○(参考) 神流川上流域における上野・武蔵国界の確定: 元禄15年(1702)

基本的には「確定」であって変動とはいい切れないこととから本稿の対象ではないものの、同時期にあったことやその規模の大きさから神流川上流域における上野・武蔵国界の確定を参考として取り上げる。

近世の上野国 甘楽郡 神流川上流域はさんちゅう領と呼ばれ、かみやま郷・中山郷・下山郷に分かれていた。これは近代に入ってもほとんどそのまま上野村・中里村・神川村 (万場町) に引き継がれ、いわゆる平成の大合併の時期まで変わらなかった (神川村 = 万場町は下山郷の全部と中山郷の一部から構成される※1)。神流川の深い谷は平地に乏しい一方で移動の制約になるような流量でもなく、上山郷・中山郷・下山郷とも日照条件に恵まれる左岸 (北岸) を主要部としつつ両岸に展開された。そもそも神流川は斜面をえぐるように曲流していて、道は歩行可能なところ (曲流部の内側) を探して両岸を移り渡ることになるので流路は境界にならない。

ところが日本六十余州国々切絵図によれば、上野・武蔵の国界は、絵図に表現されうる源流部までの神流川全体で表現され、上山・中山・下山の山中領 3郷は右岸 (南岸) である武蔵国に配されている。 Fig.613: 日本六十余州国々切絵図 武蔵国 (秋田県公文書館所蔵)Fig.614: 日本六十余州国々切絵図 上野国 (秋田県公文書館所蔵)つまり以下のようになっている。 Fig.188: 山中領付近の上野・武蔵国界: 日本六十余州国々切絵図: 寛永10年(1633)頃

『群馬県多野郡誌』(1927/1977) が引用する『神川村郷土誌』(1910)※2によれば、「天正十一年以降織田信雄の一族上州甘楽郡を領したり」とした上で、「当時の石高を記したるもの」に「神流川右岸の地」は含まれず、下記のように把握されていたという (改行・石高を整えただけなので原文省略、村の有無はママ、番号は本稿で加えた)。

111. 柏木村: 34.225石 (三十四石二斗二升五合)
112. 生利しょうり村: 50.340石 (五十石三斗四升)
113. 万場村: 110.840石 (百十石八斗四升)
114. しおざわ村: 54.840石(五十四石八斗四升)
115. くろ村: 72.690石 (七十二石六斗九升)
128a. 尾井戸: 21.365石 (二十一石三斗六升五合)
116. あいばら村: 42.375石 (四十二石三斗七升五合)
117. 下船子: 28.195石 (二十八石一斗九升五合)
117d. たかしお: 19.175石 (十九石一斗七升五合)
117a. 上船子: 22.410石 (二十二石四斗一升)
117c. 白石: 11.375石 (十一石三斗七升五合)
117b. さわらもり: 5.590石 (五石五斗九升)

なお、末尾は「椹森五石五斗九升等」とあるので、原史料にはさらに上流左岸 (北岸) 各村も記載されている可能性があるが、文脈から右岸 (南岸) 各村が記載されているとは考えられない (示されているのはその後の万場町を構成する各村で、これより上流 (中里村) との間には地形や生産性の点で一定の区切りが存在する。したがって村々の列挙はここまでであって『等』以降はそれ以外の情報かもしれない)。石高表記については後述する。

つまり支配者 (さらにいえば、おそらく在地ではない支配者) が設定した、彼らにとってわかりやすい河川流路による領域 (境界) 認識が、実際にそこで生活する人々のそれとは乖離したまま江戸期まで継承され、それが日本六十余州国々切絵図に反映されてしまったらしい。略図である日本六十余州国々切絵図の記載はそもそもかなり粗いが、上野・武蔵とも神流川両岸には渡河地点や渡った先に関係する情報が記載されていない。あるいは、渡河したところで同じ山中領だから何も記載できなかったのかもしれないが、どちらにせよ両絵図の山中両付近は実態を把握しないまま作成されている。

しかし、その後に作成された正保の武蔵国絵図では分水嶺が国界として描かれた。 Fig.618: 新編武蔵風土記稿 巻之246: 秩父郡 正保年中改定図 (国立公文書館所蔵)つまり以下のようになっている。 Fig.189: 山中領付近の上野・武蔵国界: 正保年中改定図その一方で、寛文の上野国郷帳に神流川右岸 (南岸) の各村は含まれず、神流川を国界として把握された。 Fig.567: 寛文の上野国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)群馬県立文書館が所蔵するものによれば、寛文の上野国絵図では以下のような国界となっていた (正保の上野国郷帳・国絵図は発見されていない)。 Fig.190: 山中領付近の上野・武蔵国界: 寛文の上野国郷帳・国絵図

つまり、山中領のうち神流川右岸 (南岸) から分水嶺までの間は上野・武蔵のどちらにも属しておらず、空白域が生じている。元禄12年(1699) 5月『山中領村々上州・武州国境論争申立書』(以下『申立書』と略) によれば、慶長3年(1598) の検地は分水嶺を境界として実施され、現実には実態にあった支配が行われた。しかしそれが何らかの問題を生じさせて空白域ができたらしい。 Fig.191: 山中領付近の上野・武蔵国界: 寛文の上野国郷帳・国絵図

