「くにざかい」は「国境」とも「国界」とも書くことができ、現在普通名詞として一般的なのは「国境」だが、本稿では区別のため「国界」と表記した。「国界」のほうが線を想起しづらいためでもある (国境では『国境線』を連想してしまう)。現在でも場所によってはそうだが、近代より前のサカイは点の集合であって、その間隔は遥かに粗い。読みは訓読の「くにざかい」でも音読の「コッカイ」でも、どちらでもかまわない。本稿の表題で音読しているのは単に語呂の問題である。
律令制における「国 (クニ)」やその下位の枠組みである「郡(コオリ/グン)」の原形は、律令体制が構築されるよりも前から存在し、のちにその中央集権組織 (ヤマト王権・大和朝廷) に取り込まれることになった、さまざまな地方勢力の版図にある。たとえば備前・備中・備後 (および美作) の原形は「吉備国」であり、上野・下野も「毛野国」が分割されたものだとされる。もっともそれらはあまりにも古く、文字による史料、あるいは史料そのものが非常に限られるため、具体的にわかることはほとんどない。
これを省いて大宝律令が成立した大宝元年(701) 以降をまとめると以下のような変動があった。記載がなければすべて『続日本紀』による。
| 年 | 変動 |
|---|---|
| 大宝2年(702) 3月17日 | 越中国の一部 (頸城・魚沼(または『いおぬ』、 現在の読みは『うおぬま』)・古志・蒲原の 4郡) が越後国に編入された。 |
| 和銅元年(708) 9月28日 | 越後国に出羽郡が設置された。既存の郡の分割ではなく、拡張された部分が正式に郡として建置されたものと考えられる。 |
| (大宝2年(702) 4月15日以後) 和銅2年(707)6月28日以前 | 日向国の一部から薩摩国が分置され、多褹島 (多褹国、現在の種子島) が建置された。『続日本紀』の大宝2年(702) 4月15日の記事には「筑紫七国」とある一方、和銅2年(707)6月28日の記事には具体的に「薩摩・多禰国司」(中黒は筆者が補う) があらわれる。なお、慶雲3年(706) 7月28日の記事には「九国三島」とあって、ここに薩摩国・多褹 (禰) 島が含まれると考えることもできるものの、この時点では大隅国がまだ成立していないので解釈が難しい。「九国」を仮に筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・対馬とすると、「三島」は壱岐・多褹 (禰) だけになってしまうから足りず、「三島」を壱岐・多褹 (禰)・対馬とすれば「九国」が足りない。 |
| 和銅5年(712) 9月23日 | 出羽国が建置された。明示はないが出羽郡が独立したものと解釈される。 |
| 和銅5年(712) 10月1日 | 陸奥国の一部、最上・置賜 (現在の読みは『おきたま』) の 2郡が出羽国に移された。 |
| 和銅6年(713) 4月3日 | 丹波国から丹後国、備前国から美作国、日向国から大隅国がそれぞれ分置された。なおこのときの大隅国は 4郡、のち桑原郡、天平勝宝8年(756) 菱刈郡が分置された。 |
| 霊亀2年(716) 4月19日 | 河内国の一部、大鳥・和泉・日根の 3郡から和泉監が分置された。 |
| 養老2年(718) 5月2日 | 越前国の一部、羽咋・能登・鳳至・珠洲の 4郡から能登国、上総国の一部、平群・安房・朝夷 (現在の読みは『あさい』)・長狭の 4郡から安房国、陸奥国の一部、石城・標葉 (近代の読みは『しねは』)・行方・宇太・亘理の 5郡から石城国・石背国がそれぞれ分置され、このとき常陸国の一部 (多珂郡、現在は『多賀』の一部) が菊多郡として石城国に含められた (地理的に無理のある部分を誤りとした解釈による)。しかし石城国・石背国が史料上確認できるのは養老年間(717~724) に限られるため、間もなく陸奥国の戻され、常陸国の一部もそのまま陸奥国になったと考えられる。 |
| 養老5年(721) 6月26日 | 信濃国の一部 (郡は不明) から諏方 (諏訪) 国が分置された。 |
| 天平3年(731) 3月7日 | 諏訪国が信濃国に戻され、その一部となった。 |
| 天平12年(740) 8月20日 | 和泉監が河内国に戻され、その一部となった。 |
| 天平13年(741) 12月10日 | 安房国が上総国に戻され、その一部となった。また能登国は越中国に編入されその一部となった。 |
| 天平勝宝9年(757) 5月8日 | 能登国・安房国・和泉国が再び分置された (改元は年始までさかのぼるため記事上は天平宝字元年)。 |
| 弘仁14年(824) 3月1日 | 越前国の一部、加賀・江沼の 2郡から加賀国が建置された (日本紀略)。 |
| 天長元年(824) 10月1日: | 多褹島が廃止され、大隅国に編入された (『日本後紀』)。 |
上記の天長元年(824) 多褹島の廃止をもって 68国は確定し、以後固定化された。本稿で扱うのはこれ以後の変動である。