本稿における変動前の甲斐・信濃国界は以下の各説に相当する。
| 史料 | 内容 |
|---|---|
| 『諏訪史蹟要項 8 富士見村篇』(1955/1996) | 天文九年堺十八ケ村が諏訪領とならざる以前の甲信の境界 a、立場肘曲り―糠塚―神戸あらい坂―麦日向見通シ b、立場肘典り―栗生の細尾迄 |
| 『下伊那史 第4巻』(1961)※1 | 旧甲信国境は凡そ北、八ケ嶽連峯中の権現山より立沢川の谷に沿い、今の本郷・原両村境を下り、南、南原 (本郷村) 附近より入笠山を見通した線 |
| 『富士見村誌』(1961) | 入笠山の東に位する赤のら山の峯から、立場川の肘曲りを見通して、この二点を結んだ一直線を甲・信の境と定めていた |
それぞれにあらわれる地名はどのように認識される場所だったのだろうか。ひとつずつ見ていこう。
文政8年(1825) 裁許の山論にみられる地名で、文政7年(1822)『乍恐奉願上口上書之事』※2※3に以下のような記述がある。
乍恐奉願上口上書之事 原山大境は荒井坂から糖塚・三本栂・立場川臂曲りを見通し※3 |
この山論は八ケ岳山麓の入会地を巡るもので、北部60村 (金沢村・菖蒲沢村・大沢新田村・中新田村など) と南部10村 (瀬沢村・瀬沢新田・机村・先能村・木間村・横吹新田・若宮新田・芓木村・松目新田・大平新田・栗生新田村)※4が対立した。
「荒井坂」については、『富士見町史 上巻』(1991) で「現在の洗坂か」とされるが、詳細な位置情報は示されていない。ただ「洗坂 (現況)」として掲載されている写真は、国道20号の「富士見パノラマリゾート入口」交差点付近の旧甲州街道入口なので、同地点から峠 (原の茶屋) までの急坂と考えられる。

『上野国郡村誌』の付図の御射山神戸村絵図にもその付近の甲州街道脇に「字洗坂」という地名がある。

別の争論 (桑畑一件) では「洗坂」とある。
「あらい坂」と同様、文政7年(1822)『乍恐奉願上口上書之事』にあらわれる。「瀬沢新田原に設けられた糠塚」※5といい、瀬沢新田村の西の原に築かれた境塚のひとつと考えられる。『富士見町史 上巻』(1991) と『諏訪史蹟要項 8 富士見村篇』(1955/1996) は「糠塚」、しかし町史の前身となる『富士見村誌』(1961) を含むほかは「糖塚」。直接関係はしないが原村には「糠塚」という地名が存在し※6、地名で使用される文字としては「糖」(あめ/トウ) よりも「糠」(ぬか/コウ) のほうが明らかに多いが、それゆえの読み誤りもあり得るので何とも判断しがたい。いずれにせよ人工物なので現存しているとは思えず、位置の特定ともども詳細は追えない。
「あらい坂」と同様、文政7年(1822)『乍恐奉願上口上書之事』にあらわれる。『富士見町史 上巻』(1991) で略図上に相当する位置が示され、『上野国郡村誌』の付図の立沢村絵図にも同じような位置に「字三本栂」がある。

三本の栂 (つが/とが) の木があって目印にされていたのだろう。一部『三木栂』とあるのは誤字と思われる。
「あらい坂」と同様、文政7年(1822)『乍恐奉願上口上書之事』にあらわれる。西へ流れる立場川が南へ方向を変えるあたり、谷がやや広がる周辺を指しているものと考えられる。現在の立沢 (近世 立沢新田村) 集落の上流部であり、この付近から谷に人の営みが観察され、また人口の分水路 (汐) が両岸へ放射状に伸びる地点で当たる。
谷底を流れる立場川の水を谷の上 (外) の農耕地へ導くためには高低差を克服しなければならない。このため、分水路の取水地点は実際にはもっと上流にあり、広がりつつあるとともに緩やかになりつつある谷の斜面を水平を保って流れ、谷が自ら低まるのを待ってようやく抜け出ている。「肘曲り (臂曲り)」はこうした分水路を築いた人々が谷底の景観から名付けたのだろう (地形の全体をマクロ的に見下ろして名付けたわけではないだろう)。
立場川に重なる現在の富士見・原の町村境も、ここから下流は西へ外れている。地形も「肘曲り (臂曲り)」の標高を前後して変わり、裾野 (原) といえるのはここまでであって、山頂に向かっては険しく山岳地帯である。
「麦日向」は、文政7年(1824) 高島藩が桑畑開発を奨励したことをきっかけに複数の村々を巻き込んで発生した争論 (『桑畑一件』) にあらわれる地名。『富士見町史 上巻』(1991) によれば、富士見パノラマリゾートの写真を示した上で「右側のゲレンデの頭頂部」とあるので、「アカノラ山」またはその付近を指しているものと思われる。アカノラ山は『富士見村誌』(1961) の「甲・信の境」にも「赤のら山」としてあらわれる。

複数の争論にあわわれる地名。目印として広く通用していたようで、『諏訪藩主手元絵図』の「御射山神戸村 栗生新田」の左端 (南端) と「木之間村 大平新田 若宮新田 松目新田 横吹新田」の右端 (北端) にも記載されている。松目沢の北側の尾根のひとつ。

諏訪藩主手元絵図 鹿児島県 (管轄下の) 大隅国 菱刈郡、および同県 (管轄下の) 薩摩国 北伊佐郡を廃し、その区域をもって伊佐郡を置き、薩摩国に属するものとする |
高島藩第5代藩主・諏訪忠林が享保18年(1733) に作成させたと考えられている、藩内各村の村絵図を集成したもの。複製が同名で昭和60年(1985) に刊行されている。 |
| ^ ※1: | 同じ内容が 『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(1939) にもある。 |
| ^ ※2: | 『原村誌 上巻』(1985)・『富士見村誌』(1961)・『富士見町史 上巻』(1991)。 |
| ^ ※3: | 「木之間区有文書」とあるが、本文内に引用されているため原文は不明。 |
| ^ ※4: | 先能村は木戸口新田村、芓木村は芓木新田村。 |
| ^ ※5: | 『富士見町史 上巻』(1991)。 |
| ^ ※6: | 『原村誌 下巻』(1993) の付録「原村地字名表」(cc.674-675) による。 |