元禄10年(1697) から15年(1702) にかけて改定が行われた元禄国絵図・郷帳では隣国相互の確認が義務づけられ、国界を巡る未決着の問題は許容されなかった。このため上野国側 (山中領) と武蔵国側 (秩父郡 上吉田・中津川・河原沢・日尾・藤倉の 5村) の間で争論に発展し、最終的には上野国側 (山中領) の主張が通って上野・武蔵国界はようやく定まった。 Fig.621: 上野国山中領・武蔵国秩父領国境立合絵図 (部分・山中領神原村黒沢家文書#571-48)Fig.623: 上野国山中領・武蔵国秩父領国境立合絵図 (部分・山中領神原村黒沢家文書#571-48)Fig.624: 上野国山中領・武蔵国秩父領国境立合絵図 (部分・山中領神原村黒沢家文書#571-48)Fig.625: 上野国山中領・武蔵国秩父領国境立合絵図 (部分・山中領神原村黒沢家文書#571-48)

元禄国絵図・郷帳にも反映され、天保国絵図でも以下のとおり。これは現在の群馬・埼玉県境にそのまま反映されている。 Fig.626: 天保の上野国絵図Fig.627: 天保の武蔵国絵図

❖変動前 26村の国郡

『神川村郷土誌』に引用されている『元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状』※3(以下『書状』と略) によれば、武蔵国側 (秩父郡 5村) は、

「武蔵国と上野国の境界 (国界) は昔から神流川で間違いない。神流川を境界として南東川上は秩父郡、川下は児玉郡である」※4

「秩父領と山中領の境界 (領界) は昔からさか峠・ごえ峠・坂丸峠・土坂つっつぁか峠 (がある分水嶺) である」※5

と述べた上で、当時成立していた神流川右岸 (南岸) の 26村を、具体的に秩父郡 22村と児玉郡 4村に分けて示した。 Fig.192: 山中領付近の上野・武蔵国界: 寛文の上野国郷帳・国絵図

また、武蔵国側 (秩父郡 5村) は以下のような証左も示した。

ぐり権現の祠官・黒沢石見守が裁許状を所持しているが、その裁許状には『武州秩父郡山中野栗権現の祠官・黒沢石見守』と書いてある」※6

「戸野村妙見の祠官・宮前和泉守が裁許状を所持しているが、その裁許状には『武州児玉郡山中妙見祠官・宮前和泉守』と書いてある」※7

「神流川を隔てた上野国の相原村明神の祠官が裁許状を所持しているが、その裁許状には『上州甘楽郡相原村丹生明神祠官・宮前伊勢様』と書いてある」※8

この裁許状 (神道裁許状、吉田家から発行された装束着用の免許状) については、上野国側 (山中領側) も元禄13年(1700) 2月『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』(以下『願状』と略) で以下のように触れていた。

「新羽村の野栗権現の神職、石見 (黒沢石見守) について、元禄3年(1690) 武州秩父領大宮の近江守方からの添状 (同) を得て京都へ持参し、吉田様から裁許状をいただいた際、それには『武州秩父郡野栗』と書いてあったので、『上州甘楽郡』であると再三申し上げたものの、(受け入れらず) 添状のとおりに裁許状をいただいた」※9

生利しょうり村の戸野妙見の神職、和泉 (宮前和泉守) について、貞享4年(1687) 武州秩父郡大宮村の宮本方より添状 (何らかの証書か紹介状) を得て京都へ行き、吉田様から裁許状をいただいたところ、それには『武州児玉郡山中下山』とあったが、あまり気にしないまま帰った。その後、国郡ともに間違っていることに気がついたものの、再度京都へ行くのも大変なので、そのままにした」※10

Fig.641: 神道裁許状の一例 (境原山邉家資料#08-09-13・佐賀県立図書館所蔵)

「野栗権現」は現在の乃久里神社 (上野村 新羽字野栗)、「戸野妙見」は明治期の戸野神社 (現在は字戸野を含む神流町 生利の御鉾神社に合祀)※11と考えられ、「元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状」によれば、

「武州鎮守の妙見本社は秩父郡大宮町に所在する。この妙見本社を勧請する神社は武州に散在しているが、26村にも 2箇所ある」※12

といい、妙見社 (妙見宮、現在の秩父神社) を勧請したもので、裁許状を得るには大宮町の「近江守」「宮本」から添状を得る必要があった。大宮町は江戸期の門前町なので人物は神職と考えられる。つまり裁許状には秩父神社が記憶する古い国郡認識が反映されていた。

Fig.620: 新編武蔵風土記稿 巻之255: 大宮町之図 (国立公文書館所蔵)
❖武蔵国側 (秩父郡 5村) の経過など

争論があった元禄年間(1688〜1704) の当時、武蔵国側 (秩父郡 5村) に、国界の位置が生活に直接の影響を及ぼすような事情があったとは考えづらい。あるすれば入会権だが、双方の主張に言及はない。前項で扱った妙見社 (秩父神社) との関係性からいえば、国界が分水嶺になった場合「武州鎮守」である秩父神社と野栗権現・戸野妙見 (乃久里神社・戸野神社) との関係性が薄れる懸念があったのではないかと考えられる。一般に神社 (大社) で祭礼が行われると、周辺の村々や関係のある神社 (末社) は分担金や奉仕を求められることが多い。26村と乃久里神社・戸野神社がその対象外となれば、秩父郡 5村の負担が重くなることに不安を感じていたのではないだろうか。

