24.1.3. 粟飯原四ケ村
(1) 内訳と変遷

小田原衆所領役帳おだわらしゅうしょりょうやくちょうの「粟飯原四ケ村」について、その内訳は明らかではないが、相模国 高座郡の『正保改定図』と元禄相模国郷帳との比較などから上相原・中相原・下相原の 3村に下九沢村を加えた 4村と考えられる。

相模国 高座郡の『正保改定図』には相原村・矢部村だけが存在する一方、元禄相模国郷帳には相原村の代わりに上相原・橋本・小山・下九沢の 4村が存在し、ほかに矢部村を改称した上矢部村が存在する。

Fig.631: 元禄の相模国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)

この上相原・橋本・小山・下九沢の 4村は、どれも「相原」を冠称することから何らかの段階の相原村が分村・成立したものとわかる。なお冠称は『元禄改定図』でも同様だが、小山村では漏れている。

Fig.517: 新編相模国風土記稿巻之五十九: 高座郡 正保・元禄改定図 (部分・国立公文書館所蔵)

寛政12年(1800)『文禄年中より度々御検地並神社仏閣畑屋敷控帳』※1によれば、小山・橋本は「中相原村」の分村、矢部村は「下相原村」の改称という。

文禄年中より度々御検地並神社仏閣畑屋敷控帳

下相原村と申そうろうは、只今矢部と申そうろう村方に御座そうろう。中相原と申そうろうは、只今小山・橋本と申そうろう村に御座そうろう。右矢部・小山・橋本等と申そうろうは、の時分の字名 (小字) に御座そうろうところ、自然と村名にあいなり、当村方計り、文禄年間(1592~1596) の通り上相原村と申そうろう

原文: 下相原村と申候は、只今矢部と申候村方ニ御座候、中相原と申候は、只今小山・橋本と申候村ニ御座候、右矢部・小山・橋本等と申候は、其時分之字名ニ御座候処、自然と村名二相成、当村方計り文禄年中之通り上相原村と申候

これらを総合すると「粟飯原村」は上中下の「相原村」と「下九沢村」に相当する 4村で、以下のように分村したようだ。

Fig.630: 粟飯原四ケ村の内訳

なお、江戸期の下九沢村は上九沢村と対になっているが、上九沢村は大島村からの分村といい※2、両村に地域的な関係性は見当たらない。

(2) 小山村・矢部村

武蔵田園簿と武蔵国 多摩郡の『正保年中改定図』には相原村・小山村だけが存在し、元禄郷帳と『元禄年中改定図』には相原村に代わって上相原・中相原・下相原の 3村と小山村が存在する。

『多摩郡小山村誌写』※3には以下のように書かれ、やはり分村の経緯を伝えている。

多摩郡小山村誌写

本村は往古より武蔵国 油井領 横山庄 小山郷 小山村と称したり。文禄3年(1594) 彦坂刑部直道検地するに当たり、田倉川をもっって武相の国界を定め、両村となす。すなわち一つは相州に属し、該地は本国多西之郡に属し、のち寛文年間(1661~1673) 本郡に編貫し、らい現今の称を用ゆ

原文: 本村は往古より武蔵国油井領横山庄小山郷小山村と称したり文禄三年彦坂刑部直道検地するに当り田倉川を以って武相の国界を定め両村となす即ち一つは相州に属し該地は本国多西之郡に属し后寛文年間本郡に編貫し尓来現今の称を用ゆ

矢部村について、相模国 高座郡 矢部村 (上矢部村) に対応する村は、江戸期の武蔵国 多摩郡には存在しない。しかし現在 町田市には「矢部町」が存在し、これが相当する。矢部町は江戸期の武蔵国 多摩郡 木曽町の飛地、または下山田村の一部である。

新編武蔵風土記稿によれば、木曽村の小名 (小字) に「矢部」があって「矢部村と號して別に一村のごとくなり」という。一方、新編相模国風土記稿では、上矢部村に「郡中下矢部村ナシ、境川ノ對岸武州多磨郡小山田村ノ小名ニ矢部、及下矢部アリ、恐ラクハ是ニ對シテ上矢部ト號すルナラント傳フ」とあり、迅速測図原図では「下矢部村」「字矢部」のどちらもある。全体としては下矢部であっても箭幹やがら八幡宮 (矢部八幡宮、迅速測図原図では単に八幡宮) の境内は朱印状の表記に従って矢部だった、といったところだろうか。角川日本地名大辞典 13 東京都(1978) では、地名編の項目「下矢部」で「昭和33年現行の町田市矢部町となる」、地誌編の「矢部町」で「大字下矢部の一部」とあるので、矢部町の大部分は下矢部に由来し、やはり一部である箭幹八幡宮の境内が矢部だったと考えられる。

バリエーション

『新編相模国風土記稿』では上相原村に「當村及橋本・小山・下九澤四村ハ、モト相原村ト稱ス一村ナリ。正保三年分村スト云。按スルニ、正保ノ改ニハ武相二州各相原村アリ、元祿ノ改ニ至テ武ノ相原ヲ上中下ニ分テ三村トシ、當郡ニ上相原村・相原下九澤村・相原橋本村ノ三村ヲ載セ、橋本ノ傍記ニ古ハ下相原村トアリ」とある (句読点・中黒は筆者が補った)、橋本村にも「元祿ノ改ニ相原橋本村、古ハ下相原村と傍記ス」とある。しかし橋本村が下相原村である場合、下九沢村か小山村が中相原村となるが、位置と上中下の順番が整合しない。

また『多摩郡相原村誌写』※4には粟飯原四ケ村 (小田原分限帳によれば相原 九沢 大島 田名) の一にして」、『相原村皇国地誌』※5には「粟飯原四ケ村 (小田原分限帳ニ拠ル、乃チ相原・九沢・大島・田名是ナリ) ノ一ニシテ」とあって、内訳は相原・九沢・大島・田名の 4村となっている。これについてはほかに情報がなく、評価できない。

境川

境川は、上~中流では近世 相模国 高座郡と武蔵国 多摩郡、下流では相模国 高座郡と鎌倉郡の境界となった。新編相模国風土記稿によれば、古くは高座川・田倉川と呼ばれたという。片瀬村付近では片瀬川と呼ばれたともあるが、これは現在でもその傾向があるようで、最下流で柏尾川と合流したあたりから河口までは片瀬川と呼ばれるようだ。くら川はたかくら川が縮まったものとされる。

^ ※1: 『相模原市史 第5巻』(1965) 所収、pp.97-101。
^ ※2: 『相模原市史 第2巻』(1967)。
^ ※3: 『町田市史史料集 第2集』(1971) 所収、#50・cc.172-174。
^ ※4: 『町田市史史料集 第2集』(1971) 所収、#52・cc.178-180。
^ ※5: 草稿『相模原市史 第6巻 (1968)』 所収、pp.21-26。