ここでは、古代から中世にかけて、さらには近代に入って発生した播磨・美作国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである伊師について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、現在の兵庫県 佐用町の北西部・石井地区および東中山である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。鉄道趣味の面々には、智頭急行線が通っているところ、といえばすぐにわかるかもしれない。佐用駅から北上する智頭急行線は大原駅へ向かうが、その途中の石井駅があるのが当地である。そして、さらにその先で越えるのが現在の兵庫・岡山県境であり、古代の播磨・美作国界である。『天保美作国絵図』で示せば、以下の部分である。

要因と経過 (古代~中世)
変動エリアは、『播磨風土記』に記された播磨国 讃容郡 讃容里の伊師あたる。以下はその文久2年(1862) 写本の「讃容郡」部分である。

讃容里、事は郡と同じ、土は上の中なり。吉川 (本名は玉落川)、大神の玉、此の川に落ちき、故に玉落と曰う。今、吉川と云うは、稲狹部大吉川、此の村に居り、故に吉川と曰う (其の山に黄連、生ゆ)。桉見、佐用都比売命、此の山に金桉を得たまいき、故に山の名を金肆、川名を桉見と曰う。伊師、即ち是桉見の河上、川底床の如し、故に伊師と曰う (其の山に精鹿・升麻、生ゆ)
讃容里 事与郡同 土上中 吉川 (本名玉落川) 大神之玉 落於此川故曰玉落今云吉川者稲狹部大吉川居於此村故曰吉川 (其山生、黄連) 桉見佐用都比賣命於此山得金桉故曰山名金肆川名桉見伊師即是桉見之河上川底如床故曰伊師 (其山生精鹿升麻)
これによれば「伊師」は桉見川の川上のことを指し、川底が平な岩盤で「床」のようだからこのように呼ぶという。桉見川は佐用町を貫流して赤穂市で瀬戸内海に注ぐ千種川 (古名: 熊見川) のことであり、この場合は主要な支流である佐用川の上流部のことを指しているのだろう。本流・支流や河川名称が厳密になるのは近現代に入ってからであり、交通路としては現在も智頭急行線や鳥取自動車道がそうであるように佐用川のほうが意識される。
このように播磨風土記のころは播磨国 讃容郡 讃容里の一部として把握されていた伊師だったが、古代末までに美作国の伊志庄として把握されるようになった。
伊志庄に関する史料は限られる。保元3年(1158) 『官宣旨』※1に初めて名前があらわれ、「石清水八幡宮并宿院極楽寺」の寺領として「美作国」の「伊志庄」が含まれている。元暦2年(1185) 『源頼朝下文』※2でも「八幡宮寺領」「美作国」の「伊志庄」、天福元年(1233)『石清水八幡宮寺申文』※3にも「美作国伊志庄」が含まれる。しかしこれ以外に史料は現存せず、開発の経緯や美作国とみなされた理由はわからない。おそらく比較的なだらかな峠 (現在の国道373号が通るルート) を越えた西からの開発意欲が当地に及んだためと考えられるが、もともと人口希薄で地形的にも曖昧な国界が正確に把握されず、美作国の延長にあたるとみなされてしまっただけかもしれない。
伊志庄の荘園としての実態は、南北朝期を迎えるころまでには失われたと考えられる。天福元年(1233)『石清水八幡宮寺申文』は、武士の濫妨を訴えるものである。しかしほかと同様、地域的なまとまり (広域地名) はそのまま残って、江戸期は「石井庄」として把握された。

天保郷帳・国絵図の村々
なお、これら各村のうち中山村 (現在の佐用町 東中山) については、古代の伊師との関連は見当たらず、中世の伊志庄にも含まれなかったと考えられる。東作誌には「中山村という名前は播磨・美作 (播州・作州) の間の山であることによる。いつのころか、播州の地を作州へ取り込んだため、その場所を国広と呼ぶ。国を広げたための名前であるという」とある。

