32.4. 佐々岐庄・加悦庄
(1) 佐々岐庄

比叡山延暦寺 妙香院領。けん4年(1337) 以後と推定される『妙香院庄園目録』※1に引用のおう元年(961)『藤原もろすけゆずりじょう』に「丹波国佐佐岐薗」とあるのが史料上の初出で、目録本体に「丹波国佐佐岐園 在天田郡」、『もんよう』所収のえい2年(990)『慈忍和尚遺誡』※2に「丹波国佐々支薗」とあり、はじめ「園(薗)」を名乗っているが、こう元年(1142)『官宣旨案』※3に「延暦寺妙香院領佐岐庄」(『~佐々岐庄』) とあって、以後は「庄」で一定している。嘉暦かりゃく4年(1329)『預所あずかりどころ道戒寄進状』※4によれば、この時点の領家職・預所はそれぞれ治部卿じぶきょうほういん・道戒であり、基本的に妙香院内の機構に基づく支配だったと考えられるが、ほかの時期を含めて詳細はわからない。

上山保・下山保は、元応3年(1321) 宛行状 (威光寺文書)※4に「丹波国佐〻岐上山保西村新□」(『~堂』)、げんこう2年(1322)『治部卿法印某寄進状』※4に「佐〻岐下山保野条村奴多谷上坪」とあるのがそれぞれ初出であり、在地の金光寺文書では内訳として多用されている。『門葉記』所収の建武4年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』※5には「丹波国 佐〻岐上下両保」とある。近世 天田郡 上佐々木・中佐々木・下佐々木・一ノ宮・常願寺の各村にあたる一帯が上山保、あまいつもり上野条かみのうじょう・下野条・喜多・おおの各村にあたる一帯が下山保にあたる※6。なお南北朝期に入って妙香院の支配は弱まると、下山保地頭・大中臣 (金山) 氏が荒廃していた金光寺を喜多に再興するとともに上山保まで勢力を広げた※7※6。応安3年(1370) の禁制はこの過程で大中臣氏が出したものである。

観応2年(1351)※8および 貞治じょうじ4年(1365)※9さんぽういん文書によれば、佐々岐庄のうち牧八郎入道という人物の旧領 (『牧八郞入道跡』) が篠村八幡宮に寄進され、同宮を管掌下に置く※10醍醐寺三宝院領となっている。牧氏は南に接する河口庄に関係する人物であり、同庄も三宝院領だった※6。妙香院との関係がわかる史料は応永27年(1420) のほうげん某奉書※4が最後だが、三宝院領との関係についてはぶんあん6年(1449)『三宝院門跡管領諸職諸領目録』※11や『政所まんどころ賦銘くばりめいひきつけぶんめい6年(1474) 閏5月17日付文書※12からも確認できる。しかし三宝院が全体を掌握したのかどうかを含めて支配の詳細は不明で、いずれにせよ、室町期を迎えるころには荘園としての実態は失われたかと思われる。

妙香院

比叡山の山中 (かわ 飯室いむろ谷) にあった寺院。ここに居住したじんぜん (慈忍) が父・藤原もろすけの佐々木庄を含む 11箇所の遺領を譲り受けたのが応和元年(961) のゆずりじょうである。またその死の直前に残したのがえい2年(990) の遺誡で、「右庄等拾箇庄施入妙香院了」とあって、このとき正式に佐々木庄を含む 11箇所 (文中の『拾箇庄』は誤りと思われる) が妙香院領となった。

三宝院

真言宗醍醐寺派の総本山である醍醐寺の一院。醍醐寺の中心的な存在であり、歴代座主が居住したという。

(2) 加悦庄

殿下渡でんかわたり領。えいきょう3年(1431)『室町幕府奉行人連署ほうしょ※13に「殿下渡領丹波國賀悦庄」(丹波は丹後の誤り)、ちょうろく2年(1458)『一条教房御教書』※14に「殿下御領丹後国賀悦庄」とある。両文書では領家職が問題となっているが、基本的にじっそういん (実相院門跡) が地頭と兼帯していたとみられる。長禄3年(1459)『実相院門跡所領目録』※15によれば、領家職はようとくいん・妙雲院※16から実相院の興隆のために寄進されたとされ、いずれにせよ南北朝期より以前のことは明らかではない。加悦庄の諸史料は『金屋比丘尼城遺跡発掘調査報告書』(1980) にまとまっている。

^ ※1: 『摂津市史 史料編1 考古編・古代編・中世編・近世編1』(1984) 所収、「九条右丞相御譲状云」以降に譲状の引用がある。
^ ※2: 『兵庫県史 史料編 古代2』(1985) 所収。
^ ※3: 平安遺文/『宗学研究 27』(1985) 所収。
^ ※4: 『福知山市史 史料編1』(1978) 所収。
^ ※5: 『春日部市史 第2巻 古代・中世史料編』(1989) 所収。
^ ※6: 『福知山市史 第2巻』(1982)。
^ ※7: 応安5年(1372)『妙香院門跡令旨』『弾正忠久直奉書』『法眼大和尚位某山林等寄進状』、および明徳5年(1394)『沙弥威光(大中臣実宗)文書渡状』。どれも『福知山市史 史料編1』』(1978) 所収。
^ ※8: 『大日本史料 第6編之14』(1916) 所収。
^ ※9: 『大日本史料 第6編之27』(1935) 所収。
^ ※10: 『篠村史』(1961/1987)。
^ ※11: 『兵庫県史 史料編 中世7』(1993) 所収。
^ ※12: 『室町幕府引付史料集成 上巻』1980) 所収、『政所賦銘引付』第36号文書。
^ ※13: 『室町家御内書案下、改定史籍集覧 第27冊(1902/1984) 所収。
^ ※14: 『金屋比丘尼城遺跡発掘調査報告書』(1980) 所収。
^ ※15: 『城陽市史 第3巻』(1999) 所収。
^ ※16: 養徳院は足利満詮みつあきら (室町幕府 第2代将軍・義詮よしあきらの子、第3代・義満の弟) の法名、妙雲院は妻の菩提寺であるが、寛正年間(1460~1466) に養徳院に改称された (全国寺院名鑑,1969; 京都大事典,1984)。