃加州の谷峠 (加・越分界の地。属大野郡) より踰えて働き入るに、石川郡吉野邑等八邑不從之。(八邑とは中宮・木滑・市原・瀨浪・佐良・吉野・尾添・荒谷、是也 *割註後略*) 能美郡風嵐等十六邑は從之、以來勝家領となり、同十一年勝家北庄に亡ぶる後も猶越前に屬すればなり。(秀吉公勝家を伐ち、丹羽長秀に越前を賜ふ時、秀吉公檢地を命ず。長秀白山下十六邑をも共に檢地して、高六十八萬二千六百五十四石の內十六邑を高辻には二百三十石五斗五升二合に極り、此の時專ら越前大野郡と唱ふと也。去れば此の時古制加・越の國界を失ふに似たり *割註後略*)
また『白山下御公領等之覚書』※4も、同様の内容を伝えている。
柴田勝家越前ニ鎮タリシ時、其甥佐久間玄蕃屢越前谷峠ヲ越テ加州ヘ働ラク、此時十六邑ハ従カヒシヨリ、自ツカラ越前ニ属スルナルヘシ、勝家亡テ丹羽長秀コレヲ領ス、此時秀吉公ノ命ヲ奉シテ越前国ヲ検地スルニ、此十六邑ニモ及フ、共ニ打立六十八万二千六百五十四石、内十六邑ノ高辻ハ、二百三十石五斗五升二合ニ極マリ、此時越前大野郡ト唱フル由
なお、天正7年(1579) 7月の勝家侵攻時、尾添谷がこれを阻んだ経緯は伝わっておらず、正確にはわからない。しかし、尾添谷 (近世 尾添・荒谷の 2村) は、石山本願寺降服後も手取川の下流側に位置する村々 (近世 吉野・佐良・瀬波・市原・木滑・中宮の 6村) とともに抵抗を続け、近世の記録や伝承によれば、天正10年(1582) 3月に徹底的な攻撃を受けて殲滅されたという。また村々にはその後 3年間無住だったとも伝わる。この経過から考えると、東谷・西谷と尾添谷の間に境界があるという認識は、変容する暇も与えられないまま、固定されてしまったというのが実態なのだろう。
一向一揆
一向一揆とは、浄土真宗 (真宗) 本願寺派の門徒による組織化された武力蜂起・闘争、およびその集団の総称である。文明6年(1474) から天正8年(1580) までの一世紀にわたって、僧侶や門徒の農民が在地の小勢力と連合し、荘園領主や守護大名、戦国大名などの支配者に対抗した※1。一方で、その開始を、近江国で起きた史上初めての一向一揆とされるの金森一揆 (金森合戦) の文正元年(1466) とする場合や、終結を加賀の尾添・荒谷・吉野・佐良・瀬波・市原・木滑・中宮の 8村 (荒谷を尾添に含めて数える場合は 7村) が殲滅された天正10年(1582) とする場合もある。
上に示したうち、iは鳥越城、iiは二曲城であり、ともに最後の抵抗の舞台となった城である。
白山麓十八箇村の成立と国界の曖昧化 (江戸期)
明暦元年(1655) から寛文8年(1668) にかけ、東谷の牛首村・風嵐村と尾添谷の尾添村との間で、「白山争論」※5の再燃を端緒とする争いが発生した。東谷 (および西谷) は越前国 大野郡であり、当時は 16村のすべてが越前藩の預かり地、後者は加賀国 能美郡であり、尾添・荒谷 2村とも加賀藩領である。
この争いは最終的に越前藩と加賀藩の対立 (または松平家と前田家の対立) へと発展して、最終的には江戸幕府の裁許を仰ぐ事態に至る。幕府の判断は、越前藩については預かりの解除、加賀藩については替え地による収公だった。この結果、18村のすべてが幕府の直轄支配へと移行し、「白山麓十八か村」として集合的に把握されるようになる。以後、この 18村の国郡は曖昧化の道をたどることとなった。
曖昧化の要因としては、まず、中世的な領域認識から脱却できないまま「白山麓十八箇村」として集合的に把握されてしまったことがあるだろう。そして、この「白山麓十八箇村」が加賀・越前にまたがる広域地名として定着したことで、なおさらこの地域の国郡やその境界をはっきりしないものに変えていった。また、幕府直轄の「御領」になったことも影響したと思われる。この「御領」の在地支配者層はさまざまな理由から特権意識を持ちやすく、白山麓十八箇村の当事者たちにおいては「国郡を超越する存在へと昇華した」とまで錯覚されたのかもしれない。
はじめ、たとえば元禄7年(1694)『御成箇可納割付状』※6に「白山麓丸山村」とあるように、本来の国郡の代わりに「白山麓」を冠称することで曖昧化は進行した。ただし、元禄18年(1705)『皆済目録』※7には「越前国大野郡白山麓 丸山村」ともあって、国郡の表記が完全に省かれていたわけではない。
転機は「加賀・越前国白山麓」 (『越前』『加賀』の並記に『国白山麓』が続く) という冠称の登場にあるようだ。宝暦6年(1756)『加州領への売物正金支払願』※8には「加賀・越前両国白山麓公料拾八ケ村」とあり、この文書では、18村を代表する牛首村の十郎右衛門は、幕府へ提出する諸書類にも同じように書き上げてきた (『御公儀様へ差上候諸書物茂加賀・越前両国白山麓拾八ケ村と書上来申候』)と明言している。つまり、この表現はより以前から実務上存在していた。以降、この表記は類似するものも含めてきわめて多くなる。
