ここでは、下総国を形成した地理として、利根川・鬼怒川の流路と縄文海進・内海、そして谷津の発達の著しい洪積台地について分析しています。
利根川・鬼怒川の流路
変遷
大河川は、上流部から大量の土砂を運び、その流域を埋め立てて平らな土地をつくっていく。それが四方を山々に取り囲まれたところであれば盆地であり、河口がある海に接したところであれば平野 (沖積平野) である。関東平野もそうした作用をひとつの要因として現在の形に定まった。たとえば、中川低地および東京低地と呼ばれる、埼玉県・東京都の東部で千葉県と接する付近の低地には、深いところで 60~70メートルに達するか、あるいはそれを越えるような深い谷が地下に存在する。それを河川が供給する大量の土砂が埋め立てたことで現在の景観が形成された。
そうした分厚い堆積層が形成される過程は、日本で文字による記録が行われるようになるころにはほとんど終わっていた。視点を変えれば、こうして平坦な低地が出来上がってようやく大規模な稲作を行えるようになり、やがて文字を受容できるほどに、あるいは文字を必要とするほどに、文化は成熟して律令国家にいたるわけである。一方で河川の運動が止まったはずもなく、河川の恩恵を受けた文化は、河川の脅威をどうしたら回避できるのか、あるいはせめて緩和できるのか、常に考えなければならなくなった。
沖積平野を流れる河川は自身がつくり出した自然堤防によってその流路 (河道) を固定する。つまり洪水のときに運ばれてくる土砂は流路から溢れ、その両側に堆積して微高地を形成する。これが自然堤防であり、通常の流量であれば自然堤防で固定された範囲しか流れない。再び洪水があれば自然堤防を越えるかもしれないが、溢れた水は自然堤防の向こうに溜まって後背湿地をつくる一方、土砂は自然堤防を補強する。そして、やがて水量が落ち着けば川は再びもとの流路を流れていく。しかし河道にも土砂は堆積するから、これもやがて限界に達して川は別の河道を探すことになり、こうして河川の流路は変化する。ただしほとんど勾配のない平野では、河川はまるでのたうつように曲がりくねって流れ、また頻繁に分流と合流を繰り返して網の目状の流域を形成する。流路が変わるといっても、それは漸次進行するものであって、新たな流路はかつて流れていたところかもしれない。
利根川は全国で 2番目に長く、流域面積では最大の河川である。群馬県の山間部を源流域として、同県内と群馬・埼玉県境を流れ、さらに現在は茨城・千葉県境を流れて銚子で太平洋に注ぐ。また鬼怒川は、栃木県の山間部から同県内を還流し、茨城県の南西部を流れて利根川に合流する河川で、長さ・流域面積ともその最大の支流である。しかし、どちらもはじめからこのように流れていたわけではない。9世紀はじめは、以下の左に示すように流れ、その後は右に示すように変化したと考えられている。
| 記号 | 変化 |
|---|---|
| Ⓐ | 利根川の本流が上流部で南へ移る。もとの流路は、のち合の川と呼ばれるようになる。 |
| Ⓑ | 利根川の本流が中流部で東へ移る。もとの流路のうち、荒川と合流する地点から下流は荒川単独の本流となり、残る上流部は、のち古隅田川と呼ばれるようになる。 |
| Ⓒ | 利根川の本流が下流部で東に移る。もとの流路のうち、入間川と合流する地点から下流は入間川単独の本流となり、残る上流部は、ここでものち古隅田川と呼ばれるようになる。 |
| Ⓓ | 渡良瀬川 (太日川) へ合流する利根川の分流が現れる (または水量を増す)。 |
| Ⓔ | 鬼怒川の本流が西に移り、もとの流路は小貝川単独の本流になる。 |
| Ⓕ | 渡良瀬川の本流が東に移り、利根川とは独立した流れになる。 |
| Ⓖ | 南へ流れて利根川に合流する、渡良瀬川の分流が現れる (または水量を増す)。 |
| Ⓗ | 鬼怒川の影響が小さくなって、騰波江※1は陸地化していく (または干拓されていく)。なお、残部はのちに大宝沼と呼ばれるようになった。 |
さらに近世はじめまでに以下のような変化があったとされる。
| 記号 | 変化 |
|---|---|
| Ⓐ | 鬼怒川の元の本流が下妻付近で北へ移る。 |
| Ⓑ | 利根川の本流が上流部で北東へ移り、もとの流路はのち、会の川と呼ばれるようになる。 |