しかし幕府の裁許を求める争論では、江戸への往復・滞在費用のほか、役人への土産物などその費用は相当なものになる。元禄15年閏8月『山中領村々上州・武州国境論争裁許覚』によれば、武蔵国側 (秩父郡 5村) は最終的に国界が分水嶺であってもかまわないという姿勢を示した※13。結局その負担は妥協可能な範囲であって、生活に直接的な影響を及ぼすようなものではなかったのだろう。あるいは何か算段があったのかもしれないが (秩父神社との関係については継続する取り決めが行われた、幕府の決定であることを根拠に秩父神社と交渉する、など)、いずれにせよ最後まで残る傾向にある寺社の国郡認識でさえ (【(17) 村の変遷】を参照)、消失する段階に合ったのだろう。

❖上野国側 (山中領) の経過など

上野国側 (山中領) の主張がまとまっている文書には以下の 3つがある。

元禄12年(1699) 5月『申立書』(『山中領村々上州・武州国境論争申立書』): 『願状』に先行する文書。

元禄13年(1700) 2月『願状』(『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』): 武蔵国側 (秩父郡 5村) の『書状』(『元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状』) に対応する文書。元禄12年(1699)『申立書』に論拠などを書き加えたもの。

元禄15年(1702) 6月「山中領村々上州・武州国境紛争につき故障口上書」(以下『口上書』と略): 『願状』を整理して最終的な主張をまとめたもの。

この争論における地理的・客観的な証左に裁許状 (神道裁許状) があって、前述のとおり双方の文書で言及されているが、上野国側 (山中領) の元禄13年(1700)『願状』では弁明のようになっていた。これはおそらく先行する武蔵国側 (秩父郡 5村) の文書で言及があって、それに対して反論しようとしたものと思われ、無意味なので元禄15年(1702)『口上書』では言及されなかった。裁許状が存在する「戸野妙見」(戸野神社) については棟札についても双方に言及があり、それぞれ以下のように記載されている。

武蔵国側 (秩父郡 5村):

「戸野村妙見社の棟札にも『武州小玉郡苅治郷殿村』とある」※14

上野国側 (山中領):

「生利村の戸野妙見の棟札に『武州児玉郡』とあるが、全体的に文字ははっきりしない」※15

これも上野国側 (山中領) は弁明になっている。

元禄12年願状によれば、慶長3年(1598) 検地の検地帳には「上州甘楽郡」とあったといい※16、これは事実なら上野国側 (山中領) にとってはもっとも強力な論拠となる。しかしこれについて元禄15年の口上書では以下で「古御水帳」として間接的に参照されているだけで言及がない。

「元禄7年(1694) 依田五兵衛・下島甚右兵衛門・池田新兵衛が検地し、古い検地帳のとおり日向 (神流川以北)・日陰 (同以南) ともに『上州甘楽郡』と書いた検地帳を受け取った」※17

貢租に関係する文書を年代順に見ると、それぞれの書き出し (または表紙) と宛名における地名 (記載がある場合) は以下のとおりであって、明記されるのは元禄年間(1688〜1704) に入ってからである※18

慶長19年(1614) 年貢割付状: 「下山郷寅年御成ケ相定事」
慶長19年(1614) 年貢勘定帳: 「中山神原村寅御年貢勘定帳」
寛永元年(1624) 年貢請取状: 「納子ノ御年貢臨時浮役之事」「新羽」
寛永8年(1631) 年貢請取状: 「納未ノ御年貢銭之事」「神原」
正保3年(1646) 年貢請取状: 「戌歳下山村御年貢請取事」
寛文2年(1662) 年貢皆済状: 「寅歳中山御年貢請取永之事」
寛文6年(1666) 年貢割付状: 「午年下山村御年貢可納割付之事」「下山村」
天和元年(1681) 年貢割付状: 「酉年下山村御年貢可納割付之事」
元禄4年(1691) 年貢割付状: 「上州甘楽郡下山郷未御成ケ割付」

貞享3年(1686) 山中領総絵図でも国郡の明記はなく、ただ「山中領」と把握されている。 Fig.615: 貞享3年(1686): 山中領総絵図 (左半分・万場町誌(1994)所収)Fig.616: 貞享3年(1686): 山中領総絵図 (右半分・万場町誌(1994)所収)隣接する小川村・大田部村も「秩父郡」ではなく「秩父領」であり、このあたりは国郡が曖昧な場所は、国郡ではなく広域地名で把握されるという点で小豆島とよく似ている (【(21) 小豆島の変遷】を参照)。慶長3年(1598) の検地帳に「上州甘楽郡」とあったというのは、さかのぼって、あるいは文脈で解釈しただけで、実際には国郡は記載されていなかったのではないだろうか。

なお元禄4年(1691) 年貢割付状や依田らによる検地帳 (元禄7年(1694) から実施、元禄11年(1698) に配布) に「上州甘楽郡」とあるように、山中領は上州甘楽郡であるというのは争論以前に既成事実となっていた。空白域として帰属が留保された一方で、上野国であることが明確な領内他村と一体である以上はなるべくしてなったのだろう。

