同様に郷と村の国郡が一致しなかった近世 薩摩国 鹿児島郡 触田村も、 明治初期に大隅国 姶良郡に移され、平松村の一部になった。

触田村は近世 大隅国 姶良郡 重富郷を構成し、触田村を除く平松・船津・春花の 3村は郷と同じ大隅国 姶良郡だった。『御分国之巻』※1には「薩州吉田郷内東佐多浦名ゟ別立」とあり、『薩隅日地理纂考』には重富郷について「旧名脇元ト云ヘリ。元文二年二十二代・島津継豊ノ時、帖佐郷内三村、及鹿児島郡吉田郷佐多浦村ノ内ヲ割テ、脇元ニ併セテ一郷トシ、其弟周防忠紀ニ与ヘ食邑トナサシム」(句読点・中黒は筆者が補う) とあって、元文年間(1736~1741) に重富郷が設置されたときに東佐多浦の一部が分村・成立した。
一方、地理院地図によれば現在の平松に小字として触田上・触田下があるので、平松村に編入されたことはわかるが、その経緯・経過はわからない。明治12年(1879) 年調査の『旧高旧領取調帳』や同年 7月の『鹿児島県治一覧概表』の姶羅郡 重富郷に触田村はないことから、下財部村・南之郷村と同様、明治初期の編入と推定される。
なおこれに限らずこの時期の町村の変遷はわからないことが多いらしく、『鹿児島県市町村変遷史』(1967) も『薩隅日地理纂考』と『鹿児島県治一覧概表』を比較して考察するのに留めている。
『旧高旧領取調帳』の薩摩国・大隅国の石高は「明治十二年取調旧高」とあり、ほかの情報も明治12年(1879) 調査と考えられる。前述のように触田村は含まれず、また下財部村・南之郷村は大隅国 囎唹郡に記載されている。本稿で扱ったこのほかの郷と国郡が一致しない各村については、薩摩国 伊佐郡 大口郷の市山村・花北村はそのまま大隅国 菱刈郡、大隅国 菱刈郡 曽木郷の永野村もそのまま薩摩国 伊佐郡に記載されている。しかし近世 薩摩国 鹿児島郡 近在に含まれる姶良郡 小山田村・比志島村は、鹿児島郡に記載されている。また、薩藩政要録で近世 薩摩国 谿山郡 谷山郷に含まれる宇宿村は、『旧高旧領取調帳』では鹿児島郡に記載されている。明治4年(1871) 7月5日 知政所達書※2によれば同日付の変更であり、一部は田上村に編入されたが、田上村はもともと近在に含まれるので近世の宇宿村の全体が近在に移ったということには変わらない。近在のうち下田・花棚・皆房・花野・草牟田・原良の 6村は『旧高旧領取調帳』の鹿児島郡に記載がなく、明治4年5月22日 知政所達書によれば、同日付でそれぞれ坂元・川上・比志島・岡之原・下伊敷・永吉の各村に編入された。
『薩隅日地理纂考』は明治初期の地誌。序文には「明治四年正月十五日」とあるが、完成は明治7~8年(1874~1875) ごろとみられている。同名の復刻版が昭和46年(1971) に刊行され、抜粋だが活字を改めたものが「薩隅日地理纂考抄」として「鹿児島県史料集 24 国・郡・郷・村・浦・町附 下巻」(1984) に所収。
| ^ ※1: | 『三州御治世要覧 巻36』、『鹿児島県史料集 25 三州御治世要覧』(1984) 所収。 |
| ^ ※2: | 鹿児島県史料 旧記雑録 追録8(1978) 所収。 |