| ⒸⒹⒺ | 利根川の本流が中下流部で東に移り、もとの流路はのち、おおむね ⒸⒹ では古利根川、おおむね Ⓔ では中川と呼ばれるようになる。また利根川と渡良瀬川の流路はふたたび同じになる (渡良瀬川の流路が利根川に奪われる)。 |
| ⒻⒼⒽ | 近世に入って、Ⓕ 天正2年(1574) に古利根川の分流部が、Ⓖ 天正4年(1576) に渡良瀬川分流が、Ⓗ 文禄3年(1594) に会の川の分流部が、それぞれ人工的に締め切られる。それぞれの水量は、Ⓑ~Ⓔ の流路変化 (またはその原因となった土砂の堆積による河床の上昇など) にともなって、当時の技術力でも締め切ることができるほどに減少していたと考えられる。 |
江戸期に入ると、人工的な流路変更が本格的に行われるようになった。まず元和年間(1615~1624) に左上の変更が行われ、寛永年間(1624~1644) には右上・左下・右下の変更が行われた。
| 記号 | 変化 |
|---|---|
| Ⓐ | 元和7年(1621) 分流の蛇行部が人工的に短絡され、この区間は短絡部の前後も含めて「新川通」と呼ばれるようになる。 |
| Ⓑ | 同年、台地が人工的に開削され、この区間は常陸川の最上流部も含めて「赤堀川」と呼ばれるようになる。 |
| 記号 | 変化 |
|---|---|
| Ⓐ | 寛永年間(1624~1644) 利根川と会の川 (中世の利根川) 合流部の上流が人工的に締め切られる。締め切られた部分のさらに上流側では流れが逆方向になる。 |
| Ⓑ | 利根川の流路が東に移る (移される)。この新たな流路と、もとの流路との接続する①の流路、常陸川と接続する②の流路 (逆川) の形成過程は、時期や人工・自然の程度も含めてはっきりしない。 |
| 記号 | 変化 |
|---|---|
| Ⓒ | 寛永6年(1629) 小貝川・鬼怒川新流路が開削され、鬼怒川が小貝川から分離される。これによって、鬼怒川はより上流で常陸川 (のちの利根川)と合流するようになり、旧流路は小貝川単独の本流になる。 |
| Ⓓ | 寛永7年(1630) 小貝川・常陸川新流路が開削される。これにより、鬼怒川と分離された小貝川も、より上流で常陸川と合流するようになり、また合流後の小貝川・常陸川の流路は南へ移される。旧流路は廃される。 |
| 記号 | 変化 |
|---|---|
| Ⓔ | 寛永12年(1635) から18年(1641) にかけ、新たな流路が「新川」として開削される。 |
新川は現在の江戸川の原形である。ただし、この新川にしろ新川通・赤堀川にしろ、はじめから十分な幅・深さをもっていたわけではない。その後も拡幅・浚渫は繰り返され、特に赤堀川の流量が十分になるのは元禄年間(1688~1704) と考えられている。現在の利根川 (および利根川分流としての江戸川) と変わりない姿を想像できるのはこれ以降のことである。
開削規模
江戸前期の利根川の人工的な流路変更は「利根川の東遷」としてひと括りにされ、またはじめから一貫した計画に基づく「事業」であるかのように語られることが多い。これは直接の記録がまったく残っておらず、すべて近世の地誌や近代はじめの論考に依存するためで、少なからず当時の主観が入り交じってしまった結果といえる。当然ながら、直接の記録がない以上はそれらが間違っているともいえないが、少なくとも現在の地形図から読み取れる客観的な事実として、台地の開削距離を整理しておきたいと思う。
まず赤堀川について以下の左に、鬼怒川新流路と小貝川・常陸川新流路について右に示す。
天保郷帳・国絵図の村々 (左)
天保郷帳・国絵図の村々 (右)
赤堀川はおよそ7kmの区間をいうが、台地 (洪積層) 開削部は 1kmほどに限られ、前後は軟弱な低湿地 (沖積層) である。開削部の地質は基本的に関東ローム層 (風成) であり、最大6mの掘り下げと考えられている※28。鬼怒川新流路についても全体で7kmほどの区間をいうが、台地開削部は 300~400mほどに限られる※29。小貝川・常陸川新流路も全体で11~12kmほどだが、やはり戸田井・羽根野間 300~400m、布川・布佐間 200~300mの開削に過ぎない※29。
