28.1.2. 鬼怒川曲流部跡

古代の下総・常陸国界は川だったが、1箇所だけ流路と国界が一致しない個所がある。

Fig.206 9世紀はじめの下総国続日しょくにほんじんけいうん2年(768) 8月19日の記事に以下のように書かれている※1

Fig.643 続日本紀 第29巻 明暦3年(1657) 刊本 (部分・国立公文書館所蔵)
続日本紀 第6巻

下総国もうさく「天平宝字二年に本道の使正六位下 藤原朝臣あそんじょうべん等、つぶさに毛野川を堀り防ぐべきのさましるして官に申し、ちょうきょすでおわりて其の後すでに七年を経たり。常陸国のうつしを得るに曰く『今官符を被りてまさに川を掘らんと欲す。其の水道を尋ぬるにまさに神社をけっすべし。加以しかのみならず、百姓の宅損ずる所少なからず。ここもっさまつぶさにして官に申す。宜しく掘ることなかれ』と。てえればこれ頻年洪水ありて損決すること日に益す。し早く掘り防がずんば、恐らくはきょせんほうまいして一郡の口分二千余田、長く荒廃ならん」と。ここおきて両国に仰せて掘らしむ。下総国結城郡 小塩郷 小島村より常陸国 新治郡 川曲郷 受津村に達する一千余丈。其の両国の郡堺はまた旧川を以て定とし、水にしたがいて移し改むることを得ず

原文: 下総國言、天平寶字二年、本道間民苦使正六位下藤原朝臣淨弁等、具注應掘防毛野川之狀申官、聽許已訖其後已經七年。得常陸國移曰、今被官符方欲掘川。尋其水道當次神社。加以、百姓宅所損不少。是以具狀申官。宜莫掘者此頻年洪水損決日益。若不早掘防、恐渠川崩埋一郡口分二千餘田長爲荒廢。於是仰兩國掘。自下総國結城郡小鹽郷小嶋村達于常陸國新治郡川曲郷受津村一千餘丈、其兩國郡堺亦以舊川爲定不得隨水移改

つまり、洪水の被害を軽減するため流路が変更されたが国界は古い流路のままとされた、とされ、これが流路と国界が一致しない箇所にあたる※2

Fig.187: 鬼怒川曲流部跡の地形

^ ※1: 訓読・読み仮名は『国文六国史 第4』(1935)・『完訳・注釈 続日本紀 巻第23~巻第29』(1987)・『続日本紀 上』(1992, 宇治谷) などを参考にした。原文の句読点は筆者が補った。
^ ※2: 『結城市史 第4巻 古代中世通史編』(1980)・『八千代町史 通史編』(1987) に詳しい論考があり、『村史 千代川村生活史 第5巻 前近代通史』(2003) で総括されている。