17.1.2. 財部・深河・救仁
(1) 変動の要因
古代 日向国 諸県郡のうち、中世に入って大隅国 財部院・深河院として分離された部分はそのまま近世 大隅国 噌唹郡 (曽於郡) に組み込まれた。

同様に大隅国 噌唹郡 (曽於郡) のうち、中世のはじめまで日向国 救仁郷・救仁院として分離された部分はそのまま近世 日向国 諸県郡に組み込まれた。

財部院・深河院は『大隅国建久図田帳』にはじめてあらわれ、多禰島 (現在の種子島) ともに島津庄の一円庄に含まれる。救仁郷・救仁院も『日向国建久図田帳』にはじめてあらわれ、救仁郷は島津庄一円庄に含まれ、救仁院は同寄郡(よせごおり/よりごおり) を構成する。
島津庄は万寿年間(1024~1028) 太宰府官の平季基が開発し、関白の藤原頼通に寄進して成立した荘園である。日向国 諸県郡から領域を広げ、最盛期には日向・大隅・薩摩の 3国にまたがる広大な荘園となった。島津庄は異なるいくつもの荘園から構成される複合的な荘園であり、個々の成立事情はそれぞれであって、わかることは少ない。
一円庄は荘園領家が完全に (一円に) 支配する荘園をいう。これに対して寄郡(よせごおり/よりごおり) は税を領家と国衙で折半し、国衙の干渉を受ける荘園をいう。この寄郡という妥協的な仕組みは南九州の荘園を特徴づけるものであって、広大な島津庄が成立した要因のひとつは、個別の荘園が次々に寄郡として加わったためと考えられる。
財部院・深河院は、図田帳では「新立庄」「三箇所保延年中以後新庄」とあって、保延年間(1135~1141) に成立して島津庄に組み込まれたらしい。周辺の状況を整理すると、中世 大隅国 財部院に対し、建久8年(1197)『日向国建久図田帳』に島津一円庄の一部として財部郷が存在し、中世以降の国界を挟んで大隅の財部院と日向の財部郷が相対する。救仁郷・救仁院がそれぞれ一円庄・寄郡を構成することから、財部院もはじめは寄郡として大隅国の勢力が開発し、そのまま大隅国の荘園として認識されたものと推定される。救仁郷・救仁院は、島津庄が南へ伸長した結果その一部に取り込まれて日向国として把握されるようになったのだろう。
(2) 古代の大隅・日向国界
財部・深河・救仁付近の大隅・日向国界は、菱刈付近の薩摩・大隅国界以上に曖昧で漠然としている。基本的に財部・深河付近の旧国界のうち北部は現在の曽於・霧島市境、救仁付近の旧国界は鹿児島・宮崎県境に近いが、これらには中世以降の動向が反映されている。ここでは敢えて地形に忠実に変動前の国界を導き出した。
ただし変動があった一帯の大部分は、生産性の低いシラス台地か丘陵地である。正応元年(1288)『島津庄々官等申状』※1に「島津本庄者、萬壽年中、以無主荒野之地、令開發庄号、令寄進 宇治關白家」とあるように、島津庄はまだ占有されていない土地を開発したことにはじまる。未開発の空白地帯全体が面的に相当漠然と国界として認識され、変動したというより確定したというのが実態だろう。本稿で敢えて地形に忠実に導き出したのはこれにもよる。
延文元年(1356)『足利義詮袖判下文』※2には「同國本庄內」(同國 = 大隅國、本庄 = 島津一円庄) として「岩河村」が財部院・深河院などと並んで記されている。財部院・深河院が含まれる『大隅国建久図田帳』には含まれないことからその後に成立したとみられるが、正確な経緯はやはりわからない。周辺の状況から深河院の一部が開発が進行にともなって独立・同格の扱いになったのではないかと推定される。近世以降の結びつきや地形から、近世 大隅国 曽於郡 末吉郷を構成する南之郷村 (中世 島津一円庄 南郷) を除く 6村のうち、深川・二之方・諏訪方の 3村付近が深河院、岩崎・五拾町・ 中之内の 3村付近が岩河村と考えられる。
注釈
(3) 薩藩政要録の村々
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