ここでは、寛永年間(1624~1644) に分割された下総国 葛飾郡について分析しています。

そもそもどこか?

変動の舞台は、中世の利根川 (大落古利根おおおとしふるとね川) と近世の利根川 (中川~江戸川) に挟まれた地域である。現在の埼玉県 久喜市の北東部、幸手市の大部分、杉戸町の西部過半、春日部市を東西に 3分割した場合の中央、松伏町の南部過半、および吉川市・三郷市の大部分である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.092 二郷半・松伏・幸手・島中川辺 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624~1644)
Fig.092 二郷半・松伏・幸手・島中川辺 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624~1644)
Fig.093 二郷半領 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624〜1644)
Fig.093 二郷半領 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624〜1644)
Fig.094 松伏領 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624〜1644)
Fig.094 松伏領 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624〜1644)
Fig.095 幸手領 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624~1644)
Fig.095 幸手領 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624~1644)
Fig.096 島中川辺領 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624~1644)
Fig.096 島中川辺領 (下総・武蔵国界): 寛永年間(1624~1644)
天保郷帳・国絵図の村々
近世 武蔵国 葛飾郡 二郷半領※1
近世 武蔵国 葛飾郡 松伏領※1)
近世 武蔵国 葛飾郡 幸手領※1
近世 武蔵国 葛飾郡 島中川辺領※1
  • 249. 島川村
  • 250. 高柳村※101
  • 251. 高柳新田
  • 252. 新井村
  • 253. 河原代村※102
  • 254. 狐塚村※103
  • 255. 中里村※104
  • 256. 小右衛門村
  • 257. 広島村※104※105
  • 258. 佐間村
  • 259. 佐間新田
  • 260. がま※106
  • 261. 間鎌新田
  • 262. 松長村※107
  • 263. 伊坂村※108
  • 264. 栗橋町※109

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保武蔵国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

Fig.329 天保武蔵国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.329 天保武蔵国絵図 (国立公文書館所蔵)
注釈

要因と経過

寛永年間(1624~1644)、下総国 葛飾郡は分割され、西半分 (ごうはん領・まつぶし領・さっ領・島中川辺領) は武蔵国 葛飾郡となった。正保武蔵国郷帳・国絵図に相当する『正保年中改訂図』『武蔵田園簿』には、すでにこれらの地域は武蔵国 葛飾郡として含まれている。幸手領のひら村には、寛永4年(1627) と同11年(1634) の検地帳が現存しているが、寛永4年は「下総国勝鹿郡幸手内平須賀村」であるのに対し、寛永11年は「武州幸手之内平須賀村」である。

葛飾郡が分割された理由はわかっていない。地形的には近世の利根川 (利根川・鬼怒川の流路を参照) によって分断が生じたが、これは郡を分割する理由にも、まして分割部分を下総国から武蔵国へ移す理由にもならない。政治上の意味では、中世的な領国意識が残存するなか、武蔵国の領域を広げる意図はあったのかもしれない。分割された一帯は、治水の進展にともなって不毛な沼沢地から豊かな穀倉地帯に変貌する部分である。しかし、徳川の領国という意味では武蔵も下総も変わらず、その国界の位置に意味はない。

あるいは、混乱し曖昧化した境界認識が正されるなか、整理・統廃合の過程でそうなってしまっただけなのかもしれない。葛西御厨と下河辺庄が展開された下総国 葛飾郡は、きょうとくの乱と古河公方の成立以降、上杉陣営 (関東管領) と古河公方が西と東に分かれて睨み合う戦場と化した。さらに、後北条氏が伊豆から相模、そして武蔵へその版図を広げると、事態はますます流動化し、渾沌を極めていくことになった。

そうした中で境界は曖昧化し、新方は岩付 (岩槻) の勢力に呑み込まれてその領域と一体化してしまい、徳川政権 (江戸幕府) にははじめから武蔵国 埼玉郡として把握された。つまりかつて葛飾郡だったという記憶自体がほとんど残らなかった。一方、葛西の場合、武蔵国として把握した後北条氏の領域認識は豊臣政権に引き継がれなかった。しかし、朱印状にしろ国絵図にしろ、下総国として記載されるものもあれば武蔵国として描写されるものもあって、混乱というかたちで残ってしまったようだ。二郷半領・松伏領・幸手領・島中川辺領にも、少なからず同じようなことがあったのだろう。

島中川辺領の特異性

船橋市西図書館蔵の下総一国之図では、島中川辺領にあたる部分に「武蔵」とあって下総国には含められていない。

Fig.660: 船橋市西図書館所蔵 下総之国図 (船橋市デジタルミュージアム公開)
Fig.660: 船橋市西図書館所蔵 下総之国図 (船橋市デジタルミュージアム公開)

地形的にはその領域名称にあらわれているように諸河川が乱流する地域にあるほか、武蔵・下野・下総 3国の国界に存在する。ここに曖昧化の背景があるのは確かだが、いまのところこれ以上はわからない。なお「島中川辺」の読みについて『新編武蔵国風土記稿』の浄書稿本は「島中河邉」の表記で「シマチウカワヘ」と読ませている。しかし一般には「しまなかかわべ」と読むので、本稿もこれに従った。

宝聖寺末寺帳

宝聖寺末寺帳は、現在も幸手市 平須賀 (近世 武蔵国 葛飾郡 幸手領 平須賀村) に所在する宝聖寺の末寺帳である。慶長11年の写本が残り、翻刻されたものが『埼玉の中世文書』(1960)『鷲宮町史 史料3 中世』(1982) などに所収されている。

本土寺過去帳

本土寺過去帳は、千葉県 松戸市に現存する長谷山ちょうこくさん ほんの過去帳である。過去帳は檀家・信徒の法名・実名・亡くなった年月日・年齢などを記録した帳簿である。点的な情報の集合であることから、扱いには注意が必要だが、膨大な量の人名・地名を含み、特に中世の史料が十分でない周辺一帯の過去を探る上で貴重な史料となっている。「天正本」と呼ばれる系統の本土寺所蔵原本 (本来の表題は『大過去帳』) を翻刻したものに『千葉県史料 中世編 本土寺過去帳』(1982) があり、これにはほかの系統・写本・翻刻についての詳しい解説も含まれる。調査には『本土寺過去帳年表』(1985)『本土寺過去帳地名総覧 上』(1987)『同 下』(1987) を併用するとよい。

武蔵田園簿

武蔵田園簿は正保武蔵国郷帳に相当する史料である。東京大学史料編纂所が所蔵し、『武蔵田園簿』として公開されている。翻刻・校訂されたものとしては『武蔵田園簿』(1977) がある。

Fig.731 武蔵田園簿 第7巻 (部分・東京大学史料編纂諸所蔵)
Fig.731 武蔵田園簿 第7巻 (部分・東京大学史料編纂諸所蔵)

データシート

データシート (葛飾郡: 下総・武蔵国界)
変動地域葛飾郡 (西部)
要因徳川政権による再編成
曖昧化の時期織豊期~江戸初期
変動の確定時期寛永年間(1624~1644)

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として、全面改訂・再構成した。

:

  • 同、新規作成。