さらに、この在地における表は天保郷帳にも波及し、『天保加賀国郷帳』『天保越前国郷帳』では18村のすべてが統一的に「越前・加賀白山麓」を冠称している。つまり、ついに公称化してしまったわけである。もっとも、『天保加賀国郷帳』には正しく尾添谷の 2村が含まれ、『天保越前国郷帳』にも正しく東谷・西谷の 16村が含まれている。したがって、これらはあくまでも名称の問題である。当然ながら、支配は国郡村のマス目をどの色で塗りつぶすかの問題であり、それが「御領」となって、また「加賀・越前国白山麓」を冠称しようとも、マス目自体の国郡村は勝手に変わるはずもない。
しかし、この整理がすべてに行き渡っていたかといえば、実態は別の問題で、白山麓十八箇村を統轄する本保陣屋 (代官所) の役人ですら、正しくは理解していない。文化2年(1805)『白山麓の唱に付十郎右衛門書上』※9によれば、「本保御役所」の役人は「白山麓」をそれ自体が国郡に代わるものと誤認した上で「なぜ変わったのか」と十郎右衛門に問い質している。これに対する十郎右衛門の回答もかなり要領を得ないが、それは彼の中に構築された論理でどうにか説明しようと四苦八苦していたからかもしれない。いずれにせよ、おそらくこれが一連のすべてを物語っているのではないだろうか。
一「白山麓の尾添村と荒谷村の二ケ村については、 元禄年間までは加賀国能美郡であったのに、その後どういった理由で白山麓と呼ぶようになったのか、これを確認できる文書類があるのであれば、残らず持参するように」との仰せ付けがございましたので、以下のとおり献上申し上げます。
一その両村についてでございますが、以前は加賀の御領分で土地は能美郡にございましたところ、寛文の年号になる前に白山の件について、尾添村と牛首・風嵐との双方の間で争いになり、その際、加賀・越前両方の御殿様から幕府様へ (争論について) 申し上げられまして、その際、白山は幕府様へ召し上げられまして、その際、尾添・荒谷両村は白山ともども御公料 (御領) となりまして、つまり寛文八年よりは、御代官杉田九郎兵衛様の御支配となったのでございます。そういうわけなのですが、これら両村はもともと加賀国能美郡にございましたので、御領となりました後も、以前から呼び慣わしていた能美郡と、しばらくの間はそのまま呼んでいたのではないかと。そもそもは、白山麓十八ケ村については、以前は加賀領でしたので、土地・郡は加賀能美郡でございましたが、天正年間に越前になってしまいましたので、今となっては郡は (越前国の) 大野郡にございます。そういう事情であるところ、どのような書物でも十八ケ村のほかに白山麓と名乗る村はありませんので、郡の代わりに白山麓と書いておけばわかるものですから、すべて十八箇村は白山麓と書いておけばよくわかるということで、前記の (尾添・荒谷の) 二ケ村も十八ケ村の一部ですから、白山麓と郡の代わりにと書いてきたのでございます。以前より土地は能美郡との伝達をもって、寺法は能美郡と名乗っております。またさらに、幕府様から白山麓だけではなく郡を書くようにと仰せ付けられることがございます場合には、それは大野郡白山麓でございます。
一白山麓尾添村・荒谷村弐ヶ村之儀者、元禄年中迄ハ加賀國能美郡ニ有之候処、其後何々之訳を以白山麓と唱候哉、右見合ニ可相成書物類有之候ハヽ不残持参いたし候様被仰付、左ニ奉申上候
一右両村之儀、先年者加賀御領分土地能美郡ニ御座候処寛文年号前白山之儀ニ付尾添村と牛首・風嵐、此両村申分ニ相成、其節加賀・越前両御地頭ゟ御公儀様江被仰上其節白山御公儀様江被為召上、其節尾添・荒谷両村白山と一集ニ御公料ニ相成、則寛文八申年ゟ御代官杉田九郎兵衛様之御支配ニ相成申候、然所右両村前々加賀国能美郡ニ御座候得者、御公料ニ相成候而も前々ゟ相唱候能美郡と暫相唱候哉ニ候へ共、元来白山麓十八ケ村之儀者先年加賀領ニ候得者、土地郡者加賀能美郡ニ候得共、天正年中ニ越前江罷成候得者、今ニ而者郡者大野郡ニ御座候、然処何書物ニ而も十八ケ村之外ニ白山麓と唱申村方無之、郡之替りニ白山麓と書候得者相分り申ニ付、都而十八ケ村者白山麓と書候得者能相分り申ニ付、右弐ケ村も十八ケ村之内ニ候得者、白山麓と郡之替りニ書上来申儀ニ御座候、前々ゟ土地能美郡之伝達を以、寺法ハ能美郡と唱申候、且又御公儀様ゟ白山麓斗ニ而者相成不申、郡を書候様被仰付事御座候而者、大野郡白山麓ニ而御座候
廃藩置県の混乱 (明治初期)
発端は「本保県」が設置された際の書類にあった。本保県は、明治3年(1870) 12月22日から明治4年(1871)年11月20日まで一時的に存在した県であり、越前国の幕府領と福井藩預り地を合わせて成立した。その際の引継書類として明治3年(1870) 12月付『別紙仮高帳』※10があり、これには本保県へ管轄が継承されるべき村の一覧が国郡別に記載され、白山麓十八箇村のうち東谷・西谷 16村が所属する「越前国大野郡」も項目として存在する。しかし、その「越前国大野郡」に 16村は含まれず、これとは別に存在する「越前国白山麓」に記載されている。しかも、この「越前国白山麓」には、本来加賀国能美郡である尾添谷の 2村、尾添村と荒谷村まで含まれている。原因が江戸期の混乱と国郡の曖昧化にあるのは明らかだろう。
