ここでは、近代に変更された丹後・丹波国界 (国境) と、そのまさに変動したエリアである雲原村について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、近世 丹後国 与謝郡 雲原村、現在の兵庫県 福知山市 雲原である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

天保郷帳・国絵図の村々
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変更前の国界 (国境)、濃紫色が変更後の国界である。この範囲は丹後国のうち、分水嶺 (与謝峠) より南にあって由良川水系である。『天保丹後国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

注釈
要因と経過
明治35年(1902) 3月10日付の法律第14号 (官報 3月11日)※1により、丹後国 与謝郡 雲原村は、丹波国 天田郡に移され、丹後・丹波の国界は北へ移動した。
京都府 (管轄下の) 丹後国 与謝郡 雲原村を同府 (管轄下の) 丹波国 天田郡に編入する
京都府丹後國與謝郡雲原村ヲ同府丹波國天田郡ニ編入ス
京都府における郡制の施行は遅く明治32年(1899) だった。それ以前からも何らかの動きはあったのかもしれないが、いずれにせよ、これによって行政上の不便が生じて、丹後国 与謝郡から丹波国 天田郡へ編入されたようだ。
注釈
中世の丹後・丹波国界
丹後国 与謝郡 雲原村は、丹波国 天田郡 天座村とともに小規模な盆地に位置している。つまり地形的には一体であって、両者の間に国界があった合理的な理由を地理の点で見出すことは難しい。実際にはかつて丹波国だったということはないのだろうか。国絵図よって国界が明らかになる以前に注目すると、雲原村に関する中世の史料は 2点しか存在する。
1点目は、観応2年・正平6年(1351) 成立の『慕帰絵詞』※1で、以下に示すように、貞和4年(1348) 4月4日の出来事として、京から天橋立へ向かっていた覚如が「雲原といふ深山の中」で郭公の鳴き声を聞いて歌を詠んだ、と記されている。

