変動前の甲斐・信濃国界は、変動した地域が「境方18か村」や「蔦木郷18か村」として集合的に把握されていたことからも説明できる。
これは、武田信虎が娘・禰々を諏訪頼重へ嫁がせるにあたって「境方18か村」(境方十八箇村) を化粧料として持たせた、という伝承による。江戸後期の国学者・小山清庸は、この「境方18か村」の村々として『栗林換録』に以下を挙げている※1。「稗ノ底高ニ入」は割注である。
『栗林換録』による境方18か村 乙事・田端・先達・池之袋・高森・葛久保・小東・円見山・立沢 (稗ノ底高ニ入)・上蔦木・下蔦木・机・平岡・神代・瀬沢・休戸・木之間・大片瀬 |
ほかにも多少のバリエーションはあるようだが、上記でも「稗ノ底高ニ入」とある稗底村 (最終的に全村民移住し消滅) やそれ以前に消滅した大片瀬などの出入り、上下の蔦木や枝郷をどう数えるかといった程度だろう。またいずれにせよ重要なのは内訳の詳細ではなく、「境方18か村」として一体的・集合的に捉えられていることにある。伝承そのものは文字どおりに伝承以上のものではないが、何らかの事実を反映したものと考えられ、継承される過程でわかりやすく「化粧料」に置き換わったのだろう。国界と「化粧料」が結びついた伝承は三濃村の例のほか (『22.4. (参考) 県境の変動』を参照)、肥後・筑後国界の四箇村※2にもあり、木曽が元和元年(1615) に幕府直轄領から尾張藩領になったことも「化粧料」と結びつけられている※3。
幸福家文書の『甲斐国御檀家由緒略記』※4と、同系統の天保12年(1841) 伊勢神宮の御師・幸福出雲が幕府に提出したという由緒書※5に以下のような記述がある。
甲斐国御檀家由緒略記 信濃國蔦木郷18か村は、武田家の旧領なので、甲斐国同然に古くより御祈祷 |
| 信濃国蔦木郷十八ケ村ハ、武田御家之御旧領ニ付、甲斐国同前ニ古来ゟ御祈祷 |
幸福出雲の由緒書 蔦木郷18か村については信玄公のころはその所領であったので |
| 蔦木郷十八ケ村ノ儀ハ信玄公御代御領分ニ付 |
幸福出雲は伊勢神宮外宮の御師であり、信玄の時代には城下 (古府中) に屋敷が与えられ、のちに移り住んだ江戸期の城下 (新府中) の町は伊勢町と呼ばれるようになったという※6。「蔦木郷18か村」の内訳は文書からはわからないが、内容から「境方18か村」と同じ範囲を指していると考えられ、やはり一体的・集合的に把握され、また特殊な地域であることを示している。
『神使御頭之日記』には享禄元年(1528) の出来事として以下のような記事がある (再掲)。
神使御頭之日記① (再掲) 八月廿二日ニ武田信虎堺ヘ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同廿六日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ、同晦日ニ神戸堺川一日ノ内ニ二度合戦候テ、朝神戸ニテハ諏方負候、晩堺川ニテ諏方打勝 |
これによれば、信虎は「蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷」を取り立てて「シラサレ山」に布陣する頼満に対峙したとあり、ここに「蔦木郷」(蘿木ノ郷) があらわれる。「蔦木郷」は近世の小東村を含むことから、上蔦木村・下蔦木村ばかりでなく、ほかに数村を含む広がりを持った地域だといえる。蔦木郷は、天正6年(1578)『上諏訪造宮帳』※7でも「蔦木・原両郷」とあり、慶長18年(1613)『信州諏訪郡高辻』では、ほかが「村」の表記であるにもかかわらず「下蔦木郷」とあって、上下分村してもなお名称に郷を残している。「上蔦木□」の欠けている部分も「郷」と考えられる。「本郷」が典型だが、天保郷帳では村 (『本郷村』) であっても、しばしば初期の郷帳では郷のまま (『本郷』) のことがある。いわゆる村切によって解体されても、上蔦木郷・下蔦木郷 (上蔦木村・下蔦木村) は中世の蔦木郷の記憶を残すところだったのだろう。
