財部・深河・救仁付近の大隅・日向国界は、菱刈付近の薩摩・大隅国界以上に曖昧で漠然としている。基本的に財部・深河付近の旧国界のうち北部は現在の曽於・霧島市境、救仁付近の旧国界は鹿児島・宮崎県境に近いが、これらには中世以降の動向が反映されている。ここでは敢えて地形に忠実に変動前の国界を導き出した。
ただし変動があった一帯の大部分は、生産性の低いシラス台地か丘陵地である。正応元年(1288)『島津庄々官等申状』※1に「島津本庄者、萬壽年中、以無主荒野之地、令開發庄号、令寄進 宇治關白家」とあるように、島津庄はまだ占有されていない土地を開発したことにはじまる。未開発の空白地帯全体が面的に相当漠然と国界として認識され、変動したというより確定したというのが実態だろう。本稿で敢えて地形に忠実に導き出したのはこれにもよる。
延文元年(1356)『足利義詮袖判下文』※2には「同國本庄內」(同國 = 大隅國、本庄 = 島津一円庄) として「岩河村」が財部院・深河院などと並んで記されている。財部院・深河院が含まれる『大隅国建久図田帳』には含まれないことからその後に成立したとみられるが、正確な経緯はやはりわからない。周辺の状況から深河院の一部が開発が進行にともなって独立・同格の扱いになったのではないかと推定される。近世以降の結びつきや地形から、近世 大隅国 曽於郡 末吉郷を構成する南之郷村 (中世 島津一円庄 南郷) を除く 6村のうち、深川・二之方・諏訪方の 3村付近が深河院、岩崎・五拾町・ 中之内の 3村付近が岩河村と考えられる。
| ^ ※1: | 『鹿児島県史料 旧記雑録前編1』(1979) 所収、#888・c.183。 |
| ^ ※2: | 『取手市史 古代中世史料編』(1986) 所収、中世古文書#224・c.157。 |