| ^ ※1: | 元禄郷帳・国絵図との対照を含む。 |
| ^ ※2: | [中世~織豊期] 文明18年(1486): 「なり田」(なか田、廻国雑記、古河市史 資料 中世編,1981)、天文23年(1554): 「先御落居之地廿五郷」の「上中田」「下中田」(足利梅千代丸印判状)。なお、古河市史 資料 別巻(1973) 所収の「古河志」によれば、古くは「上伊坂村」と呼ばれていたとされることから「上伊坂」も本村の一部にあたると考えられる。 |
| ^ ※3: | [中世~織豊期] 永禄10年(1567): 「關宿宿之地・水海之地」(北条氏政起請文写、古河市史 資料 中世編,1981) 、天正4年(1576): 「下總國栗橋實相寺、五日逗留、水海昌福寺ニ十日、古河ノ□福寺ニ四日逗留」 (□福寺 = 昌福寺、堯雅僧正関東下向記録、同)、ほか。 |
| ^ ※4: | [中世~織豊期] 文永12年(1275): 「下總國下河邊莊前林・河妻兩鄕幷平野村」(金沢実時譲状、古河市史 資料 中世編,1981) 、天正2年(1574): 「古河・關宿之間」の「前橋」(御料所方認書) 、ほか。 |
| ^ ※5: | [中世~織豊期] 文永12年(1275): 「下總國下河邊莊前林・河妻兩鄕幷平野村」(金沢実時譲状、古河市史 資料 中世編,1981) 、天正2年(1574): 「古河・關宿之間」の「河妻」(御料所方認書) 、ほか。 |
| ^ ※6: | [中世~織豊期] 鎌倉末期: 「取陣于小手差原小堤等之処〻合戦」(吾妻鏡、記事は養和元年(1181) 閏2月23日)、天文23年(1554): 「先御落居之地廿五郷」の「小手指」(足利梅千代丸印判状)、ほか。 |
| ^ ※7: | [中世~織豊期] 天正2年(1574): 「古河・關宿之間」の「大福田」(御料所方認書)。 |
| ^ ※8: | [中世~織豊期] 康暦3年(1381): 「下河辺荘栗指郷」(某充行状、春日部市史 第2巻 古代・中世史料編,1989)、天文23年(1554): 「先御落居之地廿五郷」の「栗橋」(足利梅千代丸印判状) 、ほか。 |
| ^ ※9: | 江戸初期までは「栗橋村」。現在の栗橋 (埼玉県久喜市の栗橋駅東側) に宿場などの機能が移され「元栗橋村」となった。 |
| ^ ※10: | [中世~織豊期] 永禄12年(1569): 「山王山」(北条氏照書状、鷲宮町史 史料3 中世,1982)、天正5年(1577): 「三王山」(同)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。 |
| ^ ※11: | 武蔵田園簿・正保年中改定図・元禄郷帳・元禄年中改定図との対照を含む。 |
| ^ ※12: | 武蔵田園簿・正保年中改定図では 227. 高須賀村と 245. 高須賀村の 2つの「高須賀村」と、下宇和田村・上宇和田村にあたる 2つの「宇和田村」が存在する。それぞれ前者が後者の新田であり、のち分村したものとみられる (幸手市史 通史編1, 2002)。宇和田村は元禄郷帳以後「下宇和田村」「上宇和田村」と区別されるが、高須賀村は双方「高須賀村」のままであり、区別はない。 |
| ^ ※13: | 武蔵田園簿・正保年中改定図では「高須加村」。 |
| ^ ※14: | 武蔵田園簿では松石村の直後にある 223石余の「高須加村」。 |
| ^ ※15: | [新田・分村] 武蔵田園簿・正保年中改定図では「~新田」。 |
| ^ ※16: | 明治12年(1879) 北広島村に改称、したがって対応する近代の大字は「北広島」。 |
| ^ ※17: | 元禄郷帳・国絵図との対照を含む。 |
| ^ ※18: | [中世~織豊期] 建武3年(1336): 「下總國相馬郡內」の「津〻戶」(斯波家長奉書、取手市史 古代中世史料編, 1986)。 |
| ^ ※19: | [新田・分村] 元禄郷帳・国絵図では「大木村之枝郷」、天保郷帳・国絵図では「大木村枝郷」と付記される。 |
| ^ ※20: | 北相馬郡志(1918) によれば、安永6年(1777) に「大山新田」へ改称、現在の大字も「大山新田」。守谷町史(1985) によれば、明和9年(1772) の大火 (目黒行人坂の大火) 後の復興のため、山林のすべてを木材として供出し、そのあとを新田として開発したという。 |
| ^ ※21: | [新田・分村] 利根町史 第2巻 史料集(1983) によれば、はじめ「曲田新田」。 |
| ^ ※22: | [新田・分村] 利根町史 第2巻 史料集(1983) によれば、はじめ「羽墨新田」。 |
| ^ ※23: | 対応する近代の大字は「下曽根新田」だが、昭和30年(1955)「下井」に改称。 |
| ^ ※24: | [新田・分村] 利根町史 第2巻 史料集(1983) によれば、はじめ「松木新田」。 |
| ^ ※25: | [中世~織豊期] 文保2年(1318):「下つさの國さむまの內、ふかわのむら」(道義 (島津忠宗) 譲状、取手市史 古代中世史料編,1986)、元亨3年(1323):「下總國相馬御厨內符河・押手・甲斐御房三ケ村代官職」(沙弥称恵譲状案、同)、ほか。 |
| ^ ※26: | [古代~織豊期] 承平年間(931~938): 下総国 相馬郡 布佐郷 (和名類聚抄)、延徳5年(明応2年, 1493): 「布佐」((『本土寺過去帳』)。 |
