18.4. 甲陽軍鑑の「甲信境瀬沢合戦」

甲陽軍鑑は、武田氏の家臣・高坂だんじょうまさのぶの著述か口述を原本として複数の人物が書き継ぎ、最終的に小幡かげのりが元和7年(1621) までに完成させたとされる軍学書。武田信玄・かつよりの事跡 (とされるもの) を借りて甲州流の兵法や武家の心構えなどを説いている。成立の経緯には諸説ある。

第22ほん (『品』はエピソードの単位) によれば、てんぶん7年(1538) 3月、武田はるのぶ (信玄) は父・のぶとらを追放し、その直後に諏訪頼重との交戦が発生した。戦いは翌年(1539)にも数度繰り返され、天文11年(1542) には「甲信境」の「瀬沢で合戦があったという。

Fig.635 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分 ・ 国立公文書館所蔵)
Fig.635 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
甲陽軍鑑 第22品①

① 22品 甲信さかい せさは峠合戦の事

② 廿二品 甲信さかいせさは合戦乃事

原文① 廿二品 甲信サカイせさ𛂞峠合戦の事

原文② 廿二品 甲信さ𛀚ひせさ𛂞合戦乃事

Fig.709 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分 ・ 国立公文書館所蔵)
Fig.709 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
甲陽軍鑑 第22品②

③ 甲陽軍鑑 品第22 甲信境せさは合戦之事

④ 天文11年壬寅みつのへとら2月中旬に信濃しなのくに大身しゆかさはらよりしげむらかみよしきよ殿とのことごとく合申、甲州武田晴信公退たいいたすべきとの評儀ひやうぎ乃事、かうへきこえ

⑤ 敵方は四人の大将うちよりて、信州甲州のさかいなるせざわにぢん取て三日むまをやすめ

⑥ せざは合戦とは是也、信玄公22歳乃御時なり

原文③ 甲陽軍鑑品㐧廿二 甲信境せさ𛂞合戦之事

原文④ 天文十一年壬寅ミツノへトラ二月中旬𛂌信濃シナノクニ大身シユカサハラヨリシゲムラカミヨシキヨ殿トノコト〱ク合申甲州武田晴信公、退タイい𛁠𛁏べきとの評儀ヒヤウギ乃事カウへき𛀸え

原文⑤ 敵方𛂢四人の大将うちよ𛃶て信州甲州のサカイなるせざわ𛂋ヂン取て三日ムマをや𛁏め

原文⑥ せざ𛂞合戦と𛂞是也信玄公廿二歳乃御時𛂂り

また第24品によれば、天文13年(1544) 2月に信玄は頼重を降参させ、和議を結んで「甲信は蔦木切りになり」、つまり甲斐・信濃の国界は蔦木付近になった、という。

Fig.637 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分 ・ 国立公文書館所蔵)
Fig.637 甲陽軍鑑 明暦2年(1656) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
甲陽軍鑑 第24品

① 天文13年甲辰きのえたつ2月に晴信公、信州諏訪へ打越給ふ

② 3月、晴信公、御かヘぢんなされ、さて又諏訪頼茂とはやうあり、甲信はつたききりになり

原文① 天文十三年甲辰キノエタツ二月𛂌晴信公信州諏訪へ打越給ふ

原文② 三月晴信公御カヘヂンなさ𛄀さて又諏訪頼茂と𛂣𛃟うあり甲信𛂣つ𛁠きき𛃶𛂌なり

しかしこれは一般に史実として知られることとは異なる。天文10年(1541) 6月に信玄は信虎を追放、天文11年(1542) 6月に諏訪へ侵攻し、7月に頼重を滅ぼした、というのが信頼できる史料に基づく推移である。このように史書として書かれている部分には、信頼性の高いほかの史料と比べると異なる部分が少なくなく、物語 (軍記物) と考えたほうが望ましい。武家の心得やそれをいかに信玄・勝頼が体現したのかを伝えるために、また読者の興味を引き付けるために構成されたのだろうか。第22品も、駿河 (父・信虎を追放した先) の今川義元氏を頼ることなどを進言する家老たちに対して、「若気なりというども晴信にひとしお任せおかれ候へ」(𛄌𛀚け𛂂りといふと𛃙晴信𛂌一入マカセを𛀚𛄀候へ) といって、若い晴信が巧みな計略で見事に敵を撃退したというのが主題で、晴信が戦術を説き、そして展開される場面が大部分を占める。

これは知識層ばかりでなく一般の読者にも受け容れられ、歌舞伎や浄瑠璃の題材にされて諸文芸にも影響を与えたこと※1や絵入写本 (奈良絵本)※2が残ることからもからもうかがわれるし、生き生きと文字どおりに劇的に描かれた物語は実際に面白い。またこれは甲陽軍鑑の史料的価値を低めるものでもない。

Fig.638 甲陽軍鑑 ・ 江戸中期の絵入写本(奈良絵本) (部分 ・ WA-32)
Fig.638 甲陽軍鑑・江戸中期の絵入写本(奈良絵本) (部分・WA-32)