この史料からは国郡がどのように認識されていたのかはわからない。
2点目は、応安3年(1370)『金光寺大檀那大中臣実宗禁制』※2で、「丹波国天田郡金光寺之寺内四至方至事」として 「北三岳嶺限雲原境於」とあり、北限に地名が含まれている。
丹波国のうち雲原村に接する地域には、三岳山を中心として佐々岐庄が成立し、南へ続く稜線 (分水嶺) をもって上山保 (西側) と下山保 (東側) に分けられていた。三岳山は古くから「三岳蔵王権現」として山岳信仰の対象とされ、村々は祭礼に奉仕するという立場でも結びつきがあったようだ。ただし中世の祭礼について直接的な史料が残っているわけではなく、具体的にわかることはほとんどない。
寺領の四至牓示が示されている金光寺は、喜多 (近世 丹波国 天田郡 喜多村) に現存し、明治初期の神仏分離までは三岳蔵王権現の別当寺だった。応安3年(1370) の当時は上佐々木 (近世 上佐々木村) の野際にあった※3ので、四至牓示で示された範囲はその付近と考えられ、内容と位置関係から上山保の北限であるともいえる。つまり「北は三岳山の峰を雲原との境において限る」と理解すれば、三岳山の北へ続く稜線が寺領かつ上山保の北限であり、その向こうが雲原ということになる。かならずしも佐々岐庄全体の北限を示しているわけではないが、域外 (外にあるもの) と認識していることからいえば、雲原村は佐々岐庄には含まれず、その外にあったことになる。
以上から、少なくとも現存する史料上、はじめから雲原は丹後国である。雲原村編纂の『村治ノ概況』(1920) は、鎌倉初期の武将・畠山重忠の遺臣が当地に潜伏・開村したことを伝え、その真偽はともかく、落武者伝承が残るようなほかから隔絶された場所であったのは確かなようだ。長く曖昧なまま明らかにされず、国郡が認識された時点で丹後国として把握され、そのまま確定したといったところなのだろう。
なお、下佐々木 (近世 丹波国 天田郡 下佐々木村) 所在の威光寺に残る『寺社方覚書』※2※4には、近世 丹波国 天田郡 天座村の文脈で「丹後雲原も三岳上山保ノ内タルヨシ申伝キ」とあり、これに基づけば、雲原も丹波国 佐々岐庄 上山保だった時期があることになる。しかしこの記述が何に基づくものなのかや、その真偽を直接的な史料で確かめることはできない。
雲原川と小盆地
雲原川は、雲原を源流域とする由良川水系の河川である。雲原・天座の小盆地を流れ、東端でこれを抜けると、深い谷あいを流れ下っていく。流れには県道が並走するものの、急斜面に張り付いたような隘路であり、谷底は狭い。この途中には、もうひとつの丹後・丹波国界が存在し、雲原・天座間の丹後・丹波国界 (変更前) でいったん丹波に入った雲原川は、すぐにまた丹後に戻ってしまうことになる。つまり、雲原・天座が位置する小盆地は、水系としては由良川水系にあるものの、地形としては孤立していて連続していない。また、これが 2つ目の丹後・丹波国界が存在する理由となっている。
交通路に着目すると、小盆地の出口は坂浦峠であり、現在の国道176号もこの下をトンネルで抜けている。雲原だけに注目すると、与謝峠を越えてきた丹後国の勢力がその部分を掠め取って、それが確定する国界に反映されたように感じられるが、小盆地全体を見れば、坂浦峠からやってきた丹波国の勢力が天座を奪い取ったのかもしれない。
注釈
佐々岐庄
佐々岐庄は、丹波国の荘園のひとつであり、比叡山延暦寺 妙香院領である。建武4年(1337) 以後と推定される『妙香院庄園目録』※1に引用されている応和元年(961)『藤原師輔譲状』にはじめてあらわれ、「丹波国佐佐岐薗」とある。また、この目録本体には「丹波国佐佐岐園 在天田郡」と記されている。『門葉記』所収の永祚2年(990)『慈忍和尚遺誡』※2にも「丹波国佐々支薗」とあり、はじめ「園(薗)」を名乗っているが、康治元年(1142)『官宣旨案』※3に「延暦寺妙香院領佐岐庄」(『~佐々岐庄』) とあって、以後は「庄」で一定している。嘉暦4年(1329)『預所道戒寄進状』※4によれば、この時点の領家職・預所はそれぞれ治部卿法印・道戒であり、基本的に妙香院内の機構に基づく支配だったと考えられるが、ほかの時期を含めて詳細はわからない。
上山保・下山保は、元応3年(1321) 宛行状 (威光寺文書)※4・元亨2年(1322)『治部卿法印某寄進状』※4にそれぞれはじめてあらわれ、「丹波国佐〻岐上山保西村新□」(『~堂』)・「佐〻岐下山保野条村奴多谷上坪」とあり、このほか在地の金光寺文書では内訳として多用されている。『門葉記』所収の建武4年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』※5には「丹波国 佐〻岐上下両保」とある。近世 天田郡 上佐々木・中佐々木・下佐々木・一ノ宮・常願寺の各村にあたる一帯が上山保、天座・行積・上野条・下野条・喜多・大呂の各村にあたる一帯が下山保にあたる※6。なお南北朝期に入って妙香院の支配が弱まると、下山保地頭・大中臣 (金山) 氏が荒廃していた金光寺を喜多に再興、上山保まで勢力を広げた※7※6。前述の応安3年(1370)『金光寺大檀那大中臣実宗禁制』は、この過程で大中臣氏が出したものである。
観応2年(1351)※8および 貞治4年(1365)※9の三宝院文書によれば、佐々岐庄のうち牧八郎入道という人物の旧領 (『牧八郞入道跡』) が篠村八幡宮に寄進され、同宮を管掌下に置く※10醍醐寺三宝院領となっている。牧氏は南に接する河口庄に関係する人物であり、同庄も三宝院領だった※6。妙香院との関係がわかる史料は応永27年(1420) の法眼某奉書※4が最後だが、三宝院領との関係については文安6年(1449)『三宝院門跡管領諸職諸領目録』※11や『政所賦銘引付』文明6年(1474) 閏5月17日付文書※12からも確認できる。しかし三宝院が全体を掌握したのかどうかを含めて支配の詳細は不明で、いずれにせよ、室町期を迎えるころには荘園としての実態は失われたかと思われる。
妙香院
妙香院は、比叡山の山中 (横川 飯室谷) にあった寺院である。ここに居住した尋禅 (慈忍) が父・藤原師輔の佐々木庄を含む 11箇所の遺領を譲り受けたのが応和元年(961)『藤原師輔譲状』である。またその死の直前に残したのが永祚2年(990) の遺誡で、「右庄等拾箇庄施入妙香院了」とあって、このとき正式に佐々木庄を含む 11箇所 (文中の『拾箇庄』は誤りと思われる) が妙香院領となった。
三宝院
三宝院は、真言宗醍醐寺派の総本山である醍醐寺の一院である。醍醐寺の中心的な存在であり、歴代座主が居住したという。
注釈
データシート
| 変動 | 雲原村 |
|---|---|
| 要因 | 郡制施行にともなう再編 |
| 変動の確定時期 | 明治35年(1902) 3月 |
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として追補。
:
- 同、新規作成。
