薩隅日とは薩摩・大隅・日向の 3国を指す略語で、この言葉自体は江戸期に薩摩藩が薩摩国・大隅国と日向国 諸県郡を一体的に支配したことによるが、68国が確立する以前、はじめ当地には日向国しか置かれず、和銅2年(707) までにここから薩摩国が分かれて成立、さらに和銅6年(713) 大隅国が分かれて成立したように、薩隅日はもともとは一体的に把握された土地だった。
分国の経緯からもわかるように、薩隅日にヤマト勢力が及んだ時期は遅い。長く旧勢力の抵抗が続いたようで、ヤマト勢力の影響下に入ってからも容易には屈服しなかった。したがってヤマトの視点から見れば、当地は旧勢力を排除しながら開拓する未開の辺境だった。薩摩・大隅・日向の国界も曖昧模糊としたもので、その国郡認識がどこまで開拓民や隷属した旧勢力の人々に浸透したのか、何ともいえないところがある。また律令制に基づく土地制度 (班田制) が適用された時期も遅く、徹底される以前に当の律令体制が崩壊してしまった。中世は荘園が展開されるなか、ますます国郡認識は曖昧になって、ふつう認識される薩隅日の国界は近世のものである。
推定に基づいて古代の国界を復原し、中世~近世の国界とあわせて示せば以下のようになる。当地では古代、菱刈、救仁、そして財部・深河で国界が変動した。