上野国側 (山中領) は最終的に、地理的・客観的な証左を示して自分たちの正当性を示すのを諦め、元禄15年(1702)『口上書』では国界が神流川に定まった場合に発生する弊害を詳細化・具体化することに重点を移した。元禄12年(1699)『申立書』・元禄13年(1700)『願状』でも、

「山中領は険しい山々の中にあるので谷はことのほか狭く、神流川も小河川なので、どの村も田畑・家屋・往来の道路は両岸に存在する。過半数の百姓は神流川をまたいで田畑・家屋を所有している」※19

「薪を日陰 (神流川南岸) の者が (日向、同北岸) に採取することもあれば、日向の者がまぐさを日陰で採取することもあるので、万が一国界が神流川に定まった場合、薪場・秣場を失う村が日陰・日向ともに生じることになる」※20

「神流川をまたいで田畑を所持しているので、国界が神流川に定まった場合、国界を越えて出作するための手続きなどで日陰・日向とも難渋することになる」※21

とあって、国界によってそれを越える田畑の所持・入会地の利用等に制限が掛かって生活が成り立たなくなる、ということが書かれていた。特に薪場・秣場については、不足するものを日向・日陰 (北岸・南岸) で補い合い、助け合って生活しているように読み取れる。このほか、

「山中領の谷には長さ十里あまりの間に秩父への道が 5か所あるが、どれも峠を越える難所である」(中略)「(代官所・陣屋に行く場合) 現在は一日や半日で済むのに、二日も三日もかかることになるだろう」※22

ともあって、代官の支配が変わって秩父側の代官所 (陣屋) に行くことになれば、これまでの倍以上の行程を強いられることも問題点として挙げられていた。

しかし武蔵・下総の国界 (基本的に庄内古川〜江戸川) をまたいだ入会・出作は普通にあって、飛地としての田畑も存在した (【(7) 近代の下総国】(江戸川)を参照、美濃・尾張の国界 (基本的に木曽川) も同じ)。さん権現領に関係する争論における妥協的な裁許からいえば (【(23) 伊豆山権現領に関係する変遷】を参照)、国界を神流川に定めたとしても幕府は現実的な対応をしたと考えられ、わざわざ国界で何らかの制限を設けることはなかっただろう。代官支配も変わらなかったと考えられる。

それを感じ取ったのか、あるいは具体的にそのような話が先行してあったのかはわからないが、元禄15年(1702)『申立状』では以下のように詳細化・具体化された。

「小百姓 (田畑の少ない農民) は、神流川の対岸の細々とした小作田で耕作しているので、それを理由とする慣習を頼りに (対岸で) 薪・秣も採取して生活している。これは山が荒れるので地主は不満だが、今までは双方の名主・乙名百姓 (村の自治にかかわる農民) が話し合い、村内のことして事を荒立たせないできた。もし国界が神流川に定まって村が分かれれば、(不満を感じてきた地主は) 小作田で耕作できないようにするだろうから、農業を続けられない農民が日向・日陰ともにあらわれるだろう」※23

「年貢を納めるのに窮した百姓は、対岸の田畑を質に入れている。この場合も小作田と同じように (田畑があることを理由とする慣習を頼りに、対岸で) 薪・秣を採取していることについて、当分の間とはいえ質に入れた田畑に関しては、薪場・秣場の地主は同意しかねている。その上、別々の村になるようなことになったら、質に入れた土地をそのままにしておくことは難しくなって (すぐに借金を返さなければならない、または薪場・秣場の利用を諦めなければならないから) 日向・日陰とも百姓は困窮することになるだろう」※24

つまり相互扶助もひとつの郷村であるから成り立つのであって、別々の郷村になれば簡単に瓦解することが明らかにされている。このほか焼き畑跡の相互利用 (薪場・秣場) や道・橋の修繕、茅葺き屋根の葺き替え (材料・人手の協力) も成り立たなくなることが記載された。わざわざ開示したい内容ではなかったと思われる。

別の項目によれば、一般の入会地利用に関して、たとえば北岸の万場村が南岸の森戸村の入会地を利用する場合など証文を取り交わすケースもあったが、一般には信頼関係で成り立っていた※25。しかし元禄7年(1694) から実施された依田らの検地では、そのような入会地をすべて書き出すことが要求された。この結果、これまで内々に定めていた取り決めを確認している段階で「悉く出入出来可仕様子」、つまりありとあらゆる入会地でもめごとになる気配があったといい※26、このような経験がこれ自体を書き出すことも含めて、元禄15年(1702)『申立状』の内容に影響を与えたようだ。なお『申立状』では、慶長3年(1598) の検地帳に「上州甘楽郡」とあったという話への言及は 11項目目でようやくあらわれ、それまでの 10項目には詳細化・具体化された弊害が内情を含めて記載され、その姿勢は徹底されていた。

❖浜平村

浜平村 (125a. 楢原村之内 浜平) は、武蔵国側 (秩父村 5村) が神流川右岸 (南岸) の 26村として示した村々に含まれるが、空白域を外れて寛文の上野国郷帳 (および国絵図)※27にも含まれている。 Fig.193: 山中領付近の上野・武蔵国界: 寛文の上野国郷帳・国絵図これは上野国側 (山中領) も元禄12年(1699)『申立書』・元禄13年(1700)『願状』で、

