当地は戦国期から織豊期にかけて、当地は蒲生氏に対する島津氏の前線となって、大隅国でありながら薩摩国の延長のようにみなされつつあった。そこへ天正15年(1587) 3月、豊臣秀吉は大軍を率いて九州への侵攻を開始する。島津義久は抵抗を試みたものの、大軍を前に総崩れとなって撤退を余儀なくされ、同年 5月には降服した。秀吉はこれを受けて義久に薩摩国、義弘 (弟) に大隅国 (一部を除く) を安堵し、このとき大隅・薩摩国界は確定して、当地 (のち吉田郷) は薩摩国として把握されることになった。

詳細は『17.2.1. 吉田郷』を参照。