18.5. 地誌の見方

『長野県町村誌』の各村でもかつて甲斐国だったことが触れられている。「落合村※1」には、項目「境川」と「古戦場」に以下のように記載されて、明らかに甲陽軍鑑の影響を受けている。

長野県町村誌: 落合村: 境川

一名立波川 *中略* 昔甲信の境と云ふ。國界たるを以て境川と號く。中昔國境沿革して、甲六川を以て、甲信の界を定むと云ふ。

長野県町村誌: 落合村: 古戦場

深志の城主小笠原長時諏訪賴茂、兩旗を以て甲州へ亂入す。甲信の境、瀨澤合戰と武田記に見へたり。

「本郷村※2」では冒頭に以下のようにあって、瀬沢に近いことと「天文年中」とあることから落合村と同じだろうと思われる。

長野県町村誌: 本郷村

里老云、往古甲斐國巨摩郡たり。今の立場川甲信の境たり。天文年中本郡に屬す

境村※3では冒頭に以下の記述があって、立場川や瀬沢から遠いためかシンプルである。

長野県町村誌: 境村

本村古時、甲斐國巨摩郡に屬す。年暦不詳本郡に屬すと云ふ。

一方『甲斐国志』には第47巻に以下のような記述がある。Fig.712 文化11年(1814): 甲斐国志 第47巻 浄書本 (部分・国立公文書館所蔵)

甲斐国志 第47巻

立場川 (立端川) 以南、甲六川 (甲陸沢) 以北を里人は「南山裏」とも「界筋」ともいう。18村は高 1万石余で諏訪藩領 (諏訪因幡守領分) である。立場川 (端川、『立』欠) は、古くは「界河」といい、すなわち甲信の境である。武田信虎のとき信州に属したという。のちに開墾した村里を「十箇所新田」と称する。

タツ川以南カウロク澤以北ヲ里人南ミ山ウラトモ界筋トモ云十八村高一萬石餘諏訪因幡守領分也端川古ヘ界河ト云乃甲信ノ界是ナリ武田信虎ノ時信州ニ属スト後ニ墾辟セシ村里ヲ十箇所新田ト称ス

立場川と「十八村」の両方に触れた、いわばハイブリッドな記述となっているのは信濃国の地理に明るくないためと思われる。あまり考えられないが、立場川については全体ではなく最上流部だけを指しているのであれば、矛盾はない。

なお、これらに影響を与えているものに「御証文」がある。寛永年間(1624~1644) のころ、甲斐国 巨摩郡 ※4ぶちざわ村と信濃国 諏訪郡 蔦木村 (近世 上蔦木村・下蔦木村) ほか 8村の間で、八ケ岳山麓の入会地をめぐって争論 (山論) が起こり、正保2年(1645)『八ケ岳山論裁許状』※5によれば以下のような裁許が下った。

八ケ岳山論裁許状

長谷沢ゟ境川迄、如先規之双方可為入相

つまり「長谷沢」(甲六川の上流※6) から「境川」(立場川) までは先例のように双方入会地として利用できるとされた。ただしその後の状況から、小淵沢村が利用できたのは、厳密には山麓を横断する棒道※7で南北を分けた場合の北側に限られた※8

この結果、入会地については甲斐国 巨摩郡 逸見筋の小淵沢村が国界を越えて入ってくることが公式に認められ、変動後の甲斐・信濃国界である甲六川とは別に、入会の限界である「立場川上流」が認識されるようになった。生活に直結する重要な境界として、いわば地籍上の境界に過ぎない国界よりも強く意識されるものだったかもしれない。元禄2年(1689) 12月には、乙事村・立沢新田村でこれを明文化した史料が残っており、裁許そのものも「正保の御証文」や単に「御証文」と呼ばれ、八ケ岳山麓の入会地を利用する各村にとっては絶対的なものとして扱われた※8

なお、これらの「境川」と『神使御頭之日記』の「堺川」は通用した期間が重ならず、また認識した主体も異なっている。後者は諏訪大社上社が認識したが、国界が変動したあとは役目を終えて忘れ去られかと思われる。

甲斐国志

松平さだまさ編纂による甲斐国の地誌。文化11年(1814) の成立、全123巻。

^ ※1: 近世 瀬沢新田村・下蔦木村・上蔦木村・烏帽子新田村・神代村・平岡村・机村・瀬沢村・木戸口新田村。
^ ※2: 近世 立沢新田村・稗底村・乙事村。
^ ※3: 近世 小六新田村・高森村・池袋村・葛久保村・円見山村・先達村・小東村・森新田村・田端村。
^ ※4: 本稿地図の範囲では釜無川より北の一帯。対岸 (南岸) が武川筋。
^ ※5: 正保2年(1645) 3月付、『長野県史 近世史料編 第3巻 南信地方』(1975) 所収、#378、c.362。
^ ※6: 『諏訪の近世史』(1966)『富士見村誌』(1961) など。
^ ※7: 信玄が整備したといわれる直線的な軍用路
^ ※8: 『富士見町史 上巻』(1991)。