| ^ ※27: | 元禄郷帳・国絵図との対照を含む。 |
| ^ ※28: | [中世~織豊期] 大永5年(1525): 「蓮花院 摩木地」(宝聖寺末寺帳、鷲宮町史 史料3 中世,1982)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。 |
| ^ ※29: | [中世~織豊期] 天文8年(1539)「坂東中戶 常敬寺」(石山本願寺日記 上巻,1966)、永禄8年(1565)「中戸」鷲宮町史 史料3 中世,1982) 。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。 |
| ^ ※30: | 明治9年(1876) に合併し木津内村、したがって近代の対応する大字は「木津内」。 |
| ^ ※31: | [新田・分村] 正保年間(1644~1648) ごろ開発、慶安年間(1648~1652) ごろ成立 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※32: | [中世~織豊期] 大永5年(1525): 「観音院 桐賀作」(宝聖寺末寺帳、鷲宮町史 史料3 中世,1982)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。 |
| ^ ※33: | [中世~織豊期] 大永5年(1525): 「金剛院 小府内」(宝聖寺末寺帳、鷲宮町史 史料3 中世,1982)。直接的な国郡・広域地名の記載は見当たらない。 |
| ^ ※34: | [中世~織豊期] 慶長4年(1599):「同國分」(同國 = 下總國) の「おやのい一圓」 (香川県史 第8巻 資料編 古代・中世史料,1986)。 |
| ^ ※35: | [新田・分村] 正保年間(1644~1648) ごろ開発、慶安3年(1650)「深輪新田」として成立、延宝3年(1675) 改称 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※36: | [新田・分村] 正保3年(1646) 開発、慶安3年(1650)「椿村新田」として成立、延宝3年(1675) 改称 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※37: | [新田・分村] 寛永年間(1624~1644) ごろ開発、慶安3年(1650)「~新田」として成立、延宝元年(1673) に改称 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※38: | [中世~織豊期] 天正2年(1574): 「庄內河邊」の「宝珠花」(御料所方認書)。 |
| ^ ※39: | [新田・分村] 寛永年間(1624~1644) 以後の開発、慶安年間(1648~1652) ごろ「吉妻新田」として成立、延宝元年(1673)「吉妻村」に改称、天和2年(1682) に上下分村 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※40: | [新田・分村] 寛永3年(1626) 開発、慶安3年(1650) 「倉常新田」として成立、延宝3年(1675) 改称 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※41: | [新田・分村] 寛永年間(1624~1644) 以後に開発、慶安年間(1648~1652) ごろ「小平新田」として成立、延宝元年(1673) 改称 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※42: | [中世~織豊期] 大永5年(1525): 「満福寺 庄内 金野井」(宝聖寺末寺帳、鷲宮町史 史料3 中世,1982)。 |
| ^ ※43: | [新田・分村] 正保元年(1644) 以後の開発 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※44: | [新田・分村] 寛永年間(1624~1644) 以後の開発 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※45: | [新田・分村] 寛永年間(1624~1644) ごろ開発、正保年間(1644~1648) に成立 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※46: | [中世~織豊期] 天文23年(1554): 「先御落居之地廿五郷」の「中里」(足利梅千代丸印判状)、天正2年(1574): 「庄內河邊」の「中里」(御料所方認書)、同「中里郷」(白戸越前守宛知行充行状)。 |
| ^ ※47: | [中世~織豊期] 天正2年(1574): 「庄內河邊」の「五木」(御料所方認書)、天正3~4年(1574~1576): 「五木」(古河公方家料所書立案。 |
| ^ ※48: | 元禄郷帳・国絵図では「古者小田辺村」と付記される。承応3年(1654) の改称 (武蔵国郡村誌)。 |
| ^ ※49: | [中世~織豊期] 天正2年(1574): 「庄內河邊」の「岩な」(御料所方認書)、天正3~4年(1574~1576): 「岩名」(古河公方家料所書立案)。 |