徳川政権 (江戸幕府) の指示によって全国一律的に作成された国絵図には慶長・正保・元禄・天保の 4回、またはこれに寛永のものを含めた計5回のものが知られている。
「慶長国絵図』は江戸幕府の指示によって全国一律的に作成された国絵図のうち最初のものである。慶長9年(1604) に作成指示の通達が発布され、多くは慶長10年(1605) のうちに完成・献上されたが、一部は翌年までずれ込んだようだとみられる。しかしその後の国絵図に比べれば完成までの期間はかなり短く、提出前の内容確認 (伺い) はなく、そのまま受領されたものと考えられる。
| 時期 | 慶長9~10年(1604~1605)、一部は慶長11年(1606) か。 | |
| 幕府責任者 (総奉行) | 西尾吉次・津田秀政 | |
| 分量 | 国絵図 3通・郷帳 3冊。 | |
| 確認 | 提出前の内容確認はなかったとみられる。 | |
慶長国絵図はもっとも古いことから、正本は現存せず、写本も確実に慶長国絵図といえるものは和泉・摂津・周防・長門・筑前・豊後・肥前・肥後の 8国と、近世は讃岐国の一部として把握される小豆島の絵図に限られる。
『慶長和泉国絵図』・『慶長摂津国絵図』、および『慶長小豆島絵図』は、余白部分 (畾紙) に記載された目録の奥書相当の部分に慶長10年(1605) 9月または 10月の日付が記載されていることから、慶長国絵図であると明確に確認できる絵図である。この 3図は様式と記載されている作成者名も共通する。ただし『慶長摂津国絵図』の淀川以南 (図の右下端) は描写がまったく異なり、内容も慶長10年(1605) 以前としては矛盾があるため、あとから書き加えられたものと考えられている。つまり『慶長摂津国絵図』といえるのは淀川以南を除く部分である。
『慶長肥前国絵図』も、作成の経緯が明確に記載されていることから、同様に慶長国絵図であることが確認される。ほかの国絵図には年月日や経緯の記載はないが、描かれている景観や事物、共通する様式から確実といえる。
一方、慶長国絵図である可能性が指摘されているものに越前・備前・阿波の 3国があり、慶長国絵図でなければ描かれないといえるような特徴に乏しく、様式もほかとは異なることから結論は出ていない。
慶長国絵図は経緯に関係する史料も乏しく、系統立ててまとめることは難しい。しかし現存する各図には共通点が存在する。何よりも特徴的であるのは形状の不正確さで、元禄・天保国絵図を完成形とすれば隔たりは大きく、そこには何らかの主観が内在する。これは厳密な実測をともなわないで作成されたという意味でもあるし、絵図によってはそもそも正しく伝えることよりも、全体のバランスや仕上がりの美しさに重点が置かれているという意味でもある。
また慶長国絵図は、その後の国絵図に比べて様式が十分に統一されていない。土佐藩の記録によれば、作成指示の通達では、絵図にも郡ごとに田畑別の石高を記載すること、国界 (国境) には注意を払うこと、絵図と郷帳とで数値に差異がないことが求められたが、様式についてこのほかは明文化されなかった。しかし実務レベルでは細かな指示・質疑応答があったことが同じく土佐藩の記録によって知られる。現存する各図の実際とともにまとめれば以下のとおりである。
| 城下 | 特に指示はなかったと思われ、具体的に描写するものがある (周防・長門・肥前、および岩山で表現する筑前の一部)。ただし大きさはどれも控えめで、周囲の縮尺を無視して大きく描くものはない。 | |
| 村 | 土佐藩の記録における実務レベルでは、オブジェクトは円 (真円または楕円) とし、村名をその中に墨書きし、村高はその外に朱書きするという指示だった。現存する各図では、村高はどれもオブジェクトの外に記載されている。しかしオブジェクトの形についてはそれぞれだったようで、統一されていない。周防・長門・肥前は短冊形である。村名については接頭辞を記載しない例があり、また漢字仮名交じり表記も混在する。 | |
| 宿駅 | 区別はみられない。 | |
| 郡 | 田畑別の石高を集計して記載すること (通達)、または石高と田畑別の員数 (面積) および村数を集計して朱書きすること (実務レベル) を求められた。様式や記載位置 (郡内か目録か、または両方か) は明確化されなかったとみられる。 | |
| 見出し | 現存各図では短冊形の枠で囲むものが多く、かつそのバリエーションも多い。 | |
| 境界 (郡界) | 統一されていない。 | |
| 街道 | ほかとは異なる色で描くことを求められたものの (実務レベル)、色の指定はなかった。しかし実際には朱の線で統一されている。一里塚・道程記載は基本的になく、前者はあっても記号が統一されていない。本道・脇道の区別は摂津が唯一の例外で、ほかはない。 | |
| 航路 | 海に接していても線で表現されていないものが多い。 | |
| 国界 (国境) | 注意を払うことが求められたが (通達)、それ以上のことは要求されなかったとみられる。 | |
| 国境 記載 | あっても簡単な表記が多い。 | |
| 隣国 色分け | 例外 (摂津) を除いて施されていない。 | |
| 方角記載 | ないものがある。また例外的な形式も存在する。 | |
| 川幅記載 | なし。 | |
| 目録 | 有無・形式とも統一されていない。 | |
現存する各図のうち、正保以降の様式に近いのは『慶長摂津国絵図』であり、本図が規範となって様式は統一されていったのではないだろうか。しかし『慶長摂津国絵図』は、前述のとおり摂津国の全体を描いていないという点ではいまだ不完全である。つまり国単位に作成されるべきという本質が慶長国絵図では徹底されていない。目録には「此外 六万千八十石欠郡内東成分河内國御帳入」と記載され、描かれなかった部分は河内国に含められている。これは当時まだ健在の豊臣秀頼が大坂城にあったためと考えられる。
『慶長肥前国絵図』はこの傾向がもっとも顕著で、肥前国ばかりでなく壱岐国の全体と肥後国 天草郡、および筑前国 怡土郡の一部まで含めて描かれ、各支配者の所領はすべて含められている。あるいは所領の範囲に関係なく国郡単位に絵図を作成するということそれ自体が、江戸初期にあってはいまだ理解を超えるものだったのかもしれない。対応する『慶長肥後国絵図』では天草郡だけ様式が異なり、村のオブジェクトはこの部分だけ肥前と同じ短冊形である。摂津の淀川以南と同様に本来は描かれず、あとから追加されたものと推定される。
なお、慶長国絵図は現存する各図が未確定のものも含めて北陸以西に偏ることから、全国一律に作成が指示されたわけではなく、西国に限られるのではないかとする考え方もある。