中山村と云うは播作の中の山なる故の名なり。何れの頃にや、播州の地を作州へ取込みたる故、其の所を国広と云う。国を広げたる故の名なりと
中山村ト云ハ播作ノ中ノ山ナル故ノ名ナリ何レノ頃ニヤ播州ノ地ヲ作州ヘ取込ミタル故其所ヲ國廣ト云國ヲ廣ゲタル故ノ名ナリト
中山村は、江戸期の広域地名としては「讃甘庄」に含まれる。開発の過程で曖昧な国界を超えた讃甘庄に組み込まれ、そのまま美作国として把握されるようになったのだろう。讃甘庄は、鎌倉末期と推定される『足利氏所領奉行人交名』※16に初めてその名前があらわれる。長禄2年(1458)『足利義政御判御教書』※17にも「美作国讃甘庄地頭職六分一」とあることから、室町期も足利氏の支配下におかれ、のち在地勢力に侵食され、荘園としての実態を失ったかと推定される。『美作古簡集註解』※18所収の弘治2年(1556) の書状では、後藤勝基が安東平五郎に「讃甘庄之內豐福肥前分」を与えている。讃甘庄についても伊志庄と同様、史料は限られ、中山村が取り込まれた経緯を明らかにすることはできない。
なお、東作誌は「石井庄」について、「石井庄の名、和名抄に初見なし。旧より古き国書にも見えず。あるいはいう、石井は讃甘庄の内一大村なりと。後世おのずから庄名となれりという (石井庄ノ名和名抄ニ初見ナシ舊ヨリ古キ國書ニモ不見或云石井ハ讃甘庄ノ内一大村ナリト後世オノツカラ庄名トナレリト云)」とあって、美作国の視点では由来する荘園を明らかにできず、讃甘庄から分離したという伝承を紹介するに留めている。
東作誌
東作誌は、美作国 東部6郡の地誌であり、文化12年(1815) に完成した。『作陽誌』には含まれない東部6郡について、津山藩士の正木輝雄が完成させた。『作陽誌』とは異なり藩の事業ではない。本稿では国立公文書館所蔵の明治10年(1877) 写本 (#1238432) を参照した。
作陽誌
作陽誌は、美作国 西部6郡の地誌であり、元禄4年(1691) に完成した。津山藩主・森長成の意向によって家老の長尾勝明が編纂させたが、東部 6郡の部分は完成しなかった。これは明治29年(1896) 3月29日付の法律第56号による。
注釈
要因と経過 (近代)
前述のように中世~近世を美作国として経過した変動エリア (美作国 吉野郡 石井庄 各村と讃甘庄 中山村、現在の兵庫県 佐用町 石井地区と東中山) は、近代に入って再び播磨国として把握されることになった。

美作国 吉野郡 石井村 (岡山県管下) を播磨国 佐用郡 (兵庫県管下) に編入し、美作国 吉野郡 讃甘村 大字中山 (同) を播磨国 佐用郡 江川村 (同) に編入する
岡山縣美作國吉野郡石井村ヲ兵庫縣播磨國佐用郡ニ編入シ岡山縣美作國吉野郡讃甘村大字中山ヲ兵庫縣播磨國佐用郡江川村ニ編入ス
兵庫県で郡制を施行するにあたって、地理・行政上の不便を解消するためだったのだろう。これによって美作・播磨国界はもとに戻ることになった。

以下は石井地区にある智頭急行 石井駅の駅名標とホーム (県境方面)、駅北西部の田園風景。本来は播磨国だった当地は、中世~近世は美作国として経過し、近代に入って播磨国に戻るという変遷を経験した。ある意味「流転の地」ではあるけれども、今も昔も山々に囲まれた、緑あふれる長閑な土地だ。
注釈
データシート
| 変動 | 伊師 |
|---|---|
| 要因 | 荘園の展開 |
| 曖昧化の時期 | 不明、古代~中世。 |
| 変動の確定時期 | 不明、古代~中世。 |
| 変動 | 伊師 |
|---|---|
| 要因 | 郡制の施行 |
| 変動の確定時期 | 明治29年(1896) 3月29日 (法律第56号) |
(参考) 県境の変動: 昭和38年(1963)
経緯
昭和38年(1963) 9月※1岡山県 和気郡 日生町のうち福浦地区 (大字福浦) の過半は兵庫県 赤穂市に編入された※2。大字福浦の過半とは、近世 備前国 和気郡 福浦村・福浦新田に相当する部分であり、寺山新田に相当する部分だけは兵庫県に残った。変更前の岡山・兵庫県境は備前・播磨国界である。

