28.1.2. 鬼怒川曲流部跡
古代の下総・常陸国界は鬼怒川だったが、1箇所だけ流路と国界が一致しない個所がある。


続日本紀 第6巻 下総国言さく「天平宝字二年に本道の問民苦使正六位下 藤原朝臣浄弁等、具に毛野川を堀り防ぐべきの状を注して官に申し、聴許已に訖りて其の後已に七年を経たり。常陸国の移を得るに曰く『今官符を被りて方に川を掘らんと欲す。其の水道を尋ぬるに当に神社を決すべし。加以、百姓の宅損ずる所少なからず。是を以て状を具にして官に申す。宜しく掘ること莫れ』と。者れば此頻年洪水ありて損決すること日に益す。若し早く掘り防がずんば、恐らくは渠川崩埋して一郡の口分二千余田、長く荒廃ならん」と。是に於て両国に仰せて掘らしむ。下総国結城郡 小塩郷 小島村より常陸国 新治郡 川曲郷 受津村に達する一千余丈。其の両国の郡堺は亦旧川を以て定と為し、水に随いて移し改むることを得ず |
原文: 下総國言、天平寶字二年、本道間民苦使正六位下藤原朝臣淨弁等、具注應掘防毛野川之狀申官、聽許已訖其後已經七年。得常陸國移曰、今被官符方欲掘川。尋其水道當次神社。加以、百姓宅所損不少。是以具狀申官。宜莫掘者此頻年洪水損決日益。若不早掘防、恐渠川崩埋一郡口分二千餘田長爲荒廢。於是仰兩國掘。自下総國結城郡小鹽郷小嶋村達于常陸國新治郡川曲郷受津村一千餘丈、其兩國郡堺亦以舊川爲定不得隨水移改 |
つまり、洪水の被害を軽減するため流路が変更されたが国界は古い流路のままとされた、とされ、これが流路と国界が一致しない箇所にあたる※2。

注釈
28.1.3. 縄文海進と内海
およそ46億年といわれる地球の歴史の中で、現在の我々は「新生代」の「第四紀」という時代に生きている。この「第四紀」とは「ジュラ紀」や「白亜紀」などでおなじみの「紀」の最後で、(大雑把に) 約250万年前にはじまったとされ、現在より遠いほうから「更新世」と「完新世」に分けられる。「更新世」は以前は「洪積世」と呼ばれ、洪積層 (台地) が形成された時代、「完新世」は同様に「沖積世」と呼ばれ、沖積層 (低地) が形成された時代である。完新世は最終氷期、つまり気候が寒冷で氷河が発達した期間のうち、現在にもっとも近いそれが終了した (同じく大雑把に) 約1万年前からはじまっている。
その完新世の初期、氷河の融解によって海面は急上昇し、海は内陸に向かって深く入り込んだ。日本ではこれを「縄文海進」と呼び、海面は現在よりも2~3メートル高く、そのピークは 7300~7000年前とされる※1。現在の標高でいえば、関東平野の低地部ではおおむね10メートルまでが海だったと推定され、房総半島南端では20メートル以上だったという。これは隆起の影響を受けているためで、差は隆起速度の違いに起因する。
縄文海進ピーク時の海岸線は貝塚の分布に相関することが古くから知られ、これをあらわすと以下のようになる。

このとき形成された内湾のうち、現在の江戸川・中川・荒川流域に発達したものを「奥東京湾」、同じく利根川・鬼怒川流域のものを「古鬼怒湾」(または『奥鬼怒湾』) という。奥東京湾はその後の海退にともまってほぼ消滅したが、古鬼怒湾は現存する霞ケ浦 (西浦・北浦) 等の湖沼とともに、広大な内海として残って下総・常陸の国界となった。かつての霞ケ浦のように浅い汽水湖のような環境だったと考えられる (現在の霞ケ浦は淡水湖とされる)。

ところでこの内海はかつてどのような名前で呼ばれていたのだろうか。結論からいえば、それは残念ながら明らかではない。
『常陸国風土記』では部分ごとに「信太の流海(ながれうみ/りゅうかい)」「榎浦の流海」「佐礼の流海」「高浜の海」「行方の海」「安是の湖」と呼ばれている。しかし全体の呼称には言及がない。 部分
国立公文書館所蔵)

