35. (参考) 樫田村と西別院町 牧・寺田地区
昭和33年(1958)※1京都府 南桑田郡 樫田村は大阪府 高槻市に編入され、京都府 亀岡市のうち牧・寺田の 2地区は大阪府 豊能郡 東能勢村に編入された。

樫田村は近世 丹波国 桑田郡の出灰・杉生・田能・中畑・二料の各村、牧・寺田の 2地区は同郡 牧村・寺田村にあたる。一方、編入先は近世 摂津国 島上郡 (芥川郡)・能勢郡にあたる。つまり変更前の京都・大阪府境はかつての丹波・摂津国界である。
35.1. 経緯
(1) 樫田村
樫田村は山間部の盆地状の地形にあって、基本的に周囲からは孤立していた。近世の各村は丹波国 桑田郡として把握され、江戸初期を除いて亀山藩 (丹波亀山藩) の支配を受けた。
しかし近代に入ると、同じ南桑田郡 (近世 桑田郡が分割された南部) の中心である亀岡 (旧・亀山) よりも、府境を越えた高槻との結びつきが強まった。直接的には高槻市の市営バスが通って市街地への往来が便利だったことが大きく、これに都市としての魅力が吸引力として働いたとみられる。バス路線は亀岡方面へものびていたが本数は半分で、鉄道の利便性を比べても前者は単線・非電化で本数も少ない国鉄亀岡駅、後者は電車が頻発する国鉄高槻駅に、さらに阪急の高槻市駅もあるとあっては差は歴然としていた。いわゆる昭和の大合併では、南桑田郡は亀岡町を核に全町村が合併して亀岡市を発足させる構想があったが、このような事情から樫田村は加わらず (ほかに篠村も留保)、その後、高槻市への編入が実現した。
なお、杉生地区だけは桂川 (大堰川) 水系にあり、村の中心部 (田能) へ行くには峠を越える必要があった。このため、かならずしも同じ意向ではなかったが、分村して亀岡市へ加われば小学校が遠くなることなどから、杉生地区も積極的に反対することもなかったようだ※2。峠の直下には昭和46年(1971) 杉生トンネルが開通して交通事情は大幅に改善された。
いわゆる「昭和の大合併」であった都府県境を越える市町村合併では、賛成派と反対派とで住民間に対立が生じて暴力的な行動もしばしば起こったが、当地では確認されない。前述のように杉生地区だけは無条件に賛成というわけではなかったものの、全村をあげての要望だったためだろう。また、樫田村の動きが周囲に波及するような気配はなく、あるいはどちらも求心力に関しては自負があったのか、京都府・大阪府とも特に反対もしないが賛成もしないという態度に終始したことが大きかったかと思われる。
(2) 西別院町 牧・寺田地区
西別院村は、昭和29年(1954) まで南桑田郡に存在した村であり、前述の亀岡市構想に加わっていた。しかし牧・寺田の 2地区はこれに反対の立場であって、最終的に容認したのは事後に分離されることを前提としたものだった。なお、当初は神地地区 (近世 丹波国 桑田郡 神地村) も同じ立場だったが、途中で態度を変えて亀岡市にとどまることになった。
樫田村とは異なって、ここでは西別院村から離脱かつ少数派であることから対立は生じた。しかし暴力的な行動はなかったようで、もちろん当時の時代背景を反映した行動はあったかもしれないが、あくまでも政治の議論のなかで検討され、陳情に陳情を重ねた結果として分離・編入は実現した。京都府・大阪府に積極的な介入がなく対立しなかったことも大きかったと考えられる。
35.3. 各村の中世
前述のとおり、樫田村は山間部の盆地状の地形にあって基本的に周囲からは孤立していたが、水系に着目すると淀川水系 芥川・安威川の源流部にあたり (杉生を除く)、もともと大阪府の方向へ連続していた。これは西別院町 牧・寺田地区も同様である。それでは両地域がもともと丹波国ではなく摂津国だった可能性はないのだろうか。
(1) 樫田村
中世の樫田村付近には田能庄が展開された。田能庄が史料に初めてあらわれるのは元仁2年(1225)『七条院譲状案』で、「うへき」「あむと」「ひのまき」「ふけたう (ほけたう)」とともに「たの」があり、後続の嘉禄2年(1226)『七条院重御譲状案』※11では「うゑき」「あんと」「ひのまき」「ほけたう」とともに「たの」がある。

また、安貞2年(1228)『修明門院処分状案 (七条院処分目録案)』※12には「法花堂領」として「筑前国 殖木庄」「大和国 檜牧庄」「安堵庄」および「丹波国 田能庄」が含まれ、七条院領を構成し、丹波国として把握されていたことがわかる。
建久9年(1198)『七条院庁下文』※13によれば、七条院領としての檜牧庄は長厳 (七条僧正) が七条院に寄進し、自身は領家職 (下位の領有権) を得て成立した※14。法花堂領のほかの 3荘園 (殖木・安堵・田能) も同様の経緯によって七条院領となり、長厳が領家としての支配を確保したものと考えられる。
長厳が開いた七条本坊 (のちの教令院)※15は道厳・道朝 (・実聖)・忠瑜と続いて※16、領家職も継承されていったが、4荘園とも七条本坊が領家であることを確認できるのは、宝治2年(1248) に道厳から道朝へ譲られた時点までである※17。その後、永仁6年(1298) と推定されている年不詳 6月23日『伏見天皇綸旨』※18によれば「丹波国田能庄」の領家職は仁和寺慈尊院に譲られた。以後の在地の状況は不明だが、文明10年(1478)『仁和寺当知行不知行所領文書目録』※19で田能庄は「不知行」となっているので、他の荘園と同じように南北朝期以降は不安定化し、戦国期を迎えるころにはすでに実体を失っていたのだろう。なお、檜牧庄は道朝が長厳・道厳の供養のために建立した枯木庵に領家職を移し、『法印真瑜大和国桧牧庄領家職寄進状』※20によれば、貞治元年(1362) 東寺西院御影堂に寄進された※14。殖木庄 (植木庄) は永仁5年(1297) 忠瑜まで継承されていることが確認できるが※21、その後はわからない。安堵庄は宝治2年(1248) から文明10年(1478) までの消息は不明だが、『仁和寺当知行不知行所領文書目録』に「不知行」として含まれているので、田能庄と同様この間に仁和寺が領家職を得て、そして実態を失ったのだろう。
一方、田能庄の西側には別院庄 (弥勒寺別院庄) が展開された。近代の東別院村 (近世 小泉・神原・栢原・鎌倉・南掛・東掛・倉谷・湯谷・別院大野の 9村)・西別院村 (柚原・犬甘野・笑路・大槻並村・神地・万願寺の 6村、および牧村・寺田村) はこの別院庄に由来すると思われるが、近世 中畑・田能・出灰・二料・杉生の 5村も別院庄や別院組といった広域地名に含められていた。
一例を挙げれば、文化5年(1808)『牛馬運送につき別院庄惣代願書写』※22では、栢原・鎌倉・小泉・神原の 4村とともに「別院庄九ケ村」とあり、ほか各村に残る史料※23に「別院十ケ村」「別院組十ケ村」や「南別院」「別院之内」といった文言が含まれ※23、『杉生村村誌』『中畑村村誌案』※24には「往古桑田郡 (郷) 東別院ノ庄ト云」「往古 何々田ノ郷 南別院ノ庄 ト云フ」とある。
永禄4年(1561)『後藤治部少輔宛室町幕府奉行人奉書』※25によれば「丹波國桑田郡內別院中畑鄕」で田地が買得 (購入) され、「中畑郷」は「別院」に含まれている。また『南桑田郡誌』(1924) で本文内に引用されている、観応2年(1351) 『樫田村樫船神社所蔵文書』は、形態や内容の全体がわからないため扱いが難しいが、「丹波国桑田郡弥勒寺別院のうち田能村と所々、他領山々境目の事 (丹波國桑田郡彌勒寺別院之內田能村與所々他領山々堺目之事)」について「田能むら地頭代」「中のはた地頭代」とほか 2者が連署しており、田能村とその周囲 (所々) を「丹波国桑田郡弥勒寺別院」に含めている。
これらからいえば、永仁6年(推定,1298)『伏見天皇綸旨』までは存在を確認できる田能庄は、その後の早ければ南北朝期に別院庄の領域に取り込まれたといえ、史料にあらわれて以後、丹波国として把握されたまま近世・近代を迎えたものといえる。
なお、近代 樫田村 (近世 出灰・杉生・田能・中畑・二料各村) がすなわち中世 田能庄ではないが、出灰村は田能村からの分村とされ※26、中畑村は地形の連続性および後述の樫田村樫船神社所蔵文書における連署から、二料村は鎮守の藤井神社が田能村名主に関係するとされる※27ことから、基本的に古くから同じ領域を共有してきたものと考えられる。
(2) 西別院町 牧・寺田地区
寺田の中世がわかる史料は見当たらない。牧についても 2点に限られるが、そのうちの『勝尾寺毎年出来大小事等目録』※28によれば、宝治2年(1248) 勝尾寺の般若会で行われた舞において、左右 4人ずつの舞人の中に「ヨノノ牧」の「長寸」という 18歳の人物が含まれていた。これは、近世 丹波国 桑田郡の牧村がもともと摂津国 能勢郡の余野村に含まれ、また勝尾寺 (近世 摂津国 島下郡) の影響範囲に含まれていた可能性を示唆している。宝治3年(1249)・建長2年(1250) にも般若会は催され、あわせるとほかの舞人は「河尻」2人・「野瀬」3人 (近世 摂津国 能勢郡)、「萱野」2人・「瀬河」2人 (同 豊島郡)・「山田」(同 島下郡)・「住吉」2人 (同 住吉郡) とある (人数は延べ)。つまり、舞師の甥と無記載・現在地不明 (『少滝』)・遠方の「京」「豊州」を除けば、舞人は摂津国の人物で占められており、これも近世の牧村がもとは摂津国に含まれていた可能性を高めている。とはいえ、この記述だけをもって断定するのは難しい。
『長沢家由緒書抜』※29によれば、永享の乱 (永享10年, 1438) の勲功によって別院庄は同家に与えられ、天正年間(1573~1592) 家綱の代では松尾城 (笑路城) 主として明智光秀の侵入 (丹波平定) を何度も防いだという。その後、家綱は光秀の配下として安堵を得たものの、天正10年(1582) 6月、本能寺の変後の山崎の戦いで一族は滅び、重病のため参陣できなかった家綱の子・季綱だけが残ったとされる。季綱は神路 (神地) 村に退いて謹慎したが、寺田又右衛門という人物を介して羽柴秀吉 (豊臣秀吉) の許しを得ることができ、別院庄を任されて牧村に居住した。またこの由緒書の話者でもある重綱 (秀綱の子) は、亀山城主・前田玄以に呼び出されて牧・神路 (神地) の両村を領知され、「別院庄之仕置」を任された。
これによると、寺田又右衛門を寺田村に住んでいた人物とすれば、牧・寺田・神地の 3村は別院庄のほかの各村とは異なる特殊性を感じられる。もちろん謹慎の経緯からいっても、単に別院庄の最奥の村々というだけかもしれない。なお文書は由緒書ではあるものの、作成されたのが慶長19年(1614) であって、戦国期から織豊期の記述に関しては当事者の記憶に基づき、比較的正確に書き残されているといえる。
牧・寺田地区は水系の点ではもともと大阪府に連続し、分水嶺は変更前の府境 (旧国界) ではなく変更後の府境にある。しかし、分水嶺とはいっても谷底平野がほぼ平坦なまま接続していて、峠といえる地形にはなっていない。ここでいえるのは、曖昧で不確かだった国界が江戸初期までに定まったということまでだろう。
田能庄を含む七条院領は七条院※30から修明門院※31に譲られ、その後、善統親王※32へ継承された。七条院領から修明門院への譲状が元仁2年(1225)『七条院譲状案』・嘉禄2年(1226)『七条院重御譲状案』であり、善統親王を含むその後の継承に関係するのが複数の安貞2年(1228)『修明門院処分状案』となる。本家職の継承や『修明門院処分状案』のバリエーションについては『七条院領の伝領と四辻親王家』(2001, 布谷, 日本誌研究 461) に詳しい。
永享年間(1429~1441) 以後の状況は前述のとおりだが、正和2年(1313) 『六波羅下知状案』※33 の「当院」は弥勒寺別院とされ、それによれば承久の乱 (承久3年, 1221) の勲功によって中沢氏に「当院」の地頭職が与えられ※34、その後「雑掌」との争いがあって 2/3が地頭分、1/3が雑掌分になったという。この中沢氏は同じ丹波国 多紀郡 大山庄の地頭と同系統と考えられ、史料によっては長沢氏と記されている※35。慶長19年(1614)『長沢家由緒書抜』も、はじめ中沢氏であって季綱の謹慎のときに長沢に改名したという。中世の史料における別院庄の直接的な記述としては、ほかに永正4年(1507)『四郎左衛門尉道忍所領譲状写』に「同国弥勒寺別院寺村里外田畠山林等事」(同国 = 丹波国)※36とあるだけである。
なお、貞治3年(1364)『仁和寺文書目録』※33 によれば、承平7年(937) 5月17日付の『別院弥勒寺領田事』や、天徳3年(972) 12月22日付を持つ『可以弥勒寺為仁和寺別院事』などが存在した。これによれば「弥勒寺別院」(弥勒寺の別院) が別に存在したのではなく、「別院弥勒寺」(別院である弥勒寺) がただ存在したことになる。