また幸福出雲は実際に、文化5年(1808) に若宮新田村、天保13年(1842) に乙事・瀬沢・木之問の各村など訪れたほか、安政7年(1860) には葛久保村から寄附を送った記録が残っている※7。なお「幸福出雲」は「祓名(祓銘)」と呼ばれる名跡なので、名乗っている実際の人物は時期によって異なる。
元治・慶応年間(1864~1868) 『山田師職銘鑑』※8によると、甲斐の御師 (祓銘) には幸福出雲のほか、幸福大夫・幸福数馬大夫・幸福孫大夫・幸福彦大夫・幸福孫右衛門の幸福系、大主大夫・大主徳屋大夫・大主長左衛門・大主源大夫の大主系、および大西助大夫がいて、大主幸福大夫という御師もいる。また甲斐・信濃の両国 (甲州・信州) の御師として久保倉但馬・久保倉金吾大夫がいる。江戸中期ごろの『皇室・公卿・幕閣・大名の師職表』※8によれば、幸福出雲は郡山藩 (大和国)と黒川藩・三日市藩 (越後国) の柳沢氏、およびほか 6つの大名の御師でもある。御師は氏族との関係で成り立っていたとみられ、幸福出雲が柳沢氏付であるのも以前からと考えられるが、甲府藩のときに縁ができたのか、それより前になるのか※9はわからない。
諏訪 (高島藩) の御師は御炊太夫で、具体的に諏訪安芸守※10・因幡守※11・伊勢守※12の寄進を確認でき、長く関係性があったとみられる。忠晴の大納戸日帳※13にも言及がある。信濃の御師としては『山田師職銘鑑』に久保倉のほか、松井九兵衛・松木館八郎大夫・松葉二郎大夫が載っており、ほかに諏訪では久志本神主※14、伊那付近では小倉四郎大夫※15の活動も散見される。
| ^ ※1: | 『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(1939)・『下伊那史 第4巻』(1961)。 |
| ^ ※2: | 『続 三池・大牟田の歴史』(1993)。 |
| ^ ※3: | 木曽山化粧料説、『長野県史 通史編 第4巻 近世1』(1987)。 |
| ^ ※4: | 『田富町誌(1981)』所収、c.684。記載内容から江戸後期に作成されたと考えられる。 |
| ^ ※5: | 『富士見町史 上巻』(1991) p.553、および p.601 に引用されている。 |
| ^ ※6: | 『甲府市史 通史編 第1巻 原始・古代・中世』(1991)・『同 通史編 第2巻 近世』(1992)。 |
| ^ ※7: | 『富士見町史 上巻』(1991)。 |
| ^ ※8: | 『瑞垣 112』(1977)所収、cc.51-59。 |
| ^ ※9: | 柳沢氏は甲斐国 巨摩郡 柳沢郷に由緒を持ち、武田氏滅亡後は徳川氏の配下となった。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉に仕えた柳沢吉保のときに重用され大名となり、宝永元年(1704) 甲府藩に入った。 |
| ^ ※10: | 正徳年間(1711~1716)『正徳御師名帳』、『伊勢の神宮と国民』(1975) 所収、cc.42-43。おそらく忠晴。 |
| ^ ※11: | 享保6年(1721)~安永6年(1777)『諸家師職名録』、『信濃国御厨史料とその考察』(1936) 所収、#21・c.68。おそらく忠林。 |
| ^ ※12: | 天明3年(1783)『諸大名御師附』、『信濃国御厨史料とその考察』(1936) 所収、#22・c.69。おそらく忠粛。 |
| ^ ※13: | 『諏訪史料叢書 巻34』(1943) 所収。 |
| ^ ※14: | 『茅野市史 中巻 中世・近世』(1987)。 |
| ^ ※15: | 『駒ケ根市誌 古代・中世編・別編年表』(1990)・『豊丘村誌 上巻』(1975) など。 |