19.4.2. 評価

この経緯については『石川県史 第4編』(1931) と『白山所属争論』(1934) 所収の『白山所属争議解説』に詳しい。どちらも石川県の郷土史家・けんによる。しかしその論調は冷静・客観的とはいいづらく、要約すれば「白山麓十八か村をすべて越前国・足羽県管轄にしようとした同県を、石川県は調査に帯同した森田平次 (えん) が詳細な調査によって論破したことで、すべて加賀国に戻した上、石川県管轄とするにことに成功した」ということになっている。しかし実際には前項にまとめたとおりで、また両県は事前に協議を重ねた上で調査を行い、調整後の見解を大蔵省に提出しており※1、特に対立した形跡も見当たらない。郷土史家という立場や時代背景、同じ石川県の郷土史家で先行する森田を評価したい姿勢からやむを得ないところもあるのだろうが、思い込みや曲解 (または歪曲) もあって感心はしない。

たとえば、明治5年(1872) 4月3日付『白山麓十八ケ村ノ儀ニ付伺』(#3048716) (cc.13-14) について『石川県史 第4編』では以下のように評価している。

日置の評価① (県史)

足羽県はすぐに伺書を用意して大蔵省に上申し、その指令によって十八ケ村を足羽県または石川県のどれかに決定することを求めたが、この伺書に、旧・本保県が「十八か村は足羽県となることが当然である」と回答した文書を添付したことからすれば、真意がどこにあったかは見当が付くだろう。

原文: 足羽縣乃ち狀を具して大藏省に吿げ、その指令によりて十八ケ村を足羽縣又は石川縣の何れかに決定せんことを求めたるが、而もこの伺書に添付するに、元本保縣が十八ケ村を足羽縣たらしむるを當然とすと回答せる文書を以てせるによりて見れば、眞意の那邊に存したるかを窺知すべし。

つまり日置は、足羽県は白山麓十八か村について、足羽県と石川県のどちらの管轄でもよいとしつつ、内実はすべて足羽県であるべきだと考えていたに違いない、としている。

ここで言及されている添付文書は『白山麓十八ケ村ノ儀ニ付伺』(#3048716, cc.13-14) のさらに別紙として添えられたもの (同、cc.14-15) のことで、以下のように書かれている。

Fig.704 白山麓十八ケ村ノ儀ニ付伺: 公文録 大蔵省之部 壬申11月 (明治5年#20・部分・国立公文書館所蔵)
白山麓十八ケ村ノ儀ニ付伺②

目下、戸籍調査・その他取り締まり関係等の取り扱いについて、村役人たちに支障が生じています。ひとまず当県から右役人 (村役人) へ布達する旨、敦賀県・横地権大属へ (も) 相談し承知していただきました。 *中略* 昔多くは越前国 大野郡の村々であって、御県 (足羽県) の所轄となることは必然であることから、追って指図があるまでは、諸事項はご管内と同じようにお取り扱いなさり、村役人たちへはそのように指示なされますよう

原文※2: 方今、戸籍御査究・其他御取締筋等ノ儀ニ付、村役人共取扱方御差支有之。一応当県ヨリ右役人共ヘ布達可致旨、敦賀県・横地権大属へ御示談ノ趣致承知候。*中略* 古昔多クハ大野郡所属ノ村々ニテ、御県御所轄ハ必然ノ儀ニ付、追テ御下知有之候迄ハ、各欵御管内同様御取扱被成下当村々役人共ヘハ其分御申達有之度

旧・本保県は仮に預けられた白山麓十八か村の処遇について、政府からの決定がない一方、いつまでも旧組織の管理対象を扱っているわけにもいかず、思うに任せない状況にあった。引き継ぎ先は足羽県か敦賀県で、明治4年(1871) 12月3日付『本保県白山麓地所引渡ノ儀ニ付伺』(#2350874) (cc.1-2) でも言及されていた。

Fig.703 本保県白山麓地所引渡ノ儀ニ付伺: 公文録 諸県之部 辛未12月 (明治4年#169・部分・国立公文書館所蔵)
本保県白山麓地所引渡ノ儀ニ付伺③

当県 (本保県) 管内越前国の分は福井県か敦賀県へ引き渡すことになる点も、これまた承知しております

原文※2: 当県管内越前国ノ分ハ福井県敦賀県ヘ引渡シ可申旨、是亦奉畏承候

つまり添付文書ではこの「足羽県か敦賀県か」という点について、足羽県となることは必然なので、敦賀県にも申し入れた上で同県に仮に引き継ぐことをいっているに過ぎない。「足羽県か石川県か」ではない。また足羽県・敦賀県が両立しているように足羽県は越前国を代表する立場でもなく、府県再編は流動的で、石川県とは立場が異なっていた (石川県は加賀国+αで安定)。足羽県も石川県 (または自分) と同じように白山麓十八か村を足羽県・越前国にしたいと思っていたに違いない、というのは日置の思い込みでしかない。

