天正10年(1582) 6月2日未明、遠征に向けて本能寺に宿泊していた織田信長を明智光秀が急襲、信長は寺に火を放って自害し、すでに家督を譲られていた長男・信忠も二条御所 (二条新御所) で自害に追い込まれた (本能寺の変)。羽柴秀吉はこの知らせを受け、ただちに備中高松城から京へ駆け戻って光秀を破った (山崎の戦い)。これによって秀吉は同月27日に行われた清洲会議で発言力を強める一方、信長の次男・信雄と三男・信孝は後継者争いから排除され、不満を高める。
しかし、秀吉は信孝と協調する柴田勝家らを天正11(1583) 賤ケ岳の戦いで破り、続いて徳川家康と手を結んだ信雄も天正12年(1584) 小牧・長久手の戦いで屈服させた。その後、天正17年(1589) 秋、美濃国の総検地が行われ、ここで尾張国 葉栗郡・中島郡から近世 美濃国 羽栗郡・中島郡が分割され、さらに天正18年(1590) 秋、信雄退去後の知行再編成・検地のなか尾張国 海西郡から近世 美濃国 海西郡が分割され、ここで江戸初期までの尾張・美濃国界が定まった。

詳細は『21. 木曽川・伊勢湾』を参照。