17.1.1. 菱刈

(1) 変動の要因
古代 大隅国 菱刈郡のうち、中世のはじめまでに牛屎 (牛山) 院として開発された部分が薩摩国 として把握され、そのまま近世 薩摩国 伊佐郡に組み込まれた。
冒頭に記したように、大隅国が成立した時期は遅く和銅6年(713) のことだったが、この時点では肝坏 (肝属)・贈於 (囎唹・曽於)・大隅・姶羅の 4郡しかなかった。菱刈郡が成立するのはさらに遅く天平勝宝5年(755) のことである。『 六国史』 天平勝宝7年(755) 5月19日の記事 (c.18)で以下のように言及されている。
続日本紀 大隅国菱刈村の浮浪九百三十余人が、『郡家 (郡の役所) を建てたい』というので、これを許した。 |
原文※1: 大隅國菱苅村浪浮九百三十餘人、言慾建郡家、許之。 |
このように建置された菱刈郡だったが、天平15年(743) にいわゆる「墾田永年私財法」が成立したあとのことであって、当初の領域を維持できた期間はそう長いものではなかった。荘園の展開にともなって次第に侵食され、中世に入るころにはおおむね近世に認識される範囲にまで縮小したのだろう。
牛屎院はそのような荘園のひとつで、天承2年(1132) 『僧経覚解』※2に「牛屎真幸両郡」として、はじめて史料にあらわれる。また安元3年(1177)『右近衛府政所下文』※3には「薩摩國牛屎郡」とあり、牛屎院は薩摩国として把握されていたことがここでわかる。一方、文治3年(1187)『源頼朝下文』※4では「薩摩國牛屎院」、『薩摩国建久図田帳』でも「牛屎院」で、以後基本的に「牛屎院」だが、文永3年(1266)『島津道仏譲状』※5で「薩摩國牛屎郡」とあるなど、鎌倉前期を過ぎるまでは郡と院の表記は一定しなかったようだ。
安元元年(1175) 『右近衛府牒』※6とともに、安元3年(1177)『右近衛府政所下文』にはこのとき発生していた係争の内容と当事者である郡司・太秦元光の名前が示されている。太秦氏は先祖の元平が康和2年(1100) に任じられて以来、郡司を勤めてきたとされ、その後も代々郡司 (院司) を継いで牛屎氏を名乗るようになった。
しかし室町中期ごろになると、菱刈氏や肥後の人吉を根拠地とする相良氏の影響が強まって、牛屎氏は牛屎院を追われたようである※7。またこれと相関するものかははっきりしないが、寛正6年(1465)『薩摩国牛山院坪付』※8に「薩摩國牛山院」とあるように、このころから「牛山院」とも呼ばれるようになるが、天正8年(1580)『島津氏老臣連署坪付』※9では「薩州牛屎院」であり、立場によってかその後も両呼称は併存した。
前述のとおり、牛屎 (牛山) 院は史料にあらわれた時点で薩摩国として把握されている。この経緯はそもそも荘園初期の状況が記録に残っていないのでわからないが、建置の経緯からいっても菱刈郡の領域は定着しないまま曖昧化してしまい、開発の過程で薩摩国の延長とみなされてしまったのだろう。
牛屎 (牛山) 院に対して、中世~近世の郡界 (川内川支流の羽月川~市山川) 以南には「菱刈院」が成立した。[loca:ZDN]『大隅国建久図田帳』では「菱刈郡」とはあるものの、深河院・財部院などと同列に扱われてすでに荘園化している。牛屎 (牛山) 院と同様しばらく「郡」の呼称のまま経過したが、貞和6年(1350)『足利直義書下』※10で「大隅国菱刈院」の表記があらわれ、以後荘園を指して「菱刈郡」と呼ぶ例は見当たらない。『島津国史』※11や『忠元勲功記』※12などによれば「太良院」とも、牛屎院とあわせて「菱刈両院」とも呼ばれたという。なおこの菱刈院の範囲がそのまま近世 菱刈郡の範囲であり、もとの範囲に復旧されることはなかった。
院は荘園の形態・呼称のひとつ。律令制の衰退にともなって発達した荘園に体系はなく、荘/庄・院・保・御厨・御薗/御園など、さまざまな形態・名称で存在した。「院」は薩隅日に集中して多い。
図田帳は主に鎌倉幕府が各国守護に命じて作成させた土地台帳。一国ごとに国衙領・荘園を書き上げ、耕地面積・領有関係などが記録されている。大田文とも。建久8年(1197) にまとめられた建久図田帳は薩摩・大隅・日向の 3国のものが知られ、『薩摩国図田帳写』が『川内市史料集 2 薩摩国新田神社文書2』(1973)※13に、『大隅国建久図田帳』が『大隅国建久図田帳小考』(1960, 五味, 日本歴史 142)※14に、(日向国)『建久図田帳』『日向郷土史料集 第5巻』(1963)※15に、それぞれ収録されている。
(2) 古代の大隅・薩摩国界
当地における古代の大隅・薩摩国界は分水嶺である。
注釈
(3) 薩藩政要録の村々
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薩藩政要録は薩摩藩の藩政における諸制度などをまとめたものである。必要に応じて改訂されたらしく、文政11年(1828) のものが『鹿児島県史料集 1 薩藩政要録』(1960)」として、嘉永4~5年 (1851~1852) 頃のものが『鹿児島県史料集 29 要用集 上』(1988)・『鹿児島県史料集 29 要用集 下』(1989) として翻刻・刊行されている。原題は『要用集』。
本稿では、近世の村々をあらわす際に天保国絵図・郷帳を基準としているが (『2. 天保国絵図・郷帳によるアプローチ』を参照)、薩摩国・大隅国・日向国 諸県郡ついては薩藩政要録を利用した。これは元禄国絵図・郷帳以後の変更が天保国絵図・郷帳に反映されていないため。時期は薩藩政要録と天保国絵図・郷帳とで大きな違いはない。なお番号は天保国絵図・郷帳と同様、記載されている順に郡単位で筆者が振ったものである。

薩摩国 伊佐郡 大口郷※1 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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薩摩国・大隅国、および日向国 諸県郡の近世における「郷」は薩摩藩の行政単位であり、はじめ「外城」と呼ばれた。薩藩政要録の村々も郷を単位として把握されている。郷は隣接する郡の村を含む場合もあるが、郷も郡のどれかには属しているので、郷と村の郡が一致しない場合がある。
第一次のモンゴル襲来 (文永の役) 後、博多湾に構築された石築地 (防塁) の負担配分を記した文書※32。大隅国の荘園・郷などが書き出されている。『鹿児島県史料 旧記雑録前編1』(1979) 所収、建治2年(1276) 8月付、#773・cc.158-161。