甲陽軍鑑は、武田氏の家臣・高坂弾正昌信の著述か口述を原本として複数の人物が書き継ぎ、最終的に小幡景憲が元和7年(1621) までに完成させたとされる軍学書。武田信玄・勝頼の事跡 (とされるもの) を借りて甲州流の兵法や武家の心構えなどを説いている。成立の経緯には諸説ある。
第22品 (『品』はエピソードの単位) によれば、天文7年(1538) 3月、武田晴信 (信玄) は父・信虎を追放し、その直後に諏訪頼重との交戦が発生した。戦いは翌年(1539)にも数度繰り返され、天文11年(1542) には「甲信境」の「瀬沢で合戦があったという。
甲陽軍鑑 第22品① ① 22品 甲信堺 せさは峠合戦の事 |
② 廿二品 甲信さかいせさは合戦乃事 |
原文① 廿二品 甲信堺せさ𛂞峠合戦の事 |
原文② 廿二品 甲信さ𛀚ひせさ𛂞合戦乃事 |

甲陽軍鑑 第22品② ③ 甲陽軍鑑 品第22 甲信境せさは合戦之事 |
④ 天文11年壬寅2月中旬に信濃の國大身衆、小笠原・諏訪頼茂・村上義清・木曽殿、悉合申、甲州武田晴信公退治いたすべきとの評儀乃事、甲府へきこえ |
⑤ 敵方は四人の大将うちよりて、信州甲州の境なるせざわに陣取て三日馬をやすめ |
⑥ せざは合戦とは是也、信玄公22歳乃御時なり |
原文③ 甲陽軍鑑品㐧廿二 甲信境せさ𛂞合戦之事 |
原文④ 天文十一年壬寅二月中旬𛂌信濃の國大身衆小笠原諏訪頼茂村上義清木曽殿悉合申甲州武田晴信公、退治い𛁠𛁏べきとの評儀乃事甲府へき𛀸え |
原文⑤ 敵方𛂢四人の大将うちよ𛃶て信州甲州の境なるせざわ𛂋陣取て三日馬をや𛁏め |
原文⑥ せざ𛂞合戦と𛂞是也信玄公廿二歳乃御時𛂂り |

甲陽軍鑑 第24品 ① 天文13年甲辰2月に晴信公、信州諏訪へ打越給ふ |
② 3月、晴信公、御帰陣なされ、さて又諏訪頼茂とはやうあり、甲信はつたききりになり |
原文① 天文十三年甲辰二月𛂌晴信公信州諏訪へ打越給ふ |
原文② 三月晴信公御帰陣なさ𛄀さて又諏訪頼茂と𛂣𛃟うあり甲信𛂣つ𛁠きき𛃶𛂌なり |
しかしこれは一般に史実として知られることとは異なる。天文10年(1541) 6月に信玄は信虎を追放、天文11年(1542) 6月に諏訪へ侵攻し、7月に頼重を滅ぼした、というのが信頼できる史料に基づく推移である。このように史書として書かれている部分には、信頼性の高いほかの史料と比べると異なる部分が少なくなく、物語 (軍記物) と考えたほうが望ましい。武家の心得やそれをいかに信玄・勝頼が体現したのかを伝えるために、また読者の興味を引き付けるために構成されたのだろうか。第22品も、駿河 (父・信虎を追放した先) の今川義元氏を頼ることなどを進言する家老たちに対して、「若気なりというども晴信に一入任せおかれ候へ」(𛄌𛀚け𛂂りといふと𛃙晴信𛂌一入任を𛀚𛄀候へ) といって、若い晴信が巧みな計略で見事に敵を撃退したというのが主題で、晴信が戦術を説き、そして展開される場面が大部分を占める。
これは知識層ばかりでなく一般の読者にも受け容れられ、歌舞伎や浄瑠璃の題材にされて諸文芸にも影響を与えたこと※1や絵入写本 (奈良絵本)※2が残ることからもからもうかがわれるし、生き生きと文字どおりに劇的に描かれた物語は実際に面白い。またこれは甲陽軍鑑の史料的価値を低めるものでもない。

瀬沢付近には「血ケ原」や「九ツ塚」といった、この合戦に関連付けられた地名が残っているという※3。これについても伝承として全否定するのもおかしいが、伝承以上のものといえる材料もない。歌舞伎の題材になるほど広く知られた甲陽軍鑑のエピソードがいわば逆輸入されて生まれたものではないだろうか。地理的にも、起伏が少なくどちらから見ても同じような堺川 (松目沢) よりも、立場川が釜無川に合流する複雑な地形にあって、なおかつ甲州側から見れば勢いよく下ってくる相手を迎え撃つという構図の瀬沢のほうが劇的な展開を想像できる。「境方18か村」に紐付く「化粧料」も甲陽軍鑑からいつのまにか取り込まれたものかもしれない。
| ^ ※1: | 『甲陽軍鑑 原本現代訳』(1980) 解説および所収の論説など。 |
| ^ ※2: | 絵入写本 (奈良絵本) については『国立国会図書館月報 608号』(2011年11月) の太子傳記についての解説を参考にした。 |
| ^ ※3: | 『富士見村誌』(1961)。 |