この県境の変更は、いわゆる「昭和の大合併」における県境をまたいだ分離・合併 (編入) のひとつであり、住民間に激しい対立を生じさせた。福浦地区を含む福河村 (近世 福浦村・福浦新田・寺山新田・寒河村・中日生村) と西隣の日生町が合併を計画したところ、同地区はこれに反対し、東隣の赤穂市へ分離・編入することを希望したためである。福浦地区は、もともと三方を山に囲まれ、孤立した地形にあった。しかし都市化の進行によって赤穂市との結びつきが強まり、これに大阪の吸引力も加わった。
その後、岡山県の指導もあって、昭和30年(1955) 3月に福河村・日生町は合併し、新たに日生町となることが決まった。このとき、合併協定書には「将来、新町において、現福河村大字福浦地区の住民の意志を尊重して、県内外合併可能の時期到来の際は、異議なく分離を認めること」※9という付帯事項が設けられ、これによって事態は一応の円満解決になるはずだった。しかし実際にはこの付帯事項は添付されず、岡山県も受理していなかったことがあとでわかって、事態は急転する。さらに新町発足後の町議選挙で地区の有力者が落選したことも紛糾に拍車をかけた。
結局、対立は激化の一途をたどり、国の調停を経て地区の分離・編入が実現するのは 8年後のことである。その間、赤穂市も加わった運動や、岡山県による引留め交錯、その岡山県と兵庫県の対立など混乱をきわめ、一部では暴力事件まで発生してしまった。なお、赤穂市がこの編入に前向きだった理由のひとつに、近世の境界に由来して、海上の県境が取揚島を頂点に東へ突出していることがあった。この取揚島は岩礁に過ぎないが、播磨・備前の国境にとして『天保播磨国絵図』にも『天保備前国絵図』にも描かれている (『とりあけ嶋』『とり𛀄け嶋』、それぞれ他国側の半分は隣国色別の彩色)。取揚島が福浦地区とともに編入されれば、赤穂市は利用可能な海域が一気に広がるはずだったが、残念ながら調停によって取揚島の県境は変更されなかった (ただし福浦地区沖など利用可能な海域は広がった)。
なお、変動エリアには現在 JR赤穂線の「備前福河駅」が存在する。ほかと重複・類似する場合、駅名は旧国名で区別されることが多く、備前福河駅も両端で接続する山陽本線に福川駅があったためと考えられ、そこがかつて岡山県だったという記憶をささやかに留めている。ただしこのとき国界も変更されたいう事実は存在しないので、理屈の上では現在も当地は備前国である。
兵庫北関入舩納帳と中世の福浦
福浦地区は、南北朝期以降、播磨国を根拠とする赤松氏の支配下にあったとされ※11、また住民は播磨国の船に乗って兵庫まで船荷を運んでいた。ということは、福浦地区も佐用町の石井地区・東中山と同じように、かつては播磨国であった可能性はないのだろうか。赤松氏の支配については直接的な史料が存在しないが、海運については『兵庫北関入舩納帳』があるので検討してみよう。
『兵庫北関入舩納帳』は、文安2年(1445) 正月から同3(1446) 年正月にかけて兵庫北関で記録された関税の徴収簿であり、船籍地・積荷・船頭・業者などの情報が載っている※10。この中から「福浦」の地名を抽出すると以下のようになる。福浦の港は風待ち・潮待ちに適している。松の伐採・売却のほか大豆の栽培もあったので※11、海産物のほかにそうした特産物を運んで利益を得ていたのだろう。
| 月日 | 船頭 | 船籍地 | 品目 | 業者 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 地名 | 名前 | ||||
| 1月8日 | 福ら | 五郎太郎 | 室 | 大豆 | 豊後屋 |
| 8月25日 | フクラ | 千代松 | 室 | 小イハシ | 豊後屋 |
| 9月12日 | ふくら | 五郎三郎 | 室 | 小イハシ | 豊後屋 |
| 11月16日 | 福浦 | 長松 | 室 | 小イハシ | 豊後屋 |
| 9月22日 | ふくら | 左衛門四郎 | 室 | 小イハシ | 豊後屋 |
| 10月3日 | ふくら | 衛門五郎 | 室 | マツ | 豊後屋 |
| 11月11日 | ふくら | 兵衛太郎 | 室 | ナマコ | 豊後屋 |
| 11月18日 | ふくら | 五郎三郎 | 室 | 小イハシ | 豊後屋 |
| 11月26日 | ふくら | 左衛門次郎 | 室 | 小イハシ | 豊後屋 |
しかしここに国郡の記載はなく、決定的な判断材料にできないのは残念である。
なお、船籍地の「室」は、近世 播磨国 揖西郡 室津 (現在の兵庫県 たつの市 御津町室津) である。付近には淡路国 津名郡 室津浦・室津村 (現在の兵庫県 淡路市 室津) も存在するが、接尾辞を略した場合「室津」であり、納帳には「淡路斗」という単位を使用する「室津」が存在する。また同様に淡路国 三原郡に福良浦 (同県 南あわじ市 福良甲・同乙・同丙) も存在するが、播磨国 室津と淡路国 室津浦・室津村との関係から、「ふくら」はあくまでも備前国 福良村とわかる。
注釈
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、修正。
:
- 同、新規作成。






