ここでは、戦国期から織豊期にかけて発生した肥後・薩摩国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである長島について分析しています。

そもそもどこか?

変動の舞台は、天草諸島の南部に連なる長島 (長島本島) と周辺島嶼 (諸浦島・伊唐島・獅子島など) であり、現在の鹿児島県 長島町にあたる。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.112 長島 (肥後・薩摩国界): 天正15年(1587)
Fig.112 長島 (肥後・薩摩国界): 天正15年(1587)
薩藩政要録の村々
近世 薩摩国 出水郡 長島郷
  • 20. 平尾村
  • 21. 川床村
  • 22. 浦底村
  • 23. 鷹巣村
  • 24. しもやま門野どの
  • 25. 指江さすえ
  • 26. 城川内じょうかわうち
  • 27. 蔵之元村
  • 28. しょうら
  • 29. 山門野村
  • 30. 獅子島
  • 31. 伊唐島

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保薩摩国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。

Fig.616 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.616 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)

要因と経過

純粋に地理を観点に見た場合、長島は明らかに天草諸島の一部である。地名があらわれる最古の史料は、『続日本紀』ほう9年(778) 11月13日の記事であり、このとき、唐から帰国途中に嵐に遭遇した遣唐使船の一部が漂流して「肥後国天草郡西仲島」に流れ着いた。この「西仲島」が当地であると考えられている。以下は『続日本紀』のその部分である。

Fig.681 続日本紀 第25巻 明暦3年(1657) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.681 続日本紀 第25巻 明暦3年(1657) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)

鎌倉末期に発生した、山田野・河床ほか散在の地頭職を巡る争いでは、裁許を記したげんとく元年(1329) 11月29日付『ちん西ぜい下知状げじじょう※1に「長嶋山田野」「山田野・河床」、同年12月5日付および同月25日付『鎮西御教みぎょうしょ※2に「肥後國天草嶋山田野」、決定を実行に移そうとした『肥後国守護代藤原秀種うけぶみ※3に「肥後国天草山田野」「長嶋山田野」とある。なおこの「山田野」は「やま」(近世 山門野村・下山門野村) と推定され※4、「河床」は「川床」(近世 川床村) にあたる。

しかし戦国期に入ると、長島は薩摩さつま国の勢力から圧迫を受けるようになった。そして永禄8年(1565) 出水いずみの薩州島津氏 (忠兼、前当主・実久の弟、現当主・よしとらの叔父) に攻略され、てんしょう9年(1581) までに薩州島津氏の支配が確立された※4

一方、天正15年(1587) 3月、豊臣秀吉は大軍を率いて九州への侵攻を開始し、早くも翌月には長島に対して 3箇条のさだめがき※5を発布する。この定書には「薩摩国長島」と記され、長島はすでに薩摩国の延長とみなされている。4月27日※6、大軍を前に薩州島津氏 (ただとき 、義虎の子) は秀吉に降服した。このとき、長島はそのまま「薩摩国長島」として安堵されたとみられ、文禄4年(1595) 4月26日付の『薩摩国出水郡内知行方目録』でも長島の各村は「薩摩国出水郡内」として把握されている。つまり天正15年(1587) の時点で近世の肥後・薩摩の国界は豊臣政権によって確定され、以後の長島は薩摩国として把握されるようになった。

なお当時、島津氏本家の島津よしひさは、弟のよしひろらと薩摩・おおすみ日向ひゅうがの 3国を領国として統一し、さらに版図を広げていた。しかしやはり大軍を前に総崩れとなって撤退を余儀なくされ、島津氏本家も天正15年(1587) 5月8日までに秀吉に降服した。これを受けて秀吉は、義久に薩摩国を※7、義弘に大隅国 (ただしきもつき郡とほんごうときひさ旧領を除く) を※8それぞれ安堵した※9。つまり近世 薩摩・大隅・日向の国界もここで確定したことになる。

薩摩国出水郡内知行方目録

薩摩国出水郡内知行方目録は、文禄4年(1595) 4月26日付の対馬・宗氏に対する知行目録である※10。薩州島津氏の忠辰は、文禄2年(1593) 不手際から所領を没落され、旧領は文禄4年(1595) 4月に対馬・宗氏のよしとしへ与えられた。このときの目録が『薩摩国出水郡内知行方目録』である。なお、慶長4年(1599) 長島を含む出水郡は島津義弘に与えられ、以後、近世を通じて長島は薩摩藩の支配となった。

長島の村々は下記のとおり。

薩摩国出水郡内知行方目録に含まれる長島の村々
目録薩藩政要録
本城村26. 城川内村※4
平尾村20. 平尾村
蔵のもと村27. 蔵之元村
たかのす村23. 鷹巣村
さすへ村25. 指江村
川とこ村21. 川床村
山との村29. 山門野村
かせと村29. 山門野村の加世堂集落
ミふね村22. 浦底村の三船集落
おはま村27. 蔵之元村の小浜集落
ししかしま30. 獅子島
宮のうら23. 鷹巣村の宮ノ浦集落
注釈

データシート

データシート (長島: 肥後・薩摩国界)
変動地域長島 (長島本島) と周辺島嶼 (諸浦島・伊唐島・獅子島など)
要因戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認
曖昧化の時期戦国期~織豊期
変動の確定時期天正15年(1587)
i. 唐隈の石碑 (遣唐使漂着之地)
唐隈の石碑 (遣唐使漂着之地)
唐隈の石碑 (遣唐使漂着之地)
ii. 不知火海の向こうにたたずむ長島
不知火海の向こうにたたずむ長島
不知火海の向こうにたたずむ長島
iii. 黒之瀬戸大橋と渦潮
黒之瀬戸大橋と渦潮
黒之瀬戸大橋と渦潮
i. フォートラベル (4travel.jp) の「遣唐使漂着の地」投稿されたクチコミの写真を しにあの旅人さんから許可を得て転載
ii. 『出水ナビ フォトギャラリー』から取得
iii. 『阿久根市観光サイト 写真で見る阿久根』から取得

上に示したうち、i は遣唐使船が漂着したと伝わる唐隈の石碑ii不知火海 (八代海) の向こうにたたずむ長島iii黒之瀬戸大橋と渦潮である。『東町郷土史』(1992) によれば、「漂着地については、長島町の蔵の元港説と唐隈港説の二説があったが」*中略*「唐隈説が有力となり、昭和54年11月13日、1200年を記念し、第12回遣唐使漂着記念碑が建立された※1という。不知火海の向こうにたたずむ長島は遠景となる部分であり、手前右手は桂島、左手は蕨島と笠山の山塊である (出水市 境町 前田から撮影)。黒之瀬戸大橋は昭和49年(1974) の開通、黒之瀬戸は海峡の幅が狭く、激しい潮流によって渦潮が発生する。

注釈

更新履歴

内容

:

  • 唐隈の石碑などの写真を追加した。

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として、新規作成。