新川については以下のとおりである。
天保郷帳・国絵図の村々
この新川も全体で20kmの区間をいうものの、台地開削部は親野井地点でおよそ 2km、金野井でおよそ 3kmの延長であり、最大の掘り下げはそれぞれ4m・6mであり、大半が関東ローム層だったとみられる※28※53。
当然ながら、すべてを手作業で行わなければならないなか、低湿地 (沖積層) だから、あるいは距離が短いから簡単だというわけではない。何度も拡幅・浚渫を繰り返さなければなかったから無計画だと論じているわけでもない。うまくいかなかったところを見直し、成功を導き出した過程こそ、また自然地形を巧みに利用することで短距離の開削に留めた知見こそ、讚えられるべきではないだろうか。
注釈
鬼怒川曲流部跡
古代 下総・常陸の国界は鬼怒川の本流である。ただし 1箇所だけ一致しないところがある。
『続日本紀』の神護景雲2年(768) 8月19日の記事に以下のように書かれている※1。

下総国言さく「天平宝字二年に本道の問民苦使正六位下 藤原朝臣浄弁等、具に毛野川を堀り防ぐべきの状を注して官に申し、聴許已に訖りて其の後已に七年を経たり。常陸国の移を得るに曰く『今官符を被りて方に川を掘らんと欲す。其の水道を尋ぬるに当に神社を決すべし。加以、百姓の宅損ずる所少なからず。是を以て状を具にして官に申す。宜しく掘ること莫れ』と。者れば此頻年洪水ありて損決すること日に益す。若し早く掘り防がずんば、恐らくは渠川崩埋して一郡の口分二千余田、長く荒廃ならん」と。是に於て両国に仰せて掘らしむ。下総国結城郡 小塩郷 小島村より常陸国 新治郡 川曲郷 受津村に達する一千余丈。其の両国の郡堺は亦旧川を以て定と為し、水に随いて移し改むることを得ず
原文: 下総國言、天平寶字二年、本道間民苦使正六位下藤原朝臣淨弁等、具注應掘防毛野川之狀申官、聽許已訖其後已經七年。得常陸國移曰、今被官符方欲掘川。尋其水道當次神社。加以、百姓宅所損不少。是以具狀申官。宜莫掘者此頻年洪水損決日益。若不早掘防、恐渠川崩埋一郡口分二千餘田長爲荒廢。於是仰兩國掘。自下総國結城郡小鹽郷小嶋村達于常陸國新治郡川曲郷受津村一千餘丈、其兩國郡堺亦以舊川爲定不得隨水移改
つまり、洪水の被害を軽減するため流路が変更されたが国界は古い流路のままとされた、とされ、これが流路と国界が一致しない箇所にあたる※2。
注釈
縄文海進と内海
およそ 46億年といわれる地球の歴史の中で、現在の我々は新生代の第四紀という時代に生きている。この第四紀とはジュラ紀や白亜紀などでおなじみの「紀」の最後で、(大雑把に) 約250万年前にはじまったとされ、現在より遠いほうから更新世と完新世に分けられる。更新世は以前は「洪積世」と呼ばれ、洪積層 (台地) が形成された時代である。完新世は同様に「沖積世」と呼ばれ、沖積層 (低地) が形成された時代である。完新世は最終氷期、つまり気候が寒冷で氷河が発達した期間 (氷期) のうち、現在にもっとも近い氷期が終了した約1万年前からはじまっている。
その完新世の初期、氷河の融解によって海面は急上昇し、海は内陸に向かって深く入り込んだ。日本ではこれを縄文海進と呼び、ピークは 7300~7000年前とされる※1。海面は現在よりも 2~3メートル高く、また現在の標高でいえばおおむね10メートルまでが海だったと推定され (関東平野の低地部)、高いところでは 20メートル以上だったという (房総半島南端)。これは隆起の影響を受けているためで、差は隆起速度の違いに起因する。
このとき形成された内湾のうち、現在の江戸川・中川・荒川流域に発達したものを奥東京湾、同じく利根川・鬼怒川流域のものを古鬼怒湾 (または奥鬼怒湾) という。奥東京湾はその後の海退にともまってほぼ消滅したが、古鬼怒湾は広大な内海として残って下総・常陸の国界となった。以下は、縄文海進ピーク時の海岸線 (左) と 9世紀はじめの内海 (右) である。どちらも推定で、前者には相関のある貝塚の分布もあわせて示した。
内海は現存する霞ケ浦 (西浦・北浦) がそうであるように、浅い汽水湖のような環境だったと考えられる (ただし現在の霞ケ浦は淡水湖)。