その後、本保県 (旧・本保県) は、明治4年(1871) 12月3日付『本保県白山麓地所引渡ノ儀ニ付伺』※11で、白山麓十八箇村の処遇を早急に決定するよう大蔵省へ催促した。
これによれば、金沢県 (現・石川県の前身のひとつ) と本保県は、白山麓十八箇村を加賀・越前で分割することで合意済みであり、この区分に対応させて管轄についても金沢・本保両県で分割することを内々には決めていた。ところが、上申した大蔵省からは審議中である旨の回答ばかりで、そうしたなか本保県は廃止されることになってしまった。これを背景に、審議を急ぐとともに、十八箇村を新設されるどの県へ引き継ぐべきか指示を下すよう求めたのが、この伺い書の主旨である。本保県としては、未決定による実務上の問題ばかりでなく、十八箇村の持つ性質から生じかねない大混乱をも危惧していた。
先般別紙の議案をもって、白山麓十八ケ村を加賀・越前で分割する件を大蔵省へ上申いたしましたことについては、かねて当県大参事・熊谷直光が金沢県の内田大参事と合意し異議はありませんでしたので、村民を説得し、また民心も時が経てば変わるだろうという判断から、断固としてそのように決定してほしいとお願い申し上げた次第です。ところが、国郡訂正の件についてはただいま審議中であるという旨の返答をいただいたままとなっております。そうこうするうちに、この度、県制を改める命令 (第一次府県統合) が下され、当県の管割のうち越前国の分については、福井県および敦賀県へ引き渡すようにとの仰せを、これまた承りました。そこで問題となるのが、前述の越前加賀白山麓十八ケ村の件です。この地域は、これまで国郡の呼称があったわけでもなく、どの国郡に所属するでもない、まったく古来未曾有の一集落でございます。そのため、今回この白山麓という地域を整理し、どの国の区域でどの県の管轄なのか、という区分をはっきりしていただかなければ、住民たちは右往左往し、もともと愚直な農民たちのことですから、動揺があれば急激に大混乱に陥るのではないかと危惧しております。さらに、引き継ぎについても (十八ケ村を本保県から) どちらの県へ申し送ればよいのでしょうか。現在はただでさえ社会の転換期であり、極めて重大な局面であります。このように、次から次へと重ねて細々と内情を訴え立てることは誠に恐縮の極みではございますが、伏してお願い申し上げますので、どうか一刀両断の明確なご指示をいただきたく、これについて、なにとぞ (大蔵省の上層部へ) お取り次ぎいただきますようお願い申し上げます。
先般別紙議案ヲ以テ白山麓十八ケ村加越分割ノ儀大蔵省へ上申致シ候儀ハ兼テ當縣大參事熊谷直光金澤縣ニ到り同縣內田大參事ニ通同シ無異議次第ニ付村民ヲ説諭シ且常情推遷スルヲ以テ斷然奉懇願候儀ニ御坐候然ルニ國郡訂正ノ儀ハ即今御詮議云々ノ御附紙ニテ稟承罷在候處今般更始ノ縣制被 仰出則當縣管内越前國ノ分ハ福井縣敦賀縣へ引渡シ可申旨是亦奉畏承候依テハ右越前加賀白山麓十八ケ村ノ儀ハ是迄國郡ノ稱呼アルニアラス又何レノ國郡ニ附属スルニモ無之全古來未曾有之一部落ニ付今般右麓名ヲ條立シ何國ノ區域何縣ノ統轄ト部分判然被 仰無之テハ衆情顒々素ヨリ蠢愚ノ農民動モスレハ急猝方向ヲ失ヒ候ハンカ尚引渡ノ儀モ何レヘ申繼可然哉方今事機間不容易秋層疊申詳恐懼不尠候へトモ仰キ願クハ一刀兩斷ノ御指示被成下度此段宜御執奏奉願候
しかし、大蔵省の審議はまったく進まなかった。旧・本保県は、敦賀県に断りを入れた上で、中央の決定が下りるまでの一時的な処置として、白山麓十八箇村を足羽県 (明治4年(1871) 12月20日に福井県から改称) へ仮に引き継いだ※12。
当然ながら、これによって根本的な問題が解決するはずもない。それどころか、行政の動きを察知した牛首村の山岸十郎右衛門らが行動を起こし、足羽県に対して十八箇村を分割しないよう陳情した。この十郎右衛門は、維新後も引き続き十八箇村の在地支配において主動的な立場にあり、かつて「両国白山麓」の表記を用いて曖昧化の一端を担った江戸期の十郎右衛門と同一の家系にあたる人物である。なお、この陳情では、山岳地帯の過酷な自然環境を生き抜くためには十八箇村の互助が不可欠であると主張されている。しかし、これは自身の支配権や既得権益を守ろうとした十郎右衛門の方便だろう。
これを受けた足羽県は、決定を急ぐよう重ねて大蔵省に上申した。明治5年(1872) 4月3日付の『白山麓十八ケ村ノ儀ニ付伺』※13において、足羽県は十郎右衛門の陳情内容をほぼそのまま踏襲し、十八箇村を一括して石川県 (同年2月に金沢県から改称) か足羽県のどちらかの管轄にすることを求めている。