「秩父領の浜平村と (秩父郡 5村が) いっているところは、古絵図では上州分に載っている」※28

と指摘し、武蔵国側 (秩父郡 5村) へ反論する材料にしている。ただし武蔵国側 (秩父郡 5村) の主張が完全ではないことを指摘できても、どの程度の効果があったのかはわからず、元禄15年(1702)『申立状』では言及されていない。

また、全般的に上野国側 (山中領) は国郡と領の区別が曖昧で、ここでも「秩父郡」ではなく「秩父領」としている。武蔵国側 (秩父郡 5村) は、少なくとも『元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状』で浜平村を「秩父領」とはいっておらず、また「秩父領」の村であれば (実際にはないが) 論理的に上野国にあってもかまわないので、意味のない主張になってしまっている。ただし裁許する幕府もまた、これを正しく理解しているのかどうかは、地理的・客観的な議論と実体的・主観的な議論を区別できているのかどうかも含めて怪しい。

なお、浜平村だけ特別な扱いになったのは、同村の周囲一帯 (神流川源流部) に御巣鷹山が多く設定されていたため (具体的な山名として現在も残るのが標高 1,639mの『御巣鷹山』)、両岸の一体性が優先されたためだろう。正保の上野国郷帳・国絵図のときからであるのかどうか、またその場合に関係者すべての合意の上であるのかどうかはわからない。

❖寛文の上野国絵図

寛文の上野国郷帳に対応する中川忠英旧蔵の上野国絵図のうち、碓氷・片岡・甘楽・多胡郡・緑野・群馬・我妻各郡を含む部分はデジタル (オンライン) 公開されていない。撮影されたものがカラーポジフィルムで提供されており、申請すれば国立公文書館で閲覧したり、有料で複写物を取り寄せることはできる。この下絵と考えられている群馬県立文書館所蔵の上野国絵図も撮影されたものを館内で閲覧することはできるが、デジタル (オンライン) 公開はされていない。したがって本稿執筆時点で筆者は参照できていない。

このため本稿では、平成29年(2017) 10月〜平成30年(2018) 2月に群馬県立文書館であったテーマ展示「二つの上野国絵図—寛文と元禄—」の図録 (またはパネル) から読み取った。説明には具体的に小倉山・諏訪山の地名も示されている。なお同図録 (またはパネル) はブログ「まほろば」2017年11月17日記事 (http://mahoroba3.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-482e.html) に抜粋されていたものを参照させていただいた。

❖元禄の上野国絵図

2点の写しが群馬県立文書館に所蔵されている。 Fig.617: 元禄の上野国絵図1点目は「元禄十五年上野国絵図」(P8710)、前橋市の高野清旧蔵。「元禄期 郷村絵図写 (西毛地域1)」などとして『群馬県史 資料編9〜16 (近世1〜8)』(1977〜1988) に「写」が収録されているが、絵図としての情報はほぼすべて無視され、「写」といえるようなものではない。『元禄上野国絵図の記載内容について』(1989, 斉藤, 双文6) に文字情報と寺社等オブジェクトの一覧がある。県史では『資料編9〜16 (近世1〜8)』(1977〜1988) で「前橋市立図書館蔵」とされ、斉藤によれば昭和62年(1987) に群馬県立文書館に寄託 (移管)、県史も『通史編4』(1990) では「県立文書館収蔵 (高野清氏寄託)」とある。なお県史の翻刻では、山中領だけでも「小平」「間物」(もとの表記はそれぞれ『小平村』『神原村之内間物』) が脱落している。斉藤によればもとの絵図 (P8710) には正しく含まれている。

Fig.622: 元禄の上野国絵図 抜粋翻刻版 (部分・群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1(1977) NDLDC#9641199 所収)

2点目は「倉林秀昭家文書」(P0907) に含まれる「元禄上野国絵図」、伊勢崎市の倉林秀昭旧蔵。『伊勢崎の村絵図 第1集』(1982) に全体の写真 (周囲はトリミング、口絵) と佐位郡・那波郡部分のモノクロコピー・翻刻が収録されている。絵図ごとの所蔵者は明示されていないが、一覧にある「倉林操」が当時の所有者とみられ、のち倉林秀昭から群馬県立文書館に寄贈か寄託されたのだろう。

その来歴により広く知られてきたのは前者、どちらも閲覧・公開の状況は寛文の上野国絵図と同じ。

❖元禄の上野国郷帳

2点の写本が存在する。

1点目は『群馬県史 資料編9〜16 (近世1〜8)』(1977〜1988) で「渋川市立図書館蔵」として参照されているもの。寛文・元禄・天保で 1つにまとめた表に石高・支配だけが掲載され、元の表記・配列はわからない (群馬県史は国絵図・郷帳の史料的な価値を見出していないように感じる)。

2点目は『上野国郷帳集成』(1992) に収録されているもの。同書によれば「東京大学法学部法制史資料室所蔵」、斉藤の村名一覧の配列と「郷帳石高」も同室所蔵のものによっている。『上野国郷帳集成』(1992) は県史を含む既存の文献について「原本の体裁を維持しておらず」と指摘し、その不正確さを補った上で可能な限りそのままの形式でまとめている。

