ここでは、古代から中世にかけて発生した安房・上総国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである置津郷について分析しています。

そもそもどこか?

変動の舞台は、現在の千葉県 勝浦市の西部であり、変動後の国界が鴨川市との市境にあたる。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.120 置津郷 (安房・上総国界): 中世
Fig.120 置津郷 (安房・上総国界): 中世

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界 (現在の勝浦・鴨川市境) である。JR外そと房ぼう線では鵜う原ばら・上総かずさ興おき津つ・行なめ川がわアイランドの 3駅がある区間で、駅名に「上総興津」とあるように安房あわ国だった記憶はずいぶん遠い。『天保上総国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。

Fig.503 天保上総国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.503 天保上総国絵図 (国立公文書館所蔵)

要因と経過

変動エリアは、古代の安房あわ国 長なが狭さ郡 置おき津つ郷にあたる。以下は『和名類聚抄』の第6巻であり、安房国の各郡・各郷が示され、その末尾に置津郷がある。

Fig.684: 元和3年(1617): 倭名類聚鈔 古活字版(20巻本) 第6巻 (国立国会図書館所蔵)
Fig.684: 元和3年(1617): 倭名類聚鈔 古活字版(20巻本) 第6巻 (国立国会図書館所蔵)

置津郷の地形は、海へ向かって急激に落ち込むリアス海岸と、その後背に広がる平坦な丘陵地に大別される。前者は周囲から孤立している一方、後者は夷い隅すみ川の源流域にあたる。一般にリアス海岸は起伏と傾斜が大きく農業には向かないが、波の穏やかな入江は良港になりやすい。そのため、古くは海路を前提に安房あわから連続した土地とみなされ、のちに農地を求めて、あるいは原野を「里山」として利用するために、丘陵地へも進出したのだろう。この丘陵地は夷隅川の源流域であることから地形的には上総かずさへ連続している。しかし、視点を変えれば最奥部の辺境であり、その進出は遅かったとみられる。

『上総国町村誌』※1によれば、変動エリアの村々は、戦国期のころ「伊保荘」に属していたといい、おおむね沿岸の各村はその「興津郷」、丘陵地の各村は「植野郷」に含まれていたようだ。「植野」とは「上野」であり、標高の高い、のちに開発された土地 (野) を意味している。

律令体制崩壊後に荘園が展開されるなか、上総国 夷い灊しみ (のちの夷い隅すみ) 郡には「伊い南なん庄」と「伊北いほう庄」が成立した。その名称は夷灊郡が南北に二分割されたことによると思われるが、拡大の過程で変容があったらしく、最終的には伊北庄が西部、伊南庄が東部を占めることになった。この過程で伊北庄の領域が夷隅川源流域にも及ぶようになると、やがて置津郷もその一部に組み込まれたようだ。

伊北いほう庄の史料上の初見は『吾妻鏡』であり、治承4年(1180) 10月の記事に「伊北庄司」※2、建暦3年(1213) 3月の記事に「上総国伊北庄」※3があらわれる。しかし同じ『吾妻鏡』でも同年 5月の記事では「上総国伊北郡」※4とあって「郡」の表記、文治4年(1188) 6月の記事では「上総国伊隔庄」※5とあり、南北の区別のない「伊い隔すみ庄」として把握されている。その後、承久2~3年(1220~1221) ごろと推定される『上総介依国書状』にも「当国伊隔庄伊北分」※6とあるが、貞和3年(1347) と推定される『鎌倉府御料所所課注文』※7には「上総国伊北庄」とあり、以降は安定する。

慶長2年(1597) の泉水寺村、慶長6年(1601) の勝浦之郷・墨名村の各検地帳※8の表紙には「上総国伊保之庄泉水寺村」「上総国伊保庄勝浦之郷」「上総國伊保庄夷隅郡新宮之郷 墨名村」とある。読みが「いほう」であることや方角との関連が薄らいだ結果、「伊北」よりも「伊保」の表記が優勢になったようだ。

注釈

変動前の安房・上総国界

古代の安房・上総国界がどこにあったのかは、明確にはわからない。特に丘陵地においては地形的に明瞭な境界は存在せず、推定される進出要因 (里山利用や開墾) から考えても、当初からはっきりした境界があったわけではないと推定される。

『上総国誌稿』は、「その境界を知ることはとてもできないが、試みに地勢に基づいてこれを考えれば、西は上植野村の西北の境 (地点) より山脈を下って夷隅川の上流を渡り、東は松部・鵜原 2村の間、黒鼻くろがはなの岬 (現在の明神岬) の先端に至るをもって境界としていたようだ。もしこれが正しければ、台宿・上植野・名木・大森・中里・赤羽根・植野・中島・鵜原・守谷・興津・浜行川・大沢の 13村は、中古 (古代~中世) の置津郷だった」※1としている。

Fig.154 置津郷 (安房・上総国界): 中世
Fig.154 置津郷 (安房・上総国界): 中世
天保郷帳・国絵図の村々
近世 上総国 夷隅郡

この推定は地勢を十分に考慮しており、合理的である。したがって、本稿でもこの範囲を置津郷ととらえ、その境界を変動前の国界とした。ただし前述のとおり、当時はおおむねそのあたりを穏やかな目安とする、曖昧な国界だったと考えるのが自然である。

上総国誌稿

上総国誌稿は、皇国地誌のうち『大日本国誌』の第4巻として刊行されるはずだった『上総国誌』の稿本から写しを作成し、欠損部分を補ったものある。前半が『房総叢書 第2輯』(1914) に収録されている。

注釈

データシート

データシート (置津郷: 安房・上総国界)
変動地域置津郷
要因荘園の展開
曖昧化の時期不明、古代~中世。
変動の確定時期不明、古代~中世。
i. 上総興津駅
上総興津駅
上総興津駅
ii. 興津海水浴場
興津海水浴場
興津海水浴場
iii. 守谷海岸海水浴場
守谷海岸海水浴場
守谷海岸海水浴場
iv. 鵜原海水浴場
鵜原海水浴場
鵜原海水浴場
v. おせんころがし
おせんころがし
おせんころがし
vi. 大沢
大沢
大沢
vii. 上植野 (上植野3号橋)
上植野 (上植野3号橋)
上植野 (上植野3号橋)
viii. 国界の尾根
国界の尾根
国界の尾根
ix. 行川アイランド駅
行川アイランド駅
行川アイランド駅
i. YAMAPへ投稿されたリポート「海から江戸道を辿る 興津~養老渓谷」の写真を 低山専門ですさんから許可を得て転載
ii. YAMAPへ投稿されたリポート「海から江戸道を辿る 興津~養老渓谷」の写真を 低山専門ですさんから許可を得て転載
iii. 『ちば観光ナビ フォトダウンロード』から取得 (©Chiba Prefectural Tourism & Local Products Association)
iv. 『ちば観光ナビ フォトダウンロード』から取得 (©Chiba Prefectural Tourism & Local Products Association)
v. YAMAPへ投稿されたリポート「【房総のやま110&関東のふれあいの道 (千葉県) 20~海と森をつなぐ道~】市ヶ坂峠~内浦海岸~誕生寺~小湊山~鯛ノ浦~おせんころがし」の写真を アツ兄さんから許可を得て転載
vi. YAMAPへ投稿されたリポート「【房総のやま110&関東のふれあいの道 (千葉県) 20~海と森をつなぐ道~】市ヶ坂峠~内浦海岸~誕生寺~小湊山~鯛ノ浦~おせんころがし」の写真を アツ兄さんから許可を得て転載
vii. honoonoshizukuさんのインスタから許可を得て転載
viii. YAMAPへ投稿されたリポート「千葉 郡界尾根⑤東部 (清澄山から東)」の写真を いけりなさんから許可を得て転載
ix. YAMAPへ投稿されたリポート「千葉 郡界尾根⑤東部 (清澄山から東)」の写真を いけりなさんから許可を得て転載

上に示したうち、i は上総興津駅であり、当地が安房あわ国であった記憶はずいぶん遠い。ii・iii・iv は、それぞれ興津海水浴場・守谷海水浴場・鵜原海水浴場。

vとvi は、大沢付近の海食崖と丘陵地上 (上大沢) の風景である。前者はかつて交通の難所だった険しい地形だが、後者では一転して穏やかな田園風景が広がる。vii は上植野 (夷隅川に架かる上植野3号橋)。植野とは沿岸部から見た「上野」であり、農地を求めて、あるいは原野を里山として利用するために進出した土地といえるだろう。夷隅川はここから内陸へ向かって流れ、蛇行を繰り返しながら、いすみ市で太平洋へ注ぐ。

vii は勝浦ダム西方の尾根である。西から東へ尾根伝いに歩いた場合、旧国界である北への尾根を分けた直後にあたり、変動後の国界をまさに踏んでいる。

viii は行川アイランド駅。名の由来となったレジャー施設は閉園して久しいが、駅はその名前を留めまま、いまも静かにたたずんでいる。

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として、新規作成。