越前国白山麓十八ケ村の件については、元本保県より国郡名称等の問題は (国へ) 伺っているということで、明治4年 10月に県 (足羽県) が新設され、同県 (元本保県) から郷村を引き渡された際も、その十八ケ村については、「伺い中につき仮に引き渡す」という旨の申し送りがありました。そういった状況のなか、これについてその十八ケ村では不安が生じているということで、今般、各村総代を通じて、これまでどおりひとつの郷の村々として据え置き、一村たりとも分割されることのないよう懇願してまいりました。そこで過日、元本保県へも掛け合いましたところ、別紙のとおりの返答書が送られてきました。十八ケ村を分割してしまいますと難渋すると思われ、かつ今後民衆の心情がどの方向へ向かうのかに関係することですから、あれこれとご考慮いただき、石川県へでも、また当県 (足羽県) へでも (どちらでもいいので、とかにかく) 管轄について至急、ご指示いただきたく、これについてお伺い申し上げます。
越前國白山麓十八ケ村之儀ニ付元本保縣ヨリ國郡名稱等ノ事件伺置候由辛未十月新置縣被仰出同縣ヨリ鄕村引渡ノ節右十八ケ村ノ儀ハ伺中ニ付假に引渡候旨ヲ申送候然ル處此儀右村々ニ於テハ疑惑致居候由ニテ今般各村總代ヲ以従前之儘一鄕村々ニ被据置一村タリ共分割相成不申樣切々申立有之候過日元本保縣ヘモ及掛合候處別紙ノ通答書申越候十八ケ村分割相成候テハ難澁之趣有之且自今民心ノ方向ニ關係候間夫是御照察ノ上石川縣ヘナリ又當縣ヘナリ管轄の儀至急御指揮有之度比段相伺申候
もちろん、足羽県が十郎右衛門の言葉を真に受けていたとは考えにくい。十八箇村を一時的に預かったに過ぎない同県からすれば、それが真実であろうとなかろうと、地元の有力者が動き出したという事実そのものが「民衆の心理がどちらへ向かうかに関係する」重大な火種だったといえる。厄介な未解決案件を早期に処理してしまいたいというのが足羽県の本音だろうし、だからこそ「石川縣ヘナリ又當縣ヘナリ」と半ば投げやりとも受け取れるような求めになったのだろう。旧・本保県にすればなおさらであり、当初の方針を簡単に覆したことすら、もはや些細なことに違いない。
さて、ここで国もようやくその重い腰を上げたようだ。明治5年(1872) 5月、大蔵省は両県に対し、共同で実地調査の上、意見書を提出するように命じた。そして同年 11月、提出された意見書を踏まえ、白山麓十八箇村は一括して加賀国 能美郡の所属とし、石川県の管轄にすることを決定した。こうして加賀・越前の国界は、天正12年(1584) 以前のもとの位置に戻ることになった※14。
注釈
明治5年(1872) の国界変動に関する一考察
前項のとおり、明治初期における廃藩置県の混乱から、加賀・越前の国界は、天正年間(1573~1592) に変動する以前に戻ることになった。この過程について、『白山 自然と文化 総合研究』(1992) の第3篇 第3章 第1節『白山争論』には、石田文一の総括がまとめられている。先行する論考や、ベースとした史料にも言及があるので、その部分も含めて以下に示す※1。 石川県大属草薙尚志と同出仕森田平次 (柿園) の緻密な調査が功を奏し、石川県帰属の決定に至ったことは、「幕末維新と一八ケ村」(『白峰村史』上巻、766~768頁、1981)、「幕末維新期の世相」(『石川県尾口村史』第3巻通史編、195~197頁) において簡潔に述べられている。この経緯をめぐる史料については、「白山復古記」(『白山所属争議』所収) にほぼ網羅されているので、史料によりつつその経過を検討していきたい。
森田平次 (柿園) は、上記にもあるように、明治5年(1872) の実地調査で石川県の大属・草薙尚志に帯同した人物であり、同じく上記で言及される『白山所属争議』(1934)所収の『白山復古記』をまとめた本人である。また、この『白山復古記』は一連の文書を集成した文書集であり、本件に関して参照され得るほぼ唯一の記録といえるもので、石田の論考もこれに基づいている。しかし、『白山復古記』の記述には構成上の問題がみられ、先行する論考に対しても、少なからず影響を与えている。
また、やはり『白山復古記』を参照する昭和前期の史料に『石川県史 第4編』(1931)があるが、その論考にも見直すべき点が散見される。この県史は、大正から昭和前期における石川県の郷土史研究を先導した日置謙による著作であり、日置は『白山復古記』を活字化し、『白山所属争議』(1934) として刊行した人物でもある。以降、ここではこれら 2点の史料について考察を進めていくことにする。
まず、『白山復古記』は、明治5年(1872) 3月に旧・本保県から足羽県へ送付した以下の文書からはじまる。