❖石高表記

『神川村郷土誌』(1910) は「当時の石高を記したるもの」として天正11年(1583) 以降 (厳密な時期は不明) の各村石高 (村高) を示している。しかし山中領の村々が石高で把握されるのは、元禄年間に入って依田らが行った検地 (元禄7年(1694) から実施、元禄11年(1698) に検地帳を配布) からであって、それまでは永高である。升の数値が 0か 5であることからいっても「当時の石高を記したるもの」は直接の史料ではなく、また数値も換算値だろうと思われる。

❉1: 現在は中里村・万場町で合併し神流町、中山郷・下山郷が行政的にはひとつになっている。
❉2: この神川村は旧・万場町が町制施行・改称する以前の神川村のことであり、近接する現・埼玉県 児玉郡 神川町の前身のひとつである旧・神川町が町制施行する以前の神川村のことではない。
❉3: 武蔵国側 (秩父郡 5村) の文書としてはこれしか見当たらない。
❉4: 原文: 「武藏國と上野國境目往古より神名川國境に紛無御座候。神流川を限り南東川上は秩父郡、川下は兒玉郡にて御座候」(中黒・句読点は筆者が補う)。
❉5: 原文: 「秩父領と山中領との境往古より志賀坂峠・小越峠・坂丸峠・土坂峠、領境目に御座候」(同)。
❉6: 原文: 「野栗権現祠官・黒沢石見守裁許状所持仕候ニ付、写取申候。右裁許状、武州秩父郡山中野栗権現の祠官・黒沢石見守と御座候」(同)。
❉7: 原文: 「戸野村妙見祠官・宮前和泉守裁許状所持仕候。右裁許状に武州児玉郡山中妙見祠官宮前和泉守と御座候」(同)。
❉8: 原文: 「神流川を隔て上野の内相原村丹生明神の祠官、裁許状所持仕候。右裁許状には上州甘楽郡相原村丹生明神祠官宮前伊勢様と御座候」(同)。
❉9: 原文: 「新羽村之内野栗権現之社人石見儀、元禄三午ノ年、武州秩父領大宮近江守方ゟ之添状ヲ取、京都へ持参仕、吉田様ゟ御裁許状頂戴仕候節、武州秩父郡野栗と御書出シ被下候ニ付、上州甘楽郡ニ而御座候段、再三御断申上候得共、添状之通御裁許状被下候」(句読点は筆者が調整)。
❉10: 原文: 「生利村之内戸野妙見之社人和泉儀、貞享四卯年、武州秩父郡大宮村宮本方ゟ添状取上京仕、吉田様ゟ御裁許状被下候ニ、武州児玉郡山中下山と有之候へ共、無何心頂戴仕罷帰候、以後国郡共ニ相違仕候儀心付候へ共、又々京都へ罷上り候儀難成候故、其通ニ存罷在候由和泉申候」(同)。
❉11: 万場町誌(1994)。
❉12: 原文: 「武州鎮守妙見本社、秩父郡大宮□に御座候。右妙見勧請致所、武州の内所々に御座候。右弐拾六ケ所の内にも妙見の社二ケ所御座候」(句読点は筆者が補った)、 □は活字が欠けているが、残る部分と文脈上「町」。
❉13: 原文: 「秩父方ヨリ、峰切ニ国境相立候而茂、何ニ而もさわり無之由、御検使両人江口上書致候」(同)。
❉14: 原文: 「同所妙見社棟札にも武州小玉郡苅治鄕殿村と御座候」(同所 = 戸野村)、『元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状』。
❉15: 原文: 「生利村之内戸野妙見之棟札ニ武州児玉郡と御座候、惣而文字不分明ニ御座候」、元禄13年(1700) 2月『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』。
❉16: 元禄12年(1699) 5月「山中領村々上州・武州国境論争申立書」に「慶長三戌年伊奈備前守様御検地之節も、秩父と山中領一同ニ御縄御入被成候へ共、峯ヲ限山中領之儀者、上州甘楽郡と御水帳ニ被遊候」(句読点は筆者が調整) とある。元禄13年(1700)『願状』にも同様の内容がある。
❉17: 原文: 「去戌丑年依田五兵衛様・下嶋甚右兵衛門様・池田新兵衛様御検地被遊、古御水帳之通リ日向日影共ニ上州甘楽郡と御縄申請候」。
❉18: すべて『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) 所収。
❉19: 原文: 「山中領之儀者山𡸴岨ニ御座候ニ付、殊外谷せまく神流川も小川ニ而御座候故、谷一同ニ一村之田地・家居・往行道筋共ニ神流川ヲまたぎ入組申候」(中略)「田地・屋敷之儀ハ、神流川通十里余之内川をまたぎ過半有之、双方百姓所持仕候」、元禄13年(1700)『願状』にも同様に記載されている。
❉20: 原文: 「薪を日影之者取申候ヘハ、日向之者馬草ヲ日影ニ而取来候も御座候ニ付、万一川切ニも罷成候節ハ薪場ニはなれ、又馬草場ニはなれ申様成村双方ニ御座候」、同。
❉21: 原文: 「神流川をまたぎ田地所持仕候ニ付、川切ニ国境相立申節ハ、国ヲまたぎ出作仕候儀、御用等諸事双方之難儀ニ罷成候」、同。
❉22: 原文: 「山中領谷長十里余之内ニ秩父方江道筋五ケ所有之、何も峠を越難所ニ御座候」(中略)「只今迄一日半日ニ相済候儀も、二日三日かゝり可申と奉存候」、同。
❉23: 原文: 「小百姓者、神流川をまたき小作田地入組為作申候ニ付、其由緒を以薪秣取渡世送り申候、是者山荒申候故地主者望不申事ニ候得共、壱郷壱村故双方名主乙名百姓相談相対を以左様ニ仕来申候、若神流川切ニ国訳り申候ハゝ、川をまたき小作田地為作申間鋪候様ニ奉存候、然者渡世ニはなれ候百姓日向日影ニ出来可仕と奉存候」。
❉24: 原文: 「御年貢ニ指詰り申候百姓者、川またき田地しちニ入置、御年貢御上納仕来候、是又小作田地同前ニ薪秣為取申候ニ付、当分迚茂他村へしち物ニ為入候儀者、其所之者同心仕兼候、殊ニ国をまたき候而者しち地指置候儀不自由ニ罷成、日向日影百姓困窮ニ可罷成と奉存候」。
❉25: 「秣薪入相之事、神流川をまたき日向之方万場村・日影之方森戸村、証文ニ而入相申候」(中略)「右之外神流川をまたき日向・日影村々百姓、壱郷壱村ニ而御座候得者、証文無御座互ニ心入ニ而」(中略)「内証ニ而永々之儀、当分和談ニ而相極候」 (中黒・句読点は本稿で調整)。
❉26: 「山林入会之場所、御究御水帳ニ御載可被成由候 仰渡候ニ付、内証吟味仕候所ニ、悉ク出入出来可仕様子ニ御座候」 (中黒・句読点は本稿で調整)。
❉27: 前述のように筆者は確認できていないが、写しで脱落していなければ含まれている。
❉28: 原文: 「古絵図々面神流川元ニ川ヲまたぎ秩父領之浜平村と申所、上州分ニ載り相見へ申候」、元禄13年(1700)『願状』にも同様に記載されている。
❖天保郷帳・国絵図の村々※1
Fig.191: 山中領付近の上野・武蔵国界: 寛文の上野国郷帳・国絵図