瀬沢付近には「血ケ原」や「九ツ塚」といった、この合戦に関連付けられた地名が残っているという※3。これについても伝承として全否定するのもおかしいが、伝承以上のものといえる材料もない。歌舞伎の題材になるほど広く知られた甲陽軍鑑のエピソードがいわば逆輸入されて生まれたものではないだろうか。地理的にも、起伏が少なくどちらから見ても同じような堺川 (松目沢) よりも、立場川が釜無川に合流する複雑な地形にあって、なおかつ甲州側から見れば勢いよく下ってくる相手を迎え撃つという構図の瀬沢のほうが劇的な展開を想像できる。「境方18か村」に紐付く「化粧料」も甲陽軍鑑からいつのまにか取り込まれたものかもしれない。

注釈

18.5. 地誌の見方

『 皇国地誌・郡村誌』の各村でもかつて甲斐国だったことが触れられている。「落合村※1」には、項目「境川」と「古戦場」に以下のように記載されて、明らかに甲陽軍鑑の影響を受けている。

長野県町村誌: 落合村: 境川

一名立波川 *中略* 昔甲信の境と云ふ。國界たるを以て境川と號く。中昔國境沿革して、甲六川を以て、甲信の界を定むと云ふ。

長野県町村誌: 落合村: 古戦場

深志の城主小笠原長時諏訪賴茂、兩旗を以て甲州へ亂入す。甲信の境、瀨澤合戰と武田記に見へたり。

「本郷村※2」では冒頭に以下のようにあって、瀬沢に近いことと「天文年中」とあることから落合村と同じだろうと思われる。

長野県町村誌: 本郷村

里老云、往古甲斐國巨摩郡たり。今の立場川甲信の境たり。天文年中本郡に屬す

境村※3では冒頭に以下の記述があって、立場川や瀬沢から遠いためかシンプルである。

長野県町村誌: 境村

本村古時、甲斐國巨摩郡に屬す。年暦不詳本郡に屬すと云ふ。

一方『甲斐国志』には第47巻に以下のような記述がある。

Fig.712 文化11年(1814): 甲斐国志 第47巻 浄書本 (部分 ・ 国立公文書館所蔵)
Fig.712 文化11年(1814): 甲斐国志 第47巻 浄書本 (部分・国立公文書館所蔵)
甲斐国志 第47巻

立場川 (立端川) 以南、甲六川 (甲陸沢) 以北を里人は「南山裏」とも「界筋」ともいう。18村は高 1万石余で諏訪藩領 (諏訪因幡守領分) である。立場川 (端川、『立』欠) は、古くは「界河」といい、すなわち甲信の境である。武田信虎のとき信州に属したという。のちに開墾した村里を「十箇所新田」と称する。

タツ川以南カウロク澤以北ヲ里人南ミ山ウラトモ界筋トモ云十八村高一萬石餘諏訪因幡守領分也端川古ヘ界河ト云乃甲信ノ界是ナリ武田信虎ノ時信州ニ属スト後ニ墾辟セシ村里ヲ十箇所新田ト称ス

立場川と「十八村」の両方に触れた、いわばハイブリッドな記述となっているのは信濃国の地理に明るくないためと思われる。あまり考えられないが、立場川については全体ではなく最上流部だけを指しているのであれば、矛盾はない。

なお、これらに影響を与えているものに「御証文」がある。寛永年間(1624~1644) のころ、甲斐国 巨摩郡 ※4ぶちざわ村と信濃国 諏訪郡 蔦木村 (近世 上蔦木村・下蔦木村) ほか 8村の間で、八ケ岳山麓の入会地をめぐって争論 (山論) が起こり、正保2年(1645)『八ケ岳山論裁許状』※5によれば以下のような裁許が下った。

八ケ岳山論裁許状

長谷沢ゟ境川迄、如先規之双方可為入相

つまり「長谷沢」(甲六川の上流※6) から「境川」(立場川) までは先例のように双方入会地として利用できるとされた。ただしその後の状況から、小淵沢村が利用できたのは、厳密には山麓を横断する棒道※7で南北を分けた場合の北側に限られた※8

この結果、入会地については甲斐国 巨摩郡 逸見筋の小淵沢村が国界を越えて入ってくることが公式に認められ、変動後の甲斐・信濃国界である甲六川とは別に、入会の限界である「立場川上流」が認識されるようになった。生活に直結する重要な境界として、いわば地籍上の境界に過ぎない国界よりも強く意識されるものだったかもしれない。元禄2年(1689) 12月には、乙事村・立沢新田村でこれを明文化した史料が残っており、裁許そのものも「正保の御証文」や単に「御証文」と呼ばれ、八ケ岳山麓の入会地を利用する各村にとっては絶対的なものとして扱われた※8

なお、これらの「境川」と『神使御頭之日記』の「堺川」は通用した期間が重ならず、また認識した主体も異なっている。後者は諏訪大社上社が認識したが、国界が変動したあとは役目を終えて忘れ去られかと思われる。

甲斐国志

松平さだまさ編纂による甲斐国の地誌。文化11年(1814) の成立、全123巻。

注釈