白山麓十八ケ村について (国へ) 伺い中であるため、先般、仮に (元本保県から足羽県へ) 引き渡しましたところ、現在、戸籍調査やその他の取り締まり関係など、村役人たちが事務処理をするに当たって支障が生じております。ひとまず当県から当該の役人たちへ通達するべきということを、(足羽県が) 敦賀県の横地権大属へご相談されたとのこと、(元本保県は) 承知いたしました。十八か村は、郡名の呼称もない境界地であることから、結局のところ「新たに設置された何県が管轄せよ」との (国からの) 御達はありませんでしたが、古くはその多くが (越前国の) 大野郡所属の村々ですから (地理的に) 御県 (足羽県) のご管轄となるのは必然のことであります。つきましては、追って (国から) ご指図があるまでは、諸事すべて (足羽県) ご管轄内と同様にお取り扱いくだされたく、また十八か村の役人たちへはその旨を伝達いただきたく、この件、ご依頼とご相談を申し上げます。
白山麓十八ケ村伺中ニ付先般假に及御引渡候處方今戸籍御査究其他御取締筋等ノ儀ニ付村役人共取扱方御差支有之一應當縣ヨリ右役人共ヘ布達可致旨敦賀縣橫地權大属ヘ御示談ノ趣致承知候右ハ郡名ノ稱呼ナキ一間地故遂ニ新置何縣統轄ノ御達ハ無之候ヘ共古昔多クハ大野郡所屬ノ村々ニテ御縣御所轄ハ必然ノ儀ニ付追テ御下知有之候迄ハ各欵御管内同樣御取扱被成下當村々役人共ヘハ其分御申達有之度此段及御頼談候也
つまり『白山復古記』は、前段階にあたる明治4年(1871) 12月3日付の『本保県白山麓地所引渡ノ儀ニ付伺』を欠いている。そのため、旧・本保県の本来の意向や立場、さらには金沢県 (のちの石川県) との間で円滑な合意が形成されていた経過をいっさい追えなくなっている。結果として、この構成は、旧・本保県が (越前側の都合だけで) 唐突に主張をはじめたかのような印象を読者に与える可能性が高い。
実際、『石川県史 第4編』において日置は、以下のように先入観に基づく評価を行っている。
足羽縣乃ち狀を具して大藏省に吿げ、その指令によりて十八ケ村を足羽縣又は石川縣の何れかに決定せんことを求めたるが、而もこの伺書に添付するに、元本保縣が十八ケ村を足羽縣たらしむるを當然とすと回答せる文書を以てせるによりて見れば、眞意の那邊に存したるかを窺知すべし
上記の評価に関しては、誤解に起因する論理の飛躍も存在するようだ。日置は、足羽県が旧・本保県の文書を添付の上で大蔵省へ伺いを出した事実から、足羽県の本音は白山麓十八箇村を自県の管轄にすることにあったと結論づけている。しかし、十八箇村を暫定的に預かったに過ぎない同県は、事態の不安定化を回避するために「早期の決定」を求めていただけに過ぎないことは、前項で確認したとおりである。
さらに、旧・本保県の文書が示す「御県のご管轄となるのは必然」という文脈は、「敦賀県か足羽県か」という選択肢におけるものである。これは、単に同県の廃止にともなう (越前国内の) 引き継ぎにおける選択肢に過ぎず、本来の論点である「石川県か足羽県か」という選択肢を指したものではない。にもかかわらず、日置はこれを後者 (石川県か足羽県か) と誤認しているか、あるいはそのように読者を誘導するかのような論理を展開している。
次に日置は、実地調査中で行われた石川・足羽両県の議論について、以下のように記述している。
瀨戶道場に至り意見を交換す。時に足羽縣は、牛首等十六村を地理上越前大野郡とし、尾添・荒谷を加賀となすべきも、その行政區畫は官裁を仰ぐべしとし、石川縣は、國郡の經界は專ら歷史的徵證に據り、所轄は地理の便不便に隨ふべしとせるが故に、その間聊か齟齬を免れざりき。
これは『白山復古記』のうち「白山復古概論」という森田の叙述部分を根拠としている。しかし、少なくとも一次史料や『白山復古記』の本文 (文書集) からは、足羽県が国郡の分割を求めていたとする具体的な意向は確認できず、同県がそのような認識を示したと考えるのは困難である。ではなぜ、森田や日置はこのような記述を残したのだろうか。その背景には、森田自身の思想的偏向と誤認があったと考えられる。
『白山復古記』は、明治5年(1872) 11月の管轄決定で完結するわけではなく、その後の明治7年(1874) 12月の神仏分離完了までを網羅した文書集である。編纂者である森田は、現地で徹底的な廃仏毀釈を断行した人物として知られる。彼にとって、白山から仏教的色彩を排除し、そのすべてを加賀の白山比咩神社の管理下に置くことは「越前の平泉寺に奪われた白山を奪還する」という正義そのものだった。
そのため、森田の論調には、平泉寺を代弁する立場にあった牛首村に対して当初から批判的な先入観が入り交じる。実地調査以前の動きを説明する中で「尾添・荒谷の二区を加賀に属し、牛首外十五ケ村を越前国大野郡に属し、白山をも公然越前の国内に定めん事を謀り」※2と記しているが、これは明治4年(1871) 12月3日付の『本保県白山麓地所引渡ノ儀ニ付伺』に記載された、本保県と金沢県 (のちの石川県) との一時的な合意内容に過ぎない。それにもかかわらず、森田はこの「本保県と金沢県の過去の合意」を「現在の足羽県の意向」と混同・誤解していたのではないだろうか。さらに、この先入観に支配されるあまり、前述の瀬戸道場における議論でも足羽県が同じ主張を意地していたとさえ、思い込んでしまったのではないだろうか。