近世 上野国 甘楽郡

111. 柏木村
111a. おおより※2※3※4
111b. 中島※2※4
112. 生利しょうり
112a. じま※3※5
112b. ※6※5
113. 万場村
114. しおざわ
115. くろ
116. あいばら
117. ふな※7※8
117a. 上舟子※9※10
117b. さわらもり※10※11
117c. 白石※9※10
117d. たかしお※9※10
117e. 矢羽沢※6※10
118. 魚尾よのお※12※9
118a. 上小越※6※13
118b. しもごえ※6※13※14
118c. 桜井※6※13
118d. 伝田郷※6※13
119. 神原かがはら※9※15
119a. さんかわ※6※16
119b. 明家みょうけ※6※16
119c. 瀬林せばやし※6※16
119d. もの※6※16
120. ばら※17※9
120a. 持倉※18※19
120b. ようくら※20※19
120c. 橋倉※21※19
120d. 山室※9※19
120e. 土屋※6※19※22
121. づく※23
121a. そうきり※6※24
122. 勝山村※9
122a. 向屋※9※25※26
123. おと※27
124. 乙父おっち※28
124a. ※29※30
124b. かきだいら※31※30
124c. とお西にし※9※29
124d. 住居附すもうずく※6※29
124e. 乙父沢※6※29
124f. 中村※6※29
124e. 田平※6※29
124f. 檜平※6※29
124h. より※6※29
125. 楢原村※32※33
125a. 浜平※9※34
125b. 白井※9※34
125c. 中沢※6※34※35
125d. 神行※6※34
125e. 黒川※6※34
125f. 塩野沢※6※34※36
125g. 須郷※6※34
125h. 楢沢※6※34
125i. 堂所※6※34
125j. 中越※6※34
126. 麻生あそう※2※3※37
127. もり※38※37
128. 小平村※37
128a. ※39※40※41
128b. 坂井※9※40
128c. 古田ふった※9※40※42
129. 青梨子村※37※43※44
129a. 高谷木※37※45※46
130. 新羽村※37
130a. 八幡※37※47
130b. 野栗※37※47
131. ぐりさわ※37※48
131a. 奥名郷※49
132. かわ※37
132a. 門川※37※50

近世 武蔵国 秩父郡

50. 上吉田村※51
50a. 小川※52
50b. 女形※52
68. 中津川村
69. 河原沢村
70. 三山村※53
78. 日尾村
79. 藤倉村
78・79. 長久保※54
❖泉龍寺大般若経奥書

上野村 泉龍寺に現存する写経奥書、『群馬県史 資料編6 中世2 編年史料1』(1984) 所収。第23巻に「願主西上州甘樂之郡山中之內遠西村之住輩」などとあるのは天和2年(1682) 8月の後筆。