ところで、その内海はかつてどのような名前で呼ばれていたのだろうか。結論からいえば、残念ながらそれは明らかではない。『常陸風土記』では部分ごとに「信太の流海(ながれうみ/りゅうかい)」「榎浦の流海」「佐礼の流海」「高浜の海」「行方の海」「安是の湖」と呼ばれている。しかし全体の呼称には言及がない。
万葉集では、以下の 3首に関係する地名があらわれる。
「いづくにか 船乗りしけむ 高島の 香取の浦ゆ 漕ぎ出来る船」(#1172)
「大船の 香取の海に いかり下ろし いかなる人か 物思はざらむ」(#2436)
「常陸なる 浪逆の海の 玉藻こそ 引けば絶えすれ あどか絶えせむ」(#3397)
しかし、#1172 と #2436は、どちらも近江の琵琶湖西部を詠んだものである※2。つまり、一見すると「香取の浦」や「香取の海」は内海のことを指しているようで、実際には異なる。また、#3397は明らかに内海のことを詠んでいるが、ここでいう「浪逆の海」はその部分名称に過ぎない。

衣河ノ尻ヤカテ海ノ如シ。鹿嶋梶取ノ前ノ渡ノ向ヒ、顔不見ヘ程也。而ルニ、彼忠恒カ栖ハ内海ニ遥ニ入タル向ヒニ有ル也。然レハ、責ニ寄ルニ、此ノ入海ヲ廻テ寄ナラバ、七日許可廻シ。
*中略*
此ノ海ニハ浅キ道、堤ノ如クニテ、廣サ一丈計ニテ直ク渡リアリ。深サ馬ノ太腹ニナン立ツナル。
あくまでも説話集における描写に過ぎないが、これは平忠常の乱※4が起きたころの情景を鮮やかに描き出している。それほどの描写でありながら、作中での表現は「内海」や「入海」に留まり、固有の名称はあらわれない。
内海に言及する史料として、もっとも古いのは至徳4年(1387) 『大禰宜大中臣長房譲状』※5かと思われる。しかし、ここでも「うちのうみ」と記されているだけで、特別な呼び方はされていない。
常陸国風土記
複数の写本が現存しているが、もとは同じ写本であって、その時点で省略された部分は復原できない※6。本稿で示したのは国立公文書館所蔵・公開のもの (#1240678) である。奥書によれば元禄6年3月4日の日付がある写本を文化12年(1815) 7月に写したもので、『松下見林本』の系統にあたる。群書類従所収のものも含めてNDLDCでも複数の写本が所蔵・公開されている。
注釈
台地と谷津
台地は、平野・盆地において一段高くなっている平坦な土地を指し、基本的に更新世 (洪積世) に形成された洪積層からなっている。谷津は、その台地が長い期間にわたって少しずつ侵食されてできた浅い谷状の地形をいう。以下は標高56メートル以下を強調して示した地形図である (標高56メートル以上と0メートル以下の分解能はない)。

谷津の谷底には平坦な低湿地が形成される。この低湿地は保水性が高い上、湧水によって安定的な水利を得られるため、古くから水田 (谷津田) に利用されてきた※1。また、谷津の傾斜面には同じ理由により樹木が繁茂することから薪炭材を得られ、さらにその上の台地面は草苅場として利用できた。平地における典型的な里山である。
しかし、台地面のうち利用されたのはこのような傾斜面付近に限られ、そこから遠くなるほど不毛の原野と認識された。水利が悪く稲作には不向きだからで、山地・丘陵地から遠く孤立した台地の場合、これが顕著である。こうして生じた空白地が下総・上総国界として漠然と認識された。
谷津・谷戸・谷地
谷津と同一視される言葉に「谷戸」と「谷地」がある。筆者の感覚では、谷津は下総のように孤立した標高の低い台地にみられ、谷底がほとんど平坦なものである。これに対して谷戸は、武蔵・相模のような後背に丘陵地・山地を持ち、標高も高い台地にみられ、勾配があってしばしば階段状になるものである。谷地はもっと漠然と窪地も含めた言葉であって、地域的には東北・北海道に多いように思える。もっとも、すべて「谷」の一文字で表現可能で (『谷』『谷』『谷』)、広くいえば『谷』の一種である。自然発生的に生まれ、生活・文化に強く結びついてきた言葉である以上、そもそも明確な区別はないのかもしれない。なお、鎌倉における「谷」は丘陵地の地形であり、ここでいう谷津とは異なる。
注釈
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、全面改訂・再構成した。
:
- 同、新規作成。
