決定過程についても日置は『石川県史 第4編』・『白山所属争議解説』それぞれで以下のような評価をしている。

日置の評価② (県史)

こうして調査を終えた両県は、それぞれの意見を決定して大蔵省に上申した。このときになって足羽県は、十八か村をひとつの地域とし、寛文8年(1668) 以後の事例に従って越前国 大野郡とし、自県 (足羽県) の管轄とすることが民政の上で利益が多いはずだとし、石川県は遥かに王朝の盛時にまでさかのぼって *中略* 沿革取調書を添付した。*中略* 足羽県の上申がすこぶる疎放であることに比べれば、精到な研究を経たものである。

かくて踏査を終りたる両県は、各その庁議を決定して大蔵省に上申せり。この時に当りて足羽県は、十八ケ村を凡て一団となし、寛文八年以後の事例を趁ひて越前大野郡の地とし、自県之を管轄するを民政上利益多かるべしとし、石川県は、遙かに王朝の盛時に遡りて、*中略* 沿革取調書を添付せり。*中略* 足羽県の上申が頗る疎放なりしに比すれば、精到の研究を経たるものなりしなり。

日置の評価③ (争議解説)

足羽県の意見はひとつも採用されることなく、だいたいにおいて石川県の調査を是認し、

足羽県の意見は一も採用せられることなく、大体に於て石川県の調査を是認し、

しかし石川県・足羽県が提出した意見書は『石川足羽ノ両県下白山麓村落ノ儀ニ付伺』の別紙1『白山麓十八ケ村實地檢査ノ上見込御屆』・別紙2『白山麓十八ケ村ノ儀ニ付伺』としてあるとおりで、足羽県は「十八ケ村を凡て一団となし」とはいっているが「寛文八年以後の事例を趁ひて越前大野郡の地とし」とはいっていない。

Fig.706 白山麓十八ケ村實地檢査ノ上見込御屆: 公文録 大蔵省之部 壬申11月 (明治5年#20・部分・国立公文書館所蔵)Fig.707 白山麓十八ケ村ノ儀ニ付: 公文録 大蔵省之部 壬申11月 (明治5年#20・部分・国立公文書館所蔵)

また最終的に『石川足羽ノ両県下白山麓村落ノ儀ニ付伺』(#3048716, cc.1-2) で採用されているのは足羽県の意見書である。「大体に於て」や「是認し」などは修辞によって持論に持ち込もうとする姿勢があらわれたものではないだろうか。

Fig.705 石川足羽ノ両県下白山麓村落ノ儀ニ付伺: 公文録 大蔵省之部 壬申11月 (明治5年#20・部分・国立公文書館所蔵)
石川足羽ノ両県下白山麓村落ノ儀ニ付伺④

石川県申し立てでは「加賀国 能美郡 17か村・石川郡 1村としてその郡名を復古すれば今後の異論はないだろう」とあるが、足羽県申し立ての通り「尾添・荒谷・中宮 3か村の中間を流れる濁清川 (現在の尾添川) を境界と定め、白山社ならびに白山麓十八か村も加賀国 能美郡へ編入、石川県管轄と仰せ付けられる」のほうがよいように聞き入れましたので

原文※2: 石川県申立ニ、加賀国能美郡十七ケ村・石川郡一村ト其郡名復古候ハヽ爾後ノ異論無之趣ニハ候ヘ共、足羽県申立ノ通、尾添・荒谷・中宮三ケ村ノ中間ナル濁清川ヲ以疆域ト定、白山社并麓附十八ケ村モ加賀国能美郡ヘ組入、石川県管轄被 仰付候方弁利ノ趣ニ相聞候間

上の⑤にもあるとおり、意見書を提出後に調整もされ、最終的に石川・足羽両県の「御達案」も一致し (ただし文言が採用されたのは足羽県)、「伺之通」に認可された。なおこの過程から見ても「沿革取調書」が決定的な影響をもたらしたとは考えられず、また「足羽県の上申が頗る疎放なりし」で、これに比べて石川県の意見書が「精到の研究を経たるものなりしなり」かどうかは見ればわかる。

^ ※1: 『白山所属争論』(1934) 所収『白山復古記』内の各種書状による。
^ ※2: 句読点 (中黒を含む) は筆者が補った。