国立公文書館所蔵)

万葉集
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しかし #1172 と #2436は、どちらも近江の琵琶湖西部を詠んだものである※2。つまり一見すると「香取の浦」や「香取の海」は内海のことを指しているようで、実際には異なる。また #3397は明らかに内海のことを詠んでいるが「浪逆の海」は現在でも残部が「外浪逆浦」として残る部分名称である。

今昔物語集 衣河ノ尻ヤカテ海ノ如シ。鹿嶋梶取ノ前ノ渡ノ向ヒ、顔不見ヘ程也。而ルニ、彼忠恒カ栖ハ内海ニ遥ニ入タル向ヒニ有ル也。然レハ、責ニ寄ルニ、此ノ入海ヲ廻テ寄ナラバ、七日許可廻シ。 | 此ノ海ニハ浅キ道、堤ノ如クニテ、廣サ一丈計ニテ直ク渡リアリ。深サ馬ノ太腹ニナン立ツナル。 |
これはあくまでも説話集における描写に過ぎないが、平忠常の乱 (長元元年~3年, 1028~1030) 頃の情景を鮮やかに描き出している。それにもかかわらず「内海」や「入海」であって固有の名称はない。
内海に言及する史料としてもっとも古いのは至徳4年(1387) 『大禰宜大中臣長房譲状』※4かと思われるが、ここでも「うちのうみ」とあり、特別な呼び方はされていない。
煩雑になるのを避けるため、縄文海進ピーク時の推定図はシンプルなものに留めたが、一方で現在のどの範囲にあたるのかはわかりづらい。そこで少々見づらくはなるが、現行政界・交通関係を重ねたものを示せば以下のようになる。

複数の写本が現存しているが、もとは同じ写本であって、その時点で省略された部分は復原できない※5。本稿で示したのは国立公文書館所蔵・公開のもの (#1240678) である。奥書によれば元禄6年3月4日の日付がある写本を文化12年(1815) 7月に写したもので、『松下見林本』の系統にあたる。群書類従所収のものも含めてNDLDCでも複数の写本が所蔵・公開されている。
注釈
28.1.4. 下総台地
下総国を特徴づける地形に「台地」と「谷津」がある。台地は平野・盆地にあって一段高くなっている平坦な土地を指し、基本的に更新世 (洪積世) に形成された洪積層からなっている。一方で谷津は、その台地が長い期間にわたって少しずつ侵食されてできた浅い谷状の地形をいう。台地のうち現在の千葉県北部の一体を下総台地 (または両総台地) と呼ぶ。以下は標高56メートル以下を強調して示した地形図である (標高56メートル以上と0メートル以下の分解能はない)。

谷津は縄文海進の進行によって溺れ谷となったあと、その谷底には堆積によって平坦な低湿地が形成された。このような低湿地は保水性が高い上、湧水によって安定的な水利を得られるため、古くから水田 (谷津田) に利用されてきた※1。また谷津の傾斜面には同じ理由により樹木が繁茂することから薪炭材を得られ、さらにその上の台地面は草苅場として利用できた。平地における典型的な「里山」である。
しかし台地面のうち利用されたのはこのような傾斜面付近に限られ、そこから遠くなるほど不毛の原野と認識された。水利が悪く稲作には不向きだからで、山地・丘陵地から遠く孤立した下総台地の場合、これが顕著である。そしてこうして生じた空白地が下総・上総国界として漠然と認識された。
「谷津」と同一視される言葉に「谷戸」と「谷地」がある。筆者の感覚では、谷津は下総台地のように孤立した標高の低い台地にみられ、谷底がほとんど平坦なものであり、谷戸は武蔵・相模のような後背に丘陵地・山地を持ち、標高も高い台地にみられ、勾配があってしばしば階段状になるものである。谷地はもっと漠然と窪地も含めて言葉であって、地域的には東北・北海道に多いように思える。もっともすべて「谷」の一文字で表現可能で (『谷』『谷』『谷』)、広くいえば『谷』の一種である。自然発生的に生まれ、生活・文化に強く結びついてきた言葉である以上、そもそも明確な区別はないのかもしれない。なお鎌倉における「谷」は丘陵地の「谷」であり、ここでいう谷津とは異なる地形である。