瀬戸道場における議論について、対応する森田の記述は「瀬戸村まで派出し、同地に於て実地検査の都合を談判す。足羽県に於ては、最初伺の通、牛首等の十六ケ村は無論越前国大野郡の地と見据え、尾添・荒谷の両村は旧に復し加賀の地と見据え、所轄の所は官裁を仰ぎ、可然との議なり。石川県に於ては、国郡の経界は旧証を取糾し、所轄の処は地理の模様、土地の便不便を検査し具状する筈なり」※3である。『白山復古記』の「最初伺」は、旧・本保県のものであって足羽県のものではない。なお、ここからもわかるように、森田は明治4年(1871) 12月3日付の『本保県白山麓地所引渡ノ儀ニ付伺』を明確に認識している。そうであるならば、彼が編纂した『白山復古記』本文の構成そのものに対しても、何らかの作為があった可能性さえ否定できない。
ここで、冒頭に引用した石田の総括に戻れば、「石川県大属草薙尚志と同出仕森田平次 (柿園) の緻密な調査が功を奏し、石川県帰属の決定に至った」という。この「緻密な調査」と同様の評価が『石川県史 第4編』にも見られるため、以下にその一説を抜粋する。
蓋しこの取調書は、富田景周の著はせる越登賀三州志の記述に基づきしが故に、寬文以降能美・石川の郡界を變じたりといふが如き、原本の誤れる點も亦之を踏襲したる憾ありといへども、足羽縣の上申が頗る疎放なりしに比すれば、精到の硏究を經たるものなりしなり。
まず、当時の両県の提出物を整理すると、双方ともに本文である意見書と絵図を提出している※4。
石川県の場合、さらに「沿革等凡取調書」と「実地検査模様書」の 2点※5を加えており、この追加分が「緻密な調査」の実態である。しかし、森田の業績を半ば絶対視する日置でさえ誤りを指摘せざるを得なかったように、無批判に受け容れられる内容とはいえない。実際、日置の指摘以外にも、天正12年(1584) 以後の東谷・西谷 16村に関して、実際の「越前大野郡」ではなく、真逆の「加州能美郡」とする誤記も存在する※6。
日置はこうした森田の誤りを擁護するために、対する足羽県の意見書を「頗る疎放」としているが、意見書(および絵図) の分量・精度そのものに関しては、両県で大きな差はみられない。むしろ、石川県の意見書と絵図は、森田や日置のような研究者の視点では正しくても、政治や行政の立場からすれば未熟に映る内容だった。
白山麓十八ケ村について、足羽県官員立ち合いで実地の状況を検査完了し、さらに旧記を調査しましたところ、管轄の移り変わりはございますが、十八ケ村すべて、地所は明確に加賀国内でございます。もっとも今後の管轄は、あえて (わたくしどもが) 申し上げる筋合いにはございませんが、中古以来、越前地方に属しつづけてきましたので、今後も足羽県の管轄に仰せ付けられ、あわせて郡村の境界は、当該十八ケ村の内、加賀国能美郡は 17村、石川郡は 1村と、その郡名を復古するのであれば、以後の異論も出ることなく、それでよろしいかと存じます。よってご参考のため沿革等の調書並びに絵図を添え、これについて、お届け申し上げます。
白山麓十八ケ村ノ儀足羽縣官員立會実地ノ模様遂検査猶旧書取調候処管轄沿革ハ御座候ヘ共十八ケ村共地所ハ判然加賀国内ニ御座候尤今後ノ統轄ハ敢テ可奉申上筋ハ無之候ヘ共中古以来越前地方ニ属シ居候続モ御座候間更ニ足羽県ノ管轄ニ被 仰付併郡村ノ境界ハ右十八ケ村ノ内加賀国能美郡十七村石川郡一村ト其郡名復古候ハヽ爾後ノ異論無之可然ト奉存候依テ為御照準沿革等調書并絵図相添比段御届申上候
先般、白山麓十八ケ村について、詳細書面にて伺いましたところ、石川県と打ち合わせの上、実地検査を行い、地理の状況をさらに申し出るべき旨、ご指示されましたこと、承知いたしました。そこで、石川県と打ち合わせ、両県官員一同と実地検査を行いましたところ、境界については、旧幕 (江戸幕府) の時、尾添・荒谷・中宮三ケ村の中間に流れる濁清川 (尾添川) を境界と決めた慣例によりますならば、地勢上、きわめて明確になります。さらに (この境界であれば) 白山神社の一件 (白山争論) について、十八ケ村が再度争論の端緒を開くことなく、全部でひとつとなり、永く差し障りなく平穏であると考えます。元来、十八ヶ村については、高嶽・幽谷に沿った不便な土地の一部落であり、ことに初冬以後は晩春に至るまで、常に氷雪を踏むようなところであり、ほかと往来・交通の難しい、あらゆる面で利便性を欠く難所にあります。