第1編近世の国絵図
4. 国絵図

国絵図とは、文字どおりに「国(クニ)」について原則 1国単位で作成し、山や川などの自然物を背景として国界・郡界といった境界情報、行政上の最小単位である村々の位置とその生産性 (石高、古くは貫高)、主要街道とその交通情報などを書き込んだ絵図をいう。

記紀によれば古代、律令体制下においても作成されたとされるが、現存しないのはもちろんのこととして、断片的な記録に残るのは作成指示や献上があったことを伝えるだけで、どのような内容だったのかさえはっきりしない。全国 (68国の全体) を描いた絵図には「行基図」が知られているが、文章で示された位置関係や距離情報から作成できるようなものであり、ベースに国絵図が存在するのかどうかはわからない。

その後、中世 (鎌倉・南北朝・室町・戦国期) に入ると、国絵図が作成されたという記録自体が見当たらなくなる。鎌倉・室町両幕府の政権としての性質、特にどこまで全国を広く支配したのかやその強度・深度に関する議論はともかく、土地の支配に関しては荘園・公領 (国衙領) に基づく鎌倉幕府と、その成立の過程で力を蓄えていった守護大名とは相互依存関係にあった室町幕府には、全国的な国絵図を作成することはできなかったか、そもそもその必要性を見出せなかったのだろう。

状況が変わるのは近世 織豊期に豊臣政権が成立してからで、全国規模で検地を行った秀吉は国郡単位の「御前帳」の提出を指示し、これにともなって国絵図が作成された。この国絵図もいっさい現存しないのでその詳細は明らかではないが、同時期に作成された「慶長二年越後国絵図」の内容や、徳川政権が検地を含む土地の支配体制に関しては豊臣政権の延長線上にあることからいって、後述の慶長国絵図と大きく違うものではなかったと考えられる。