❉1: 武蔵国は武蔵田園簿・正保年中改定図・元禄郷帳・元禄年中改定図、上野国は寛文郷帳との対照を含む。
❉2: 元亀2年(1571): 「山中之內」「あそふ村」「をより」「なか嶋」(北条氏邦印判状、新編埼玉県史 資料編6 中世2 古文書2,1980)。
❉3: 天正17年(1589): 「阿相之內、飯嶋之內、大より窪地、合而三ケ所」(北条家充行状写、群馬県史 資料編7 中世3 編年史料2,1986)。
❉4: 天保国絵図では「柏木村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉5: 天保国絵図では「生利村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉6: [新田・分村] 寛文郷帳には含まれない。
❉7: 寛文郷帳では「下舟子村」。
❉8: 現在の表記は「船子」。
❉9: 寛文郷帳では「〜村」。
❉10: 天保国絵図では「舟子村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉11: 寛文郷帳では「榒森村」。
❉12: [中世〜織豊期] 文明15年(1483): 「魚尾」(中山神社鰐口銘、群馬県史 資料編8 中世4 金石文,1988)。
❉13: 天保国絵図では「魚尾村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉14: 万場町誌(1994) では「しもごえ」と読んでいる箇所がある。
❉15: 現在の表記は「神ケ原」。
❉16: 天保国絵図では「神原村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉17: [中世〜織豊期] 永禄7年(1564): 「其上本庄・久〻□迄放火」「今日平原迄帰陣候」(武田信玄書状写、群馬県史 資料編7 中世3 編年史料2,1986)。
❉18: 寛文郷帳では「持蔵村」。
❉19: 天保国絵図では「平原村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉20: 寛文郷帳では「八蔵村」。
❉21: 寛文郷帳では「橋蔵村」。
❉22: 神流川の流域にはなく、分水嶺より北側にある。現在は下仁田町 平原。
❉23: 寛文郷帳では「尾付村」。
❉24: 天保国絵図では「尾附村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉25: 永徳元年(1381): 「こうや」・永徳2年(1382): 「上州上山庄之內紺屋住」・「於上州上山莊之內、紺屋在所」(泉龍寺大般若経奥書)。
❉26: 天保国絵図では「勝山村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉27: 年月日不詳: 「小友」・永徳2年(1382): 「黑田鄕 小共村」(泉龍寺大般若経奥書)。
❉28: 永徳2年(1382): 「旦那 四郎五郎 越智」(泉龍寺大般若経奥書)。
❉29: 永徳元年(1381): 「おはる」(泉龍寺大般若経奥書)。
❉30: 天保国絵図では「乙父村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉31: 永徳2年(1382): 「かき平」(泉龍寺大般若経奥書)。
❉32: [中世〜織豊期] 永徳2年(1382): 「越智」(泉龍寺大般若経奥書、群馬県史 資料編6 中世2 編年史料1,1984)。
❉33: [中世〜織豊期] 寛文郷帳では「奈良原村」。
❉34: 天保国絵図では「楢原村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉35: 現在の表記は「中之沢」。
❉36: 現在の表記は「塩之沢」(河川は『塩ノ沢』)。
❉37: 寛文郷帳には含まれない。
❉38: 南北朝期: 永徳元年(1381): 「甘樂郡森戶檀所」など (泉龍寺大般若経奥書、群馬県史 資料編6 中世2 編年史料1,1984)。
❉39: 寛文郷帳では「尾井土村」。
❉40: 天保国絵図では「小平村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉41: 現在の表記は「大井戸」
❉42: 天保国絵図では折り目にあって判読できない。
❉43: [中世〜織豊期 天正12年(1584): 「天正十二年之棟札ニ、大日本国上野髪流川之郡青梨子郷与御座候写差上ケ申候」(元禄13年(1700) 2月「山中領村々上州・武州国境画定につき願状」内、群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1,1977)。
❉44: 対応する近代の大字は「青梨」。
❉45: 天保国絵図では「青梨子村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉46: 現在の表記は「高八木」。
❉47: 天保国絵図では「新羽村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉48: [中世〜織豊期] 永正2年(1505): 「上野州上山庄奈良村」(中略) 「小旦那野栗澤之道覺 同道金入道」(野栗沢神社棟札銘、群馬県史 資料編8 中世4 金石文,1988)。
❉49: 天保国絵図では「野栗沢村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉50: 天保国絵図では「川和村之内」と付記される (天保郷帳には含まれない)。
❉51: [中世〜織豊期]: 天正2年(推定, 1574): 「上吉田 代官 百姓中」(北条氏邦(カ)印判状写、新編埼玉県史 資料編6 中世2 古文書2,1980)、ほか。
❉52: 元禄年中改定図では「上吉田村ノ内」、天保国絵図では「上吉田村之内」と付記される (元禄・天保郷帳には含まれない)。
❉53: [中世〜織豊期]: 至徳2年(1385): 「至徳二年乙丑十月晦日於武州路秩父郡三山郷岩殿山之麓姫宮松本平」(塩船観音寺大般若経奥書、秩父武甲山総合調査報告書 下巻,1987)、ほか
❉54: 元禄年中改定図では「日尾・藤倉村ノ内 長久保」、天保国絵図では「日尾村・藤倉村之内」と付記される (元禄・天保郷帳には含まれない)。