このため、旧来、牛首村に全体 (十八ケ村) の惣代を置き、公布・貫納 (年貢の納入) をはじめ、通常の庶務および全体 (十八ケ村) に関係する取締等の案件は、すべて当該の惣代にて取り計らい、すなわち十八ケ村いずれもが、この (惣代の) やり方を一途に、堅く守ってきたところ、もしまた今後、所轄が分割されますと、これらの便宜がなくなり、かつ白山神社の争論が再発する可能性も否定できず、あれこれ難局が生じかねないと考えます。したがって、先般提出いたしました十八ケ村の陳情について、お聞き届けいただけることが道理至極に思います。よって、図面を添えた上で本件お伺い申し上げます。本件は石川県の意見もあるでしょうが、あれこれとご酌量くださり、何分にも名義を明確にし、(民心が右往左往することなく) 方向が一定となるよう、至急、ご指揮ください。
先般白山麓十八ケ村ノ儀に付委細以書面相伺候處石川縣打合ノ上實地致檢査地理ノ模樣尚可申出旨御指揮ノ趣承知仕候則石川縣打合両縣官員一同實地及檢査候處経界ノ儀ハ舊幕ノ時尾添荒谷中宮三ケ村ノ中間ニ流ルヽ濁清川ヲ以テ疆域ト定メシ舊貫ニ依候ヘハ地勢判然可有之加之白山神社一件ニ付十八村再度爭論ノ端緖ヲ開カスシテ全部合一永ク無障礙安堵可致存候元來十八村ノ儀ハ高嶽幽谷ニ添偏陬ノ一部落ニシテ殊ニ初冬以後晚春ニ至ル迄常ニ氷雪ヲ踏ミ他ト往來交通の難キ諸端便宜ヲ得サル難所ニ有之候依之舊來全部中牛首村ニ惣代を置公布貫納ヲ初尋常ノ庶務ヲヨヒ全部取締等ノ事件悉皆右ノ惣代ニテ取計卽十八村何レモ一意確守致シ居候處若又今後所轄相分レ候時ハ是等ノ便宜ヲ失ヒ且白山神社爭論再發ノ儀モ不可知彼是苦情可立至存候依之先般指出候十八村願意ノ次第ハ御聞屆相成候方御至當ニ存候依テ圖面相添前件相伺申候右ハ石川縣見込モ可有之候ヘ共夫是御酌量被下何分ニモ名義判然方向一定候樣至急御指揮可被下候
石川県の意見書における、国郡 (地理的境界) と支配 (行政上の管轄) の区別は、研究者の視点では合理的かつ正統なものに見える。しかし、それを受理する中央の意思決定者の目には、最終的に加賀国 (石川県) と越前国 (足羽県) のどちらへ帰属させるべきと主張しているのか、その方向性がきわめて不鮮明に映ったのではないだろうか。
また、足羽県の意見書にあるように、明治初期の緊迫した情勢において、統治の実務上もっとも優先させるべきことは現地の安定 (民心の収束) であり、研究者が追求する原理・原則ではない。その点、石川県が提示した、1村 (尾添村) を石川郡とし、ほかの 17村は能美郡とする、という境界論は、たとえ研究者の視点では地理的境界を指しているに過ぎないとしても、治安維持や実務を重視する決済者からすれば、足羽県が危惧するコミュニティの分解を想像してしまう。危険な提案とまでいわずとも、不合理な提案には映ったことだろう。
これらの意見書を踏まえた大蔵大輔・井上馨は、以下のように決定し、正院へ御達案とともに上申した※7。 一白山麓十八ケ村実地検査ノ上見込御屆 石川縣 一白山麓十八ケ村ノ儀ニ付伺 足羽縣 右 (上記) 両県が申し出た件、および今年 (明治5年) 4月に足羽県が申し出た件ともにあれこれ照らし合わせて検討しましたところ、白山麓十八ケ村について、今般石川県申し立てた、加賀国能美郡は 17村、石川郡は 1村と、その郡名を復古するのであれば、以後の異論も出ることないということについては、そうであろうとも、足羽県が申し立てたとおり尾添・荒谷・中宮の 3村の中間である濁清川 (尾添川) をもって境界と定め、白山社ならびに白山麓十八ケ村も加賀国能美郡へ組み入れ、石川県の管轄に仰せ付けられますほうが都合が良いように思われます 一白山麓十八ケ村實地檢査ノ上見込御屆 石川縣 一白山麓十八ケ村ノ儀ニ付伺 足羽縣 右兩縣申出ノ趣并當申四月足羽縣申出ノ趣トモ致斟辨候處白山麓附十八ケ村ノ儀今般石川縣申立ニ加賀國能美郡十七ケ村石川郡一村ト其郡名復古候ハヽ爾後ノ異論無之趣ニハ候ヘ共足羽縣申立ノ通尾添荒谷中宮三ケ村ノ中間ナル濁淸川ヲ以疆域ト定白山社并麓附十八ケ村モ加賀國能美郡ヘ組入石川縣管轄被 仰付候方辨利ノ趣ニ相聞候
この中央の決定要因について、追加の論考の必要はないだろう。ちなみに日置の評価は、わずかに「聊か煩雑の憂あるが故に」ということである。
なお、上記の決定にあるように、結果として白山麓十八箇村は石川県の管轄となった。これが森田の貢献によるものであることは、特に否定しない。しかし、中央における最終決定時に意味があったかと問われれば、かならずしも断言できないのではないだろうか。なぜなら、調査後に双方の意見書案を取り交わし、打ち合わせも経た上ですり合わせを行っていたからである。足羽県も「沿革等凡取調書」と「実地検査模様書」の存在を把握した上で、中央は石川県の管轄に決めるだろうと提出する以前から理解していたと考えられる。仮に上記 2点のような追加調査書類が存在しないことを含めて日置が「頗る疎放」といっているのだとしたら、それは見当違いといえる。足羽県は必要ないから作成しなかった、というだけである。
また森田本人にも日置にも、実地調査の行程の長さを誇る傾向が見られる。前述の「白山復古概論」には以下のように書かれている。
足羽官員は尾添・荒谷二村の地のみ検査して帰県す。石川官員は越前・加賀両国の旧経界を取糺し、且地理の模様と土地人民の便不便を検察せん為、十八ケ村を巡回し、谷・大日両峰の嶮阪をも視察し
つまり、森田らは全村を巡回した上、谷峠・大日峠という現在でも難所である峠を越え、勝山盆地 (現在の福井県 勝山市 市街地付近) との間を徒歩で往復している。その労苦自体は多大なものだったと評価できるが、それは彼らがそうせざるを得なかったに過ぎない。足羽県にとってはすべて自県の管轄範囲である以上、その必要がなかっただけである。また「白山復古概論」(『白山復古記』の叙述部分) におけるこの記述もおかしく、同じ『白山復古記』の本文 (文書集) によれば、足羽県も東谷をさかのぼる行程に同行して牛首村まで到達している。さらに一ノ瀬の湯 (一ノ瀬温泉) に石川県の官員ともども浸かってから、そこで別れているのが実態である。
最終的に別紙として添えられるに過ぎない調査書の分量や、行程の長さ・苦労を誇る姿勢は、中央の裁定を仰ぐという政治・行政の場においては焦点がずれているというしかない。
もっとも、本稿で明らかにしたこうした記述の偏向は、森田や日置に限らず、明治・大正期の郷土史家には多かれ少なかれ、よく見られる普遍的な傾向であることは付け加えておかなければならない。当時の時代背景も考慮しなければ、彼らに対する公平な評価ともいえない。また、先に参照した『越登賀三州志』は日置の校訂によるものであり、一連の経緯を詳細に追うことができるのも、彼らが主観的な偏向を含みつつも、客観的な事実を緻密な記録として後世に残してくれたからである。本当に問題があるとすれば、「郷土の偉人」として仰ぐあまり、そうした「多大な労苦」の記録をただそのままに、無批判に称賛してきたことにあるのかもしれない。
注釈
データシート
| 変動 | 白山麓十八箇村 |
|---|---|
| 要因 | 戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認 |
| 曖昧化の時期 | 戦国期~織豊期 |
| 変動の確定時期 | 天正12年(1584)。 |
| 変動 | 白山麓十八箇村 |
|---|---|
| 要因 | 明治初期の再編成 |
| 変動の確定時期 | 明治5年(1872) 11月 |
(参考) 県境の変動: 昭和33年(1958)
昭和33年(1958)※1、福井県 大野郡 石徹白村のうち、小谷堂・三面地区を除く主要地区 (上在所・中在所・下在所・西在所) は、岐阜県 郡上郡 白鳥町に編入された。変更前の福井・岐阜県境は越前・美濃国界である。

地形的には旧県境 (越前・美濃国界) が分水嶺であり、石徹白村は日本海へ注ぐ九頭竜川水系に含まれる。しかし、白鳥町と石徹白村は古くから白山信仰を通じて交流が深かった。美濃国から白山へいたる「美濃禅定道」の起点が前者の長滝白山神社・長瀧寺であり、その途中の拠点が後者の白山中居神社という関係である。その上、江戸期は同じ郡上藩の支配であり (ただし石徹白村は預かり地)、近代を迎えても、冬期の交通手段は県境を越えて白鳥町へ出るしかないという状況だった。
もっとも、これはいわゆる「越境」をともなう合併であり、ほかの事例と同じように、ここでも賛成派と反対派による住民間の対立に発展した。さらに、そこへ福井県による強力な引留工作も加わったことで、事態はいっそう紛糾することになってしまった。最終的には、西部の小谷堂・三面地区が福井県に残され、主要部分だけが岐阜県に移るという妥協策が採られた。両地区が福井県に留まったのは、地理的に白鳥町から遠いことが主な理由と考えられるが、江戸期の両地区は主要地区に対して従属的な立場にあったといい※3、そうした過去の感情のもつれが影響したのかもしれない。
注釈
白山の禅定道と馬場
白山は、御前峰・大汝峰・剣ケ峰の白山三峰を中心とした周囲の山々の総称である。南に連なる別山と三ケ峰を合わせ、白山五峰とも呼ばれるこの連峰は、古くから山岳信仰の対象とされてきた。
この白山において、山頂 (禅定) を目指す道は禅定道と呼ばれ、加賀禅定道・越前禅定道・美濃禅定道の 3つが存在した※1。それぞれの起点 (馬場) は、白山比咩神社、平泉寺白山神社※2、および長滝白山神社・長瀧寺である (すべて現在の名称による)。美濃禅定道の場合は、途中の石徹白に所在する白山中居神社も拠点として数えられる。
注釈
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として追補。
:
- 同、修正。
:
- 同、新規作成。























