14.1. 変動の要因

じょうがん年間(859~877) ・小吉蘇両村の所属をめぐって美濃国と信濃国が対立したことがある。さんだいじつろく (日本三代実録)』がんぎょう3年(879) 9月4日の記事 (c.9) には以下のように書かれている※1

Fig.644 三代実録 第36巻 慶長年間(1596~1615) 写本 (部分・国立公文書館所蔵)
日本三代実録 第36巻

美濃・信濃国をして、県坂上みねもって国堺とさしむ。県坂山みねは美濃国郡と信濃国ちく郡の間にり。両国は古来境堺を相争あいあらそいて、いまだ決する所に有らず。じょうがんちょくして左馬権少允さまのごんのしょうじょうじゅ六位上藤原ふじわらの朝臣あそんまさのり刑部少録ぎょうぶのしょうさかんじゅ七位上靫負ゆげいの直継雄あたいつぎおりて、両国司と地にのぞみてあいさだめしむ。まさのり旧記を検して云うには「吉蘇・小吉蘇両村はこれ恵奈郡絵上郷の地なり (中略) 今の地は、美濃国府を去ること行程十余日、信濃国にもっと逼近ちかしとす。し信濃の地とさば、何ぞ美濃国司をして遠く関に入りて、の路を通せしめんや」と。これりて、まさのりの定むる所に従う。

原文: 令美濃信濃國以縣坂上岑為國堺縣坂山岑。在美濃國恵奈郡与信濃國筑摩郡之間。兩國古来相争境堺未有所決。貞観中敕遣左馬権少允従六位上藤原朝臣正範・刑部少録従七位上靱負直継雄等、与兩國司臨地相定。正範等検舊記云、吉蘓小吉蘓兩村、是恵奈郡繪上鄕之地也 (中略) 今此地、去美濃國府行程十餘日、於信濃國㝡為逼近。若為信濃地者、何令美濃國司遠入閞通彼路哉。由是従正範所定。

ここで参照されている「旧記」は続日しょくにほんのことであり、和銅6年(713) 7月7日の記事 (c.25) と和銅7年(714) 閏2月1日の記事 (cc.30-31) に以下のように書かれている※2Fig.685 続日本紀 第6巻 明暦3年(1657) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
続日本紀 第6巻

美濃・信濃二国のさかい、径道けんにして往還かんなんなり。よっを通す。

原文: 美濃信濃二國之堺、徑道險阻徃還艱難、仍通吉蘓路。

Fig.647 続日本紀 第6巻 明暦3年(1657) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
続日本紀 第6巻

美濃守 じゅ四位下 笠朝臣かさのあそんほう七十戸・田六町を賜い、しょうじょうしょう七位下 門部かどべの連御立むらじみたて大目だいさかん じゅ八位上 山口忌寸いみきおのおの位階を進め、たくみ じゅ六位上 伊福部いぶきべのきみあらまさに田二町を給う。を通するをもってなり。

原文: 賜美濃守從四位下笠朝臣麻呂封七十戶田六町、少掾正七位下門部連御立・大目從八位上山口忌寸兄人、各進位階、匠從六位上伊福部君荒當賜田二町。以通吉蘓路也。

これらによれば、美濃・信濃両国は古くから国界がどこであるか争いが絶えず、藤原ふじわらの朝臣あそんまさのり靫負ゆげいの直継雄あたいつぎおらが現地に向かい、両国司と検分した。このとき正範は旧記 (『続日しょくにほん』) を参照して、国界を「県坂上みね」とし、吉蘇・小吉蘇両村は美濃国の恵奈郡 絵上郷に含まれるものとした。これは、和銅7年 (714) 笠朝臣かさのあそんらが前年に「」を開通させたことを理由に報賞されていることから、開通させたのは美濃国であるとし、国府から 10日以上もかかり、しかも信濃国もすぐそばであるところに道を通したのは、その場所が美濃国でなければほかに理由がない、というものである。

この記述によって、木曽や「吉蘇路」(木曽路) は本来、美濃国の一部であることがわかる。しかし同時にここで判明するのは、それらはすでに曖昧になっていて、美濃国司さえ把握できない状態になっていたということだ。国府からの距離の問題もあるが、新しく通した道もあまり利用は多くなく、関心が向くような場所ではなかったのだろう。その後も状況としてはあまり変わらなかったようで、かんこう年間(1004~1012) 成立の『拾遺和歌集』には以下のような歌が収録されている。

拾遺和歌集 第14巻 恋4※3

女のもとにつかはしける

なかなかに ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

源頼光

和歌に関してはイメージで詠まれることもあって評価が難しいものの、逆にいえば木曽は信濃であるということがすでに共有されたイメージだったとはいえる。

このほか吾妻鏡あずまかがみ治承じしょう4年(1180) 9月7日の記事 (cc.52-53) には、幼い木曽義仲 (源氏木曽冠者義仲) は乳母の夫によって「信濃国」へ逃れ、養育されたとあり、この「信濃国」は吉川本と呼ばれる系統の写本では「信濃国木曽」となっている※4。またぶん2年(1186) 3月12日の記事 (c.35)に引用されている『乃貢のうぐ未済庄々注文』(同年 2月付) の信濃国に「大吉祖庄」がある。

一方で、元徳元年(1329) と推定される『小木曽庄三ケ保検注雑物沙汰注進状』※6には「美濃国小木曽御庄」※5ぶんしょう元年(1466) の日付を持つ興福寺 梵鐘銘※6には「美濃州慧那 (恵那) 郡木曽庄」とあるなど、木曽が美濃なのか信濃なのかは一定せず、記述者の認識や時期、言及している地点に依存している。

記述史料所収等
寛弘年間 (1004~1012)「なかなかに 云ひも放たで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ」『拾遺和歌集』既述、年は和歌集成立時期
治承4年(1180)「信濃国木曽」『吾妻鏡』(叙述部分)既述
文治4年(1188)「浅ましや さのみはいかに 信濃なる 木曽路の橋の かけわたるらむ」『千載和歌集』年は和歌集成立時期
文治2年(1186)「信濃国」 「大吉祖庄」『乃貢未済庄々注文』既述
建長3年(1251)「信濃路や 木曽の御坂の 小篠原 分けゆく袖も かくや露けき」『続後撰和歌集』年は和歌集成立時期
とく2年(1307)「信州木曽御嶽山禰宜職」『諏方旧跡志』所収 木曽御嶽神主 武居若狭 所蔵文書※7『信濃史料叢書 中巻』(1969) (c.186)
えんきょう3年(1310)「美濃国小木曽庄」『伏見上皇院宣』※8『岐阜県史 史料編 古代・中世4』(1973) (c.267)
しょうちゅう3年(1326)「信濃なる 木曽の麻衣引きはへて 夜さへ月に さらしなの里」『続後拾遺和歌集』年は和歌集成立時期
げんとく元年(1329)「美濃国小木曽御庄」『小木曽庄三ケ保検注雑物沙汰注進状』既述
元徳元年(1329)「美濃国小木曽庄」『美濃国小木曽荘雑掌地頭代連署和与状』※9『真壁町史料 中世編3』(1994) (c.186)
貞和じょうわ2年(1346)「美濃国小木曽庄」『足利直義下知状』※10『真壁町史料 中世編3』(1994) (c.166)
かんおう2年(1351)「美濃国小木曽庄」『真壁光幹置文』※11『真壁町史料 中世編1』(1983) (c.27)
延文4年(1359)「谷風に 雲こそのぼれ 信濃路や 木曽の御坂の 夕立の空」『新千載和歌集』年は和歌集成立時期
おうえい19年(1412)「美濃州遠山庄馬籠村」 「濃州遠山庄馬籠村」「美濃國惠那郡遠山莊馬籠村」『紙本墨書大般若経奥書』※12『信濃史料 第3巻』(1953) (c.296) ・ 『信濃史料 第7巻』(1956) (cc.274-275)
えいきょう11年(1439)「北美州小木曽殿村」白山神社 銅製鰐口銘※13『信濃史料 第8巻』(1957) (c.93)
ほうとく元年2年(1449)「美濃国木曽内岩殿村」『康富記』※14『岐阜市史 史料編』(1976) (c.260)
ぶんしょう元年(1466)「美濃州慧那 (恵那) 郡木曽庄」興福寺 梵鐘銘既述
ぶんめい5年(1473)「信濃木曽殿」 (人名)『東寺執行日記』※15『信濃史料 第9巻』(1957) (c.77)
てんぶん4年(1535)「信州木曽庄浄戒山定勝禅寺」『茂彦善叢賛貴山恵珍頂相』※16『信濃史料 第11巻』(1958) (cc.65-66)
天文18年(1549)「信州木曽荘浄戒山定勝禅寺」『信濃奇勝録』 所収 定勝寺鐘銘※17『新編信濃史料叢書 第13巻』(1976) (c.14)
天文19年(1550)「信州木曽辺」『三木直頼書状』※18『信濃史料 第11巻』(1958) (cc.253-254)
天文23年(1554)「信州木曽黒沢」黒沢本社 鰐口銘※19『信濃史料 第8巻』(1957) (c.38)
えいろく7年(1564)「信州木曽上松」『玉林院記録』※20『信濃史料 第12巻』(1958) (c.294)
永禄11年(1568)「信州木曽通 宿中」『武田家伝馬手形写信玄朱印状案』※21『小田原市史 史料編 原始・古代・中世1』(1995) (#626, c.375)
てんしょう12年(1584)「信州木曽」 (人名、木曽義昌)『羽柴秀吉書状案』※22『信濃史料 第16巻』(1961) (cc.93-94)
天正19年(1591)「信州木曽庄大瀧鄕」『瀧文書』※23『信濃史料 第17巻』(1961) (cc.236-239)
慶長5年(1600)「信州木曽中諸侍」『玉林院記録』※24『信濃史料 第18巻』(1962) (cc.239-240)

前述のとおり、近世の木曽は信濃国 筑摩郡として把握された。しかし正保信濃国絵図では筑摩郡とは別に「木曽」があって、郡界の墨線によって筑摩郡と分けられている。また元禄国絵図では木曽は筑摩郡に含められているが、郡界の墨線の代わりに橙線が引かれているほか、各村は「木曽」を冠称して引き続き区別されている。天保信濃国絵図ではこの橙線はなくなるものの「木曽」の冠称は変わらない。これらから浮かび上がるのは「木曽は木曽」という概念で、美濃か信濃かというよりその狭間のどちらでもない地域として存在していたのかもしれない (信濃国絵図については『14.4. 信濃国絵図』を参照)。

最終的に近世 信濃国に含められたのは、戦国期から織豊期にかけての支配が反映されたことによると考えられるが、その実態は明らかではない。一般に武田氏の配下に入った木曽氏によって支配されていたと理解されているものの、勢力範囲やその国郡認識がどのようなものであったのか具体的にわかる史料は残っていない。

14.2. 古代の美濃・信濃国界

変動前の国界、つまり古代の美濃・信濃国界がどこにあったのかは諸説あって結論は出ていない。本稿では木曽川の上流域全体が本来は美濃国だったとして、分水嶺に古代の国界を設定した。

^ ※1: 訓読・読み仮名は『国文六国史 第11』(1941)『岐阜県史 通史編 古代』(1971)などを参考にした。原文の句読点は筆者が補った。
^ ※2: 訓読・読み仮名は『国文六国史 第3』(1934)・『続日本紀 中』(1992, 宇治谷) などを参考にした。原文の句読点は筆者が補った。
^ ※3: 『校註国歌大系 第3巻 八代集 上』(1976)『鑑賞日本古典文学 第7巻』(1975) など。
^ ※4: 原文: 「信濃國」。吉川本の記述は『吾妻鏡 吉川本 第1』(1915/1968) を参照した (c.25)。
^ ※5: 原文: 「美濃國小木曾御庄」、『岐阜県史 史料編 古代・中世4』(1973) 所収、cc.267-269。
^ ※6: 原文: 「美濃州慧那郡木曾庄萬松山興福寺」、文正元年(1466) 11月1日付、信濃史料 第8巻』(1957) 所収、cc.305-306。
^ ※7: 原文: 「信州木曾御嶽山禰宜職」とく2年(1307) 6月13日付。
^ ※8: 原文: 「美濃國小木曾庄」、延慶3年(1310) 6月16日付。
^ ※9: 元徳元年(1329) 11月26日付。
^ ※10: 貞和2年(1346) 3月7日付。
^ ※11: 観応2年(1351) 12月23日付。
^ ※12: 原文: 「美濃州遠山庄馬籠村」 「濃州遠山庄馬籠村」 「美濃國惠那郡遠山莊馬籠村」、応永19年(1412) 10月中旬付。ただしすべて「異筆」とあり、これらの部分の正確な記載時期は不明。
^ ※13: 原文: 「北美州小木曾殿村」、永享11年(1439) 3月付。
^ ※14: 原文: 「美濃國木曾內岩殿山」、宝徳元年(1449) 9月21日付。
^ ※15: 原文: 「信濃木曾殿」、文明5年(1473) 10月1日記事。
^ ※16: 原文: 信州木曾庄淨戒山定勝禅寺、天文4年(1535) 2月13日付。
^ ※17: 天文18年(1549) 10月17日付。
^ ※18: 原文: 「信州木曾邉」、天文19年(1550) 5月14日付。
^ ※19: 原文: 「信州木曾黑沢」、天文23年(1554) 6月12日付。「コノ鰐口銘、ナホ硏究ノ餘地アリ、後考ニマツ」とあるが、人物に関してであると思われる。
^ ※20: 原文: 「信州木曾上松」、永禄7年(1564) 10月5日付。
^ ※21: 原文: 「信州木曾上松」、永禄11年(1568) 7月13日。
^ ※22: 原文: 「信州木曾中諸侍」、天正12年(1584) 3月26日付。
^ ※23: 原文: 信州木曽庄大瀧郷 (ただし『郷』は『夕』を偏とする異体字)、天正19年(1591) 10月吉日付。
^ ※24: 原文: 「信州木曾中諸侍」、慶長5年(1600) 8月晦日付。