ここでは、古代から中世にかけて発生した安房・上総国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである置津郷について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、現在の千葉県 勝浦市の西部であり、変動後の国界が鴨川市との市境にあたる。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界 (現在の勝浦・鴨川市境) である。JR外房線では鵜原・上総興津・行川アイランドの 3駅がある区間で、駅名に「上総興津」とあるように安房国であった記憶はずいぶん遠い。『天保上総国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

要因と経過
変動エリアは、古代の安房国 長狭郡 置津郷にあたる。以下は『和名類聚抄』の第6巻であり、安房国の各郡・各郷が示され、その末尾に置津郷がある。

置津郷の地形は、海へ向かって急激に落ち込むリアス海岸と、その後背に広がる平坦な丘陵地に大別される。前者は周囲から孤立している一方、後者は夷隅川の源流域にあたる。一般にリアス海岸は起伏と傾斜が大きく農業には向かないが、波の穏やかな入江は良港になりやすい。そのため、古くは海路を前提に安房から連続した土地とみなされ、のちに農地を求めて、あるいは原野を「里山」として利用するために丘陵地へも進出したのだろう。この丘陵地は夷隅川の源流域であることから地形的には上総へ連続している。しかし、視点を変えれば最奥部の辺境であり、その進出は遅かったとみられる。
『上総国町村誌』※1によれば、変動エリアの村々は、戦国期のころ「伊保荘」に属していたといい、おおむね沿岸の各村はその「興津郷」、丘陵地の各村は「植野郷」に含まれていたようだ。「植野」とは「上野」であり、標高の高い、のちに開発された土地 (野) を意味している。
律令体制崩壊後に荘園が展開されるなか、上総国 夷灊 (のちの夷隅) 郡には「伊南庄」と「伊北庄」が成立した。その名称は夷灊郡が南北に二分割されたことによると思われるが、拡大の過程で変容があったらしく、最終的には伊北庄が西部、伊南庄が東部を占めることになった。この過程で伊北庄の領域が夷隅川源流域にも及ぶようになると、やがて置津郷もその一部に組み込まれたようだ。
伊北庄の史料上の初見は『吾妻鏡』であり、治承4年(1180) 10月の記事に「伊北庄司」※2、建暦3年(1213) 3月の記事に「上総国伊北庄」※3があらわれる。しかし同じ『吾妻鏡』でも同年 5月の記事では「上総国伊北郡」※4とあって「郡」の表記、文治4年(1188) 6月の記事では「上総国伊隔庄」※5とあり、南北の区別のない「伊隔庄」として把握されている。その後、承久2~3年(1220~1221) ごろと推定される『上総介依国書状』にも「当国伊隔庄伊北分」※6とあるが、貞和3年(1347) と推定される『鎌倉府御料所所課注文』※7には「上総国伊北庄」とあり、以降は安定する。
慶長2年(1597) の泉水寺村、慶長6年(1601) の勝浦之郷・墨名村の各検地帳※8の表紙には「上総国伊保之庄泉水寺村」「上総国伊保庄勝浦之郷」「上総國伊保庄夷隅郡新宮之郷 墨名村」とある。読みが「いほう」であることや方角との関連が薄らいだ結果、「伊北」よりも「伊保」の表記が優勢になったようだ。
注釈
変動前の安房・上総国界
古代の安房・上総国界がどこにあったのかは、明確にはわからない。特に丘陵地においては地形的に明瞭な境界は存在せず、推定される進出要因 (里山利用や開墾) から考えても、当初からはっきりした境界があったわけではないと推定される。
『上総国誌稿』は、「その境界を知ることはとてもできないが、試みに地勢に基づいてこれを考えれば、西は上植野村の西北の境 (地点) より山脈を下って夷隅川の上流を渡り、東は松部・鵜原 2村の間、黒鼻の岬 (現在の明神岬) の先端に至るをもって境界としていたようだ。もしこれが正しければ、台宿・上植野・名木・大森・中里・赤羽根・植野・中島・鵜原・守谷・興津・浜行川・大沢の 13村は、中古 (古代~中世) の置津郷だった」※1としている。

天保郷帳・国絵図の村々
近世 上総国 夷隅郡
- 31. 貝掛村
- 32. 興津村※2
- 33. 守谷村※3
- 53. 浜村※4
- 63. 実谷村※5
- 78. 新官郷※6
- 78a. 部原村※7
- 78b. 沢倉村※7
- 79. 七本村※8
- 80. 関谷村※8
- 81. 墨名村※8
- 82. 勝浦村※9
- 82a. 浜勝浦村※10
- 83. 串浜村
- 84. 松部村
- 85. 鵜原村
- 86. 台宿村※11※12
- 87. 名木村※13
- 88. 中里村※13
- 89. 宮田村※13※14
- 90. 中島村※13
- 91. 法花村※13
- 92. 荒川村※13
- 93. 山田村※11※15
- 94. 小羽戸村※13
- 95. 大楠村※16
- 96. 芳賀村
- 97. 白井久保村※17
- 98. 新戸村
- 99. 宿戸村※18
- 100. 白木村※19
- 101. 中谷村※19
- 102. 平田村※19
- 103. 笛倉村※20
- 159. 大森村
- 160. 浜行川村
- 161. 大沢村
- 163. 川津村
- 169. 植野村※21
- 169a. 上植野村※21※22※23
この推定は地勢を十分に考慮しており、合理的である。したがって、本稿でもこの範囲を置津郷ととらえ、その境界を変動前の国界とした。ただし前述のとおり、当時はおおむねそのあたりを穏やかな目安とする、曖昧な国界だったと考えるのが自然である。
上総国誌稿
上総国誌稿は、皇国地誌のうち『大日本国誌』の第4巻として刊行されるはずだった『上総国誌』の稿本から写しを作成し、欠損部分を補ったものある。前半が『房総叢書 第2輯』(1914) に収録されている。
注釈
データシート
| 変動 | 置津郷 |
|---|---|
| 要因 | 荘園の展開 |
| 曖昧化の時期 | 不明、古代~中世。 |
| 変動の確定時期 | 不明、古代~中世。 |
上に示したうち、iは上総興津駅、安房国であった記憶はずいぶん遠い。ii・iii・ivは、興津海水浴場・守谷海水浴場・鵜原海水浴場、vは上植野の風景 (夷隅川に架かる上植野3号橋)。植野とは沿岸部から見た「上野」であり、農地を求めて、あるいは原野を里山として利用するために進出した土地といえるだろう。夷隅川はここから内陸へ向かって流れ、蛇行を繰り返しながらいすみ市で太平洋へ注